佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』<第一期>(終刊)


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2017年八月号にて、<第一期>を休刊としました。  2018年二月号『富士山麓(第二期)』をもって再出発としました。  よろしくお願いします。     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ なお、過去5年間の俳句個人誌『富士山麓』の句から選んで句集としてまとめました。 続 佐々木敏光句集『富士山麓・晩年』(邑書林) として発売中です。   タイトルは「晩年や前途洋洋大枯野」に由来します。

《目次》(俳句個人誌『富士山麓』)

2017年  八月号(新刊) 七月号 六月号 特別号 五月号 四月号 三月号 二月号  一月号 2016年  十二月号 十一月号 十月号 九月号(五年目) 八月号 七月号 六月号 五月号 四月号 三月号 二月号 一月号 2015年  十二月号 十一月号 十月号 九月号(四年目) 八月号 七月号 六月号 五月号 四月号 三月号 二月号 一月号 2014年  十二月号 十一月号 十月号 九月号(三年目) 八月号 七月号 六月号 五月号 四月号 三月号 二月号 一月号 2013年  十二月号 十一月号 十月号 九月号(二年目) 八月号 七月号 六月号 五月号 四月号 三月号 二月号 一月号  2012年  十二月号 十一月号 十月号 九月号(創刊) 奥付

 
      芭蕉の「つひに無能無才にしてこの一筋につながる」の「この一筋」は畏れ多いが、馬      齢を重ね最後に残されたものとして俳句が「この一筋」ともいえる大きな存在になっている。       現在結社や団体に属していないこともあり、芭蕉の最晩年の句の「この道やゆく人なしに      秋の暮」といった風景であるが、あまり重くならずに淡々と「この道」をゆくしかない。       芭蕉の「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」を思う。       「流行」における「新」はともかく「不易流行」における「新」の難きを思う。       勿論、俳句は「俳」の世界でもある。「俳」の心、「滑稽、おどけ」の心、つまり「遊び      の心」も大切にしたいと思っている。     (2012.8.31. 創刊) 


   一月一句以上  ( 『続・佐々木敏光句集』へむけて )     ☆ 毎月「一句以上」を掲載してゆく。タイトル月の前月の月末を編集の締切とする。     ☆ 最近号が最前に出る様、順次アップする。なお掲載句は、当季でない場合もありうる。                                                     ご感想などメールはこちらへ **** 八月号 (2017年) **** (2017.7.29. 発行) ******      霊気満つ滝の空ゆく黒揚羽     夏霧と共に谷へと降りくだる     うぶすなや若葉まとへる老大樹     神ゐます大和三山霧の中     万緑や中途半端に生きてきた     大学はレジヤーランドよ蝉の殻     暗闇に星のかけらの蛍かな     黒き影海鵜となりて魚をのむ     ブレーキのきかぬ自転車合歓の花     生き急ぐ声の充満朝の蝉     夏落葉身軽く風に乗り空へ     山百合や揚羽痙攣しつつ吸ふ     虫の音の中をヨツトの船出かな     トンネルの奥に明るき夏がある     バー抱き炎天墜つる若者よ     クチナシの開く音あり庭の隅     雲割れて青き富士あり梅雨晴間     長き夜の永き眠りの端緒かな     イタリアの野に満つ霧やルビコンを       古くからの富士登山道 村山古道      苔青し苔の浄土の古道かな     梅雨晴や崩れし沢崖越ゆ古道     出迎えはアサギマダラの古道かな     団子虫十四本の足をもつ     音信のなき友癌死青嵐     合歓の花夕空染めるころとなる     短夜の写真の孫のピースかな       山宮神社遥拝所 数日経て二句     梅雨空の奥なる富士を拝しけり     梅雨晴の大きな富士を拝しけり     夏富士へ心の銅鑼をならしけり     青山河茂吉山河を徒ち歩く     凛として静止のヤマメ滝の上     対岸の火事を見てゐる木下闇         老旅人われは泉の水を飲む     わが妻はラインにはまり地球夏     アザミ咲く野にたち宇宙の果て思ふ     しんしんと山寺の蝉耳底より     夕暮や山百合の香ややうとし     山百合の豪華妖艶夕闇に     油断して帽子を忘れ炎天下     高原やストラデイバリウスひびく夏             巴里祭断頭台は闇の中     革命はつねに未完や月見草     夏霧のわく静けさの森住ひ     鳥たちのはづむ歌声夏の朝     万緑と富士を知足の森住ひ     カナブンをアブの吸ひ切る一時間     荒蝉の音声戦国時代かな     古民家の闇より炎天出でゆかむ     炎天やゲートボールの人元気       白糸の滝     涼しさの底へ幾千こゆる糸     霧ととも流れ来る水夏の川     じじ     祖父として孫をあづかる夏休     かなかなや森の奥へと夏は去る     声といふ炎燃え立つ虫の闇        ☆ ☆ ☆     大宇宙個のわれ染めり初日の出     夜桜や野外劇場影が舞ふ     沈黙の最後雄弁花吹雪     晩年のいづこの宙を落花かな     大銀河わたる大きな影一つ     黒き血のうかぶ満月コロセウム     星月夜庭全景の歌ひだす     わが虚無は未完なりけり大銀河     このわれにわれパラサイト秋の暮     神無月山河も里も自然体     脳髄に隠れ潜む鬱去年今年       枯蟷螂        こかう     蟷螂や枯高の威もて死に対す           枯高:茶道や禅の語「枯れ長けて強い」       そして初富士     憤懣と呪詛を清めて除夜の富士     遠富士や気合でわたる大枯野  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆ この8月号で、しばらく休刊とします。4,5カ月、最大半年間です。 過去5年間の句をまとめる時間をとりたいと思います。 とともに再刊後の構想をも練りたいとも思います。 再刊後は、季刊となるかもしれません。よろしくお願いします。 最後の号ということで、多様な句をと、かなり緊張して準備しました。 最後の号、よろしくと申すより他ありません。 準備する句集については、次のような点を考えています。 1)最初の号から時系列に掲載する。 2)各号の「後記」は省略する。 3)句の掲載数は、大胆に絞り込む。ただし、掲載句は、この個人誌の順にあわせる。 4)「二十代に書いた短編のレジュメ前書き付き俳句」を最後の章とする。 5)タイトルは『富士山麓・晩年』とする。  ご意見をいただければ幸甚です。    目次へ **** 七月号 (2017年) **** (2017.6.29. 発行) ******      新緑に裾かがやけり雪解富士     雪解富士輝き尖る残る雪     万緑や音なき楽の澄み渡る     携帯のどこかで鳴つてゐる夏野       信長首塚     信長の首より大き濃紫陽花     わが家へと吹かれて来たる蛍かな       身延 枝垂桜     地に触れて濃き葉桜の身延かな       本堂        こがね     万緑や黄金はなやぐ仏世界     原節子地下隠遁の大暑かな     万緑や苦手な人がやつてくる                   たま     荒梅雨やかなたにともるひとの魂     荒梅雨の富士塚よりの出水かな     荒梅雨やお化け屋敷に入る車     荒梅雨や屋根付き駐車場満車            笹百合の花開く     花粉にて汚れる前のユリの無垢     丹田に力をいれて炎天を       耕作放棄地     繁茂せる荒野や赤き蛇苺          青空へ心のわれは泳ぎだす     シヤツター街あゆむ男の玉の汗     山鳩が夏の芝ゆく餌をつつく     鹿母子の目澄み渡りけり夏の朝     夏の水響く森なりいばりする       眼下     夏の河蛇のごとくに霧ながる     紫陽花の手毬とんとんつきたしと     呆けたる夏はじまりぬ終りけり     バラの花散り敷くかなた雪解富士     炎天となりゆく朝日飲み込まん               ひき     われ呼ぶか森の奥より蟾蜍のこゑ     言葉てふ薬物もちて夏の街     やほよろづ     八百万の神万緑に染まるとき     投票へ向ふ夫婦や青田道       逆さ富士     校庭のプールの富士へ飛びこめり     青葉風キリンの首はやや下位に       昔訪れたパリ近郊オーヴエール(ゴッホの終焉の地)のゴッホ兄弟の墓の背後に広       がつた麦畑の麦の穂を偶然小さな箱に見つける 麦の穂を窓辺に置いてみる     青葉風オーヴエールの麦窓辺にと       空襲の夏     記憶なし母の背中のあの夏の     身一つを撥とし祭の太鼓かな     母雉へ飛べる子雉や青田原     脳髄の森を鳥鳴く夏の朝     炎天や登呂の旧居に火をおこす     炎天や登呂の田圃の余り苗        うみ     炎天や湖の真中を土着鴨     万緑や真赤な花が揺れてゐる     鳩ととも茅の輪をくぐることとなる     すでに見た夢を生きてる汗の中        ☆ ☆ ☆ ☆ ☆      それぞれは正しき御仁花吹雪     春落葉わが白髪へふんわりと     狂気へと正義変貌星月夜       どんどん縮んでゆく     背丈だけ阿修羅に近し秋の暮     もともとは神は鳥なり星月夜     銀漢や過去も未来も遠ざかる                 らふらふ     銀漢やベツドに目覚むわが老狼     俳句はも絶滅危惧種帰り花  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  饒舌はやめる。次号に御注意をお願いします。    目次へ **** 六月号 (2017年) **** (2017.5.30. 発行) ******      若葉風かほる大空雪解富士     雪の羽根ひろげて空へ雪解富士           大空に空の淡さの雪解富士     富士はいま雪解の時を生きるのみ     月と滝かかげ漆黒富士の空       夜見える時計や夏の午前二時     夏の朝雨のこだまと鳥のこゑ       一応別荘地 地価暴落     売り土地の札へ涼しき森の風     高原の風さわやかや鯉幟            大井川     SLに手を振る日本若葉谷       硝子戸から     漱石にあらねど窓辺の若葉かな     若葉風両岸結ぶ糸電話       サファリパーク     猛獣のゆるくねそべる炎天下     夏埃あげてポニーの競馬かな     シマウマはたつて寝てゐる若葉かな       運動なのだ     我に負荷与えのぼるや若葉道     これよりは神の領域著莪の花     熊出没注意の札へ花吹雪     耳元で鶯鳴ける無聊かな     玻璃窓に尾の揺れてゐる五月かな     行く道の果てはおぼろや朧月     無職なる我の耳へと閑古鳥     躑躅花天への崖を咲きのぼる     天地にわれのさまよふ雷雨かな     夏散歩富士のあれこれ聞かれをり     初夏の東京暗き風が吹く       山形の旅  二十六句     初夏の風にさそはれ東北へ     初夏や奥羽の山の雪の筋       山寺     蝉の声染み込む岩や苔の青     無欲にてのぼりてをれば奥の院     月山と鳥海見ゆる桜かな       芭蕉乗船の地     流水へ散りこむ花や船出の地     滝と花ともに散りこむ最上かな     雪月花最上の今は若葉かな       最上川にも河童淵     鎮まれる夏の力や河童淵       羽黒山     三山の神に柏手や青葉騒     全山の緑の中に合掌す     月山の雪かがやける若葉かな     鳥海の富士のごと立つ青葉かな     尾花沢井戸に散りゆく桜花               どき     郭公や芭蕉の道も下校時     清風も紅花も無く尾花沢     紅花はなくて夕日の紅の花     山菜の旨き陸奥深酒す     東北の風と緑の水田かな     月山の残雪照らし夕日落つ     東北のさへづり浴びて目覚めたり       封人の家 たまたま妻がその役を与えられる     朝寒や囲炉裏にまんづ火をおこす       封人の家は馬屋も含み、馬の模型がおいてある       ばり     馬の尿聞こゆる囲炉裏火を入れる            芭蕉:「蚤虱馬の尿する枕もと」       芭蕉古道     東北の緑したたる芭蕉道     分水嶺流るる桜花みぎひだり       尿前の関     しとまえ   ばり     尿前をこえて尿する若葉かな         鳴子温泉     足湯して肩に散りゆく桜かな     風死せり沈黙深きシヤツター街     厠にて三光鳥を聞ける幸                              夏草やカモシカ無欲に食みてゐる     輝ける若葉や幹は黒々と     目に痛き若葉や診察室の窓     三光鳥車をおりて聞いてゐる     小綬鶏のつれそひ歩く夏の朝     階下より妻笑ふ声若葉宿        かた     富士の方つばめ消えゆくあらはれる     金蘭と振り返りたる山路かな     夏の朝森の緑の静心     おちこちに無法世界や夏嵐     新緑の爆発せる地われら住む                つが     山椒薔薇花弁の中に番ふ虫        ☆     春の野や天の子らへと梯子掛く     苔の花満開春の山路かな     立上りじやれ合ふ熊たち春の森     やはらかく春の影ある畳かな         いさわ     足湯して石和の春を満喫す     春落葉こだまは森をとどろけり    ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  思うことは多いが、精進するよりほかはない。    目次へ **** 特別号 (2017年) **** (2017.5.29. 発行) ******   この「富士山麓」で最近何号かにわけて掲載したいわゆる「二十代に書いた短編のレジユメ前書き付 き俳句」をここにまとめてみる。いづれ、句集を発行する際には、一つの章となるはずである。        二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。        その中に、「Oh No」という短編があつた。        普段はあまり考えることのない男の「脳(No)」が、男が珍しく思索にふけると、騒々        しく、暑すぎると言つて家出をしてしまう話である。     わが脳はどこかに家出秋の暮        二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。        その中に、「妊婦バス」という短編があつた。        主人公は若い男性。来たバスにのると、妊婦ばかりであつた。保健所に着いた。流れの        中で不本意ながら列に並んだ。医者に「おめでとう。妊娠です」と告げられた。帰つた        ら恋人は「よかつた。あなた産んでね」と言つた。     妊婦バス師走突き抜け未来へと        二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。        その中に、「小便小僧」という短編があつた。        いわゆる大学闘争(紛争)時代の京都の少年である。歩いてゐたら、火炎瓶が転がつて        きた。尿意を感じていた時で、好奇心から小便をかけてみた。消えた。        それから少年は、陰ながら消火にはげむこととなつた。少年の自信は膨張した。        最後「これなら原爆だつてけせるぞ」と興奮して火炎壜のとびかう最前線に飛び出す。        その後フランス滞在の一時期、ベルギーのブリユツセルの町角の小便小僧の像にもまみ        えた。        伝説がある。爆弾の導火線を小便をかけて消し、町を救った少年がいたというその伝説        は、小説発想時には知らなかつた。     小便の霧のかなたの冬の虹        二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。        その中に、「*(こめじるし)氏は太つた」という短編があつた。        *氏は平凡な、いやむしろうだつのあがらないサラリーマンであつた。ところがある日、        とあるプラス思考を刺激する本に出会い、奇特にも人がすつかり変わつてしまつた。積        極的になり、仕事にも大いに熱がはいつた。食欲もぐんぐんわいてきた。その結果大い        に太つた。太りに太つた。限界ぎりぎりというまで太つた。        充実の毎日、安堵のある時、プツリと小さな音が聞こえた。その後もときどき響いてく        る。気にかからないわけではないが、積極的に聞かないふりをして過ごした。        最後の夕べ。駅におりたち、団地への道を家にむかつた。通奏低音のようにその音は静        かに鳴りつづけた。その中で意識がもうろうとしてきた。        翌日、奥さんが団地のドアをあけると、おが屑めいた線があるのをみつけた。        それをたどると駅の方まで続いてゐた。     底しれぬ心の軌跡春の闇        二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。        その中に、「マツカーサー」という短編があつた。        太平洋戦争終結五、六年後のことだつた。子供たちは群れて遊んでゐた。        彼らの前に、浮浪者気味で少し頭のたりないような大人がいた。子供たちの遊びの一つ        にその男をからかうことがあつた。罵声をあびせる。遠くから石を投げることもあつた。        健太は石をなげなかつた。やがて仲間のなかでそのことに気づいたものがいた。        なぜ投げないのかと詰問された。結局石をなげるように追い込まれてしまつた。        蝉が鳴いてゐる。健太は石をもち彼に近づいた。みんなが背後で見てゐる。石を投げた        ら、その石が体を貫いて、その男は死ぬことになるんじゃないかとも思った。        男は何やら、つぶやいてゐる。蝉の鳴き声がやんだ。        「トンツーツー、マツカーサー、たすけに来てください。子供たちに攻撃されています。        トンツーツー、マツカーサー、たすけに来てください、B29で。」     マツカーサー来たる原爆投下以後       個人俳句誌「富士山麓」(2016年十二月号〜2017年四月号) **** 五月号 (2017年) **** (2017.4.29. 発行) ******      赤き椿落ちて黒き血吐きにけり       種々の花々     春の花満ちあふれ咲く里に入る     春公園鳩を天使と翁かな     春霞背後はブラツクホールかな     サイコパスまづは優しき春の道     死を秘めて春の富士立つ地球かな     命とは妻や子や孫桜咲く       自動車     出庫するたびに踏みさう菫花     桜の夜月光浴びて滝落ちる     砂没せる海賊船や散る桜          あひ     ブロツクの間に荒れたる春の海     なまめかし枝垂桜の立ち姿     勇猛な男の墓や花吹雪     わが挫折また立上る春怒涛     ふらここに乗りてあれこれおぼろなり     豪奢かなわが家の桜さきそろふ     霧の中しづかに開く桜花     霧に浮く桜菜の花雉の声         チエホフの「桜の園」は閉塞感の嘆息が基調となつてゐる     富士見ゆる「桜の園」の花吹雪     居眠りの妻へ盛んな落花かな       さう     岸辺騒春の鮒らの交尾かな     さくら散るしづかな音に出でにけり     春雨や傘も持たずにカモシカは     なだれ咲く桜なだれて散りゆけり     桜花より滝現れて落ち行けり     桜植う桜乱舞を浴びながら     春風や雲の裾あげ富士の山     逆さ富士桜群れ散る散華かな     カメラマン禿や白髪や桜山     富士は右全景なべて春山河     花筏あふれてゐたる庭の池     雉鳴くや春の遠山睦みあふ     小綬鶏の夫婦歩めり春の藪     異界への入り口秘めて春の野は     蜘蛛の糸渡りおほせし春小川     鉄兜苔むす桜吹雪かな     三方の窓に散りゆく桜かな     この世へと枝垂れ散りゆく桜かな     さざ波の桜の空や富士浮かぶ     桜浴びこのわれ確か生きてあり     春の道石ければ石軽やかに     アヲゲラや春の静寂深く裂く     桜散る地下を流るる水脈へ     跳ね飛んでカタクリ咲けるとこへ鮒     春の日の音なく沖に沈みけり     花筏ゆつたりたたへ流る川     夕闇を雪降る如く落花かな                唯識と思へど掌へと落花かな     阿頼耶識春の野行けば命湧く     宇宙より春みわたせる悪夢かな     青天にふれんと梢の若葉かな     ヤブサメを聞きなす妻の春の耳        ヤブサメ:鶯の仲間     I have a dream 花満開の昔かな     春落葉革命いつも未完了       富士山雪形     雪形やさまざまな影ゆきあへり     分校の庭に遊ぶや春旋風     春落葉だまつて掃いてゐる男     花の雲大空富士の鎮座せり                  いな     核爆弾飛び交ふ春の山河否     屋根裏やエアーバイクで春をゆく     春の夜やぴよんぴよん虫はぴよんぴよんと     森深く桜散るなり無人駅     瞬間や瞬間ごとの桜花       老人     遠足の列をとにかく追ひ抜けり  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆ 俳句の大道をゆく。もちろん大道といってもそれぞれの大道があり、これひとつというほど俳句はせま くない。 ぼくの大道の一部に、永田耕衣の次の言葉などがふれあう。 「画竜点睛とは竜を画いて瞳を書き加えること。俳句は、初めからこの大切な瞳だけを表現する文芸で ある。」 「生命が最も生命らしくあるためには、アイマイでなければならない。アイマイを矛盾といい直しても いい。知性や理性は生命の本体ではない。」    目次へ **** 四月号 (2017年) **** (2017.3.31. 発行) ******      光あり春の富士立つ山河あり     春一番倒れて無念わが大樹     春の闇沖に大浪小波かな     未知の死へ旅人春をよぎりゆく     春きたる鏡の中の老人に     年老いた子供となりて春の野を     富士山麓世阿弥さまよふおぼろかな     春光の風吹き来る富士の空     眼前の子猫をさらひ鳶空へ     春蘭の可憐に咲く道盗られるな     梅の里詐欺警報のスピーカー     富士山に見おろされつつ納税す     階段をころがり落ちて春の底     椿落つ昏き焔を身にまとひ     猛禽の襲ふ湖面の乱れかな     前頭葉春の空気に触れたがる        新幹線     新春や席取りゲームに敗れたり       ビルの谷間のカフエテラス     青天井地下の二階へ落椿     春真昼少女の像のそばにゐる       渋谷     春の坂上り下りや群衆と     群れたがる人は群れゐる春の森       山路     笹薮より子猫はひ出でて甘えをる     水仙に見おろされゐる切通し     逆鱗をどこかに落としゆく春野     春の雪化粧直して富士の山     水切りや春の湖水面のしづけさに     軽やかに春をまとひて小鳥たち     トンネルのむかうは未来春の風       穴出でし蛇     春日浴び眠れるやうに憩ふ蛇     鯨雲春大空を渡りきる       アルビノ     黄金の鱒はね上がる春の池     愁ひある春の笑ひとなりにけり       エアーバイク     屋根裏で春を走るやニ十キロ     辛夷咲く天に咲きたる雪の富士     切株のどつしり座る春の丘     春風のフアンフアーレや桜咲く       富士宮市内     屋根の間に光り輝く春の富士     妻刺せる刺繍の街や春の風     舞ひゐるは春の女神か富士裾野     鶯の警戒音の初音かな     逸民のわれか山麓春をゆく     パツサージユ花の香りはリラの花     小用の手を洗ひをり春小川     春の道濡れて天まで続きけり     鳥帰る大きく開き富士の空                もだ     春行くや深く静かな森の黙     春日あび水場であそぶ小鳥たち     シジフオスの担ぎて重き春の岩     体操を妻がしてゐる朝寝かな     春といふしづかなものに沿ひあゆむ     春の路地子供の回す独楽が澄む     裏町や鉢プランターに春が咲く     やはらかくカモシカ立てり春の斜面     止まり木の鷹の背に吹く春の風     辛夷咲き白無垢咲ける神社かな     春雨に芽のやはらかき桜かな     春雨にシダレザクラの光かな     春雨や天神様の牛の鼻     春雨や水輪の美しき神の池     死への旅途上いくたび落花かな       自然といふ神     さそはれて春山麓を神ととも     かたかごの花や池には鮒跳ねて     やはらかき春大空へ溶ける富士     春山河時間ゆつたり舞ひてをる     春山路狸を見たと写メールが     おすわりの春の狸の目の澄みて     正面に春の命を鳴く小鳥     百千鳥森の命をかけて鳴く     春嵐あがるや腹痛をさまりぬ     春の霜屋根輝きて野にまぶし     囚はれて春の地球を歩むかな          「混沌七竅に死す」     春霞混沌王はそのままに     二世なる信玄桜しだれをり     黙然と坐禅草ある山路かな       再生へ     空爆の廃虚のごとく枯芭蕉      ◇ ◇  ◇       二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。       その中に、「マツカーサー」という短編があつた。       太平洋戦争終結五、六年後のことだつた。子供たちは群れて遊んでゐた。       彼らの前に、浮浪者気味で少し頭のたりないような大人がいた。子供たちの遊びの一つに       その男をからかうことがあつた。罵声をあびせる。遠くから石を投げることもあつた。       健太は石をなげなかつた。やがて仲間のなかでそのことに気づいたものがいた。       なぜ投げないのかと詰問された。結局石をなげるように追い込まれてしまつた。       蝉が鳴いてゐる。健太は石をもち彼に近づいた。みんなが背後で見てゐる。石を投げたら、       その石が体を貫いて、その男は死ぬことになるんじゃないかとも思った。       男は何やら、つぶやいてゐる。蝉の鳴き声がやんだ。       「トンツーツー、マツカーサー、たすけに来てください。子供たちに攻撃されています。       トンツーツー、マツカーサー、たすけに来てください、B29で。」     マツカーサー来たる原爆投下以後  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  上記最終部分は、「二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明」で始まる一連のものの 最終回分です。季節からいうと、七月号が適当かもしれません。ただ、できあがっているので、とりあ えずここに掲載します。    目次へ **** 三月号 (2017年) **** (2017.2.28. 発行) ******       動と静内臓したり春の馬       硝子戸の漱石ではないが     枯木山春の芽吹くを硝子戸に     春近し枯枝に舞ふ小鳥たち     坪庭に日のたつぷりと梅の花     春風や登呂幻の村を吹く     躁盛ん鬱も盛んや春の昼     春隣 「下ノ畑ニ居リマス」と     老人はその時少年春の虹     春や春庭の蛇口は光吐く       たまには別行動     春の湖半周回り妻と会ふ       夢見ぬ齢 昨夜は確かに      十日過ぎ我にはたしか初夢ぞ       富士宮 村山サツカー場(村山ジヤンボ) 富士山登山口近く 駿河湾を展望できる     春の日や太平洋にボールける     春の海並び見てゐる犬と猫     春の浜子逃げる母は追ひかける     カモメの腹真白や富士の雪真白     滝口に盛り上がり落つ春の水       ついつい寝てしまふ     世は春やMRIにて白昼夢       心霊スポツト というより単なる廃墟 富士を背後の「元」壁だけの美術館     あばら骨一部さらして春に立つ       富士宮 芝川水系発電所 小さいなりにとうとうと     発電を終えても元気春の水     春の虹見んと下りし滝の底     春の辻老人湧きだし交差する     森といふ精神世界春の風     こほりたる夢のとけゆく春の森       日本平ホテル      豪華なるホールの玻璃を春の富士     春の雪大地に心のごとく染む     春の雪カケスは急を告げてゐる     春弦月楽を聴きゐる森の耳     おとめ座のわれ立つ春の星座かな     春の海白き船乗せゆんわりと     郷愁のふつふつ湧くや春の森     ものの芽のかこむ日本の富士の山     春真昼袋小路にまよひけり     春日浴ぶ森をぼんやり森の家       家の裏 子はすで大きい     美味さうに春の草食ふ親子鹿     心の臓燃え上がりゆく絵踏かな     流れゆく時に乗りゆき春にあり     春あけぼの山の稜線飛ぶ狐     春風のやさしく撫でて春の川     白波や春のしづかな心にも     山吹の黄がはじけ飛ぶ山路かな     桃の花やさしく灯る甲斐路かな       山宮神社遥拝所より 富士には雲     見えねども富士を拝する春の朝     百鳥のこゑ満ち満てる春山路       富士宮 村山神社。神仏習合し、末代上人が大日堂を建立、平安時代成立した「地蔵菩薩霊験記」によると       末代上人は厳しい修行の末即身仏となり富士山の守護神になった事が記載されている事から富士山信「地蔵       菩薩霊験記」によると末代上人は厳しい修行の末即身仏となり富士山の守護神になつた事が記載されてゐる。(パンフレツト)     春の雲即身仏か富士の空       この奥、何度かカモシカを見た     覗いてもカモシカゐない春の窪       無伴奏チエロ組曲 森の中の家     バツハ聞く春夕暮のしづけさに     春の日や巨大なクレーンたおれゆく     吊り橋や春の空蹴り進みゆく     天神の牛のまなこへ落椿       二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。       その中に、「*(こめじるし)氏は太つた」という短編があつた。       *氏は平凡な、いやむしろうだつのあがらないサラリーマンであつた。ところがある日、とある       プラス思考を刺激する本に出会い、奇特にも人がすつかり変わつてしまつた。積極的になり、仕事       にも大いに熱がはいつた。食欲もぐんぐんわいてきた。その結果大いに太つた。太りに太つた。限       界ぎりぎりというまで太つた。       充実の毎日、安堵のある時、プツリと小さな音が聞こえた。その後もときどき響いてくる。気にか       からないわけではないが、積極的に聞かないふりをして過ごした。       最後の夕べ。駅におりたち、団地への道を家にむかつた。通奏低音のようにその音は静かに鳴りつ       づけた。その中で意識がもうろうとしてきた。       翌日、奥さんが団地のドアをあけると、おが屑めいた線があるのをみつけた。       それをたどると駅の方まで続いてゐた。     底しれぬ心の軌跡春の闇     寒林に瞑想の息吐きにけり     桜折りあやしきことを言ふ男       富士稜線の背後月がでようとしてゐる 月の光を受けた横雲が輝いてゐる     月の出や夢の浮橋富士の空       那智の滝     一本のま白き道や流れ落つ ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  あと六号で丸五年になる。それを機会に句集をなどと考えていると、しらぬまに重くなってくる。  俳句の「俳」たる所以の句などを読むと、開放された気分になる。  最近では、「俳句二月号」の小澤さんの「凩のけだもの」がその一つだ。   目次へ **** 二月号 (2017年) **** (2017.1.29. 発行) ******        双面神     初春や死神統ぶる原子の火       富士山頂のそば 縦型の雲湧きのぼる 北斎「富士越龍図」を思ふ     北斎の見たる龍見ゆ二日かな     手遅れと想定外や除夜の鐘       大宇宙     漂ふはこわれた地球の春の夢     夭逝のかなはぬこの身冬の旅       二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。       その中に、「小便小僧」という短編があつた。       いわゆる大学闘争(紛争)時代の京都の少年である。歩いてゐたら、火炎瓶が転がつ       てきた。尿意を感じていた時で、好奇心から小便をかけてみた。消えた。       それから少年は、陰ながら消火にはげむこととなつた。少年の自信は膨張した。       最後「これなら原爆だつてけせるぞ」と興奮して火炎壜のとびかう最前線に飛び出す。       その後フランス滞在の一時期、ベルギーのブリユツセルの町角の小便小僧の像にもまみえた。       伝説がある。爆弾の導火線を小便をかけて消し、町を救った少年がいたというその伝説は、       小説発想時には知らなかつた。     小便の霧のかなたの冬の虹       朝日滝     初春や霊気はなちて滝おつる       朝日小滝     初空に富士あり小さな滝元気        とは     人生は永遠に未完や福寿草     自動車のバツクミラーの初日の出     人日や高く積まれて無縁墓       富士山麓     人日や清き流れに添ひ歩く     永遠の眠りさすらふ枯野かな             ずいしよ     読み始め臨済録や「随処に主」     初夢の思ひ出せない翁なり       「じいじ自転車こげるの」と久しぶりの孫が     正月や自転車に子のせ泣かれけり     寒林や輝き光る照葉樹     寒林やカモシカの目澄みわたる       白糸の滝 はば百五十メートル     初春やずいと見渡す滝の幅     寒林や赤き夕焼泣くごとし             マース     嚇々と枯木の上の火星かな        田貫湖     紅富士の消えて月出づパール富士     雪煙あげて富士立つ神さびて     日を浴びる古墳の上の枯野かな     寒林や日当たるところ薔薇の園       枯葉のプール     さあ泳げ落葉のプール空を富士     こ う は く     紅白歌合戦や脳を休むにいたり得ず     初踏みや大宮縄状溶岩を     生命力祈るのみなり初詣     寒林に海の響きのおよびけり       神社の池     あそぶごと餌をとりあふや都鳥     滝の音ひびける寒の森をゆく       はるか眼下に     冬の日に輝き浮きて駿河湾     冬星座ゆつたり回る富士の空       駿音十歳      初乗馬幼き顔の男顔     寒林に透けてまつたき富士の山     滑るまじ濡れた落葉の急坂を                     けなし       わが家の背後の天子岳 そして毛無山 愛鷹山     富士囲む愛鷹毛無なべて雪       公園     ひなたぼこ老がベンチにひとりづつ     川の面の光の中を鴨流る     消防車出動待てる淑気かな       上野不忍池     下町や枯蓮へわれたどりつく       不忍池 中也風に     たどりつく池の枯蓮哀しからずや     黒きもの一吠えしたり寒の森       小鳥のための水飲み・水浴び容器(バードバス)     バードバス氷を除き水を張る       画眉鳥 侵略的外来種百選定種     バードバス画眉鳥使ふ許すまじ     冬の夜寒くて暗くなりにけり     寒月やさえわたりゆく身と心     どんど火の炎のあそぶ富士の空     猫の手を逃れし雉は安堵の歩       新春音楽会 老指揮者が指揮台でスローモーショヨンのやうにゆつくり倒れる     ゆつくりと指揮者たふれるニユーイア       酒蔵開き 余興     蔵開きベーリーダンスの臍の艶       酒弱くなつてゐる     利き酒や酒の香のどを急襲す       天使の羽根の雲     初春や富士の上なる天使雲     いつか来し千億光年年新た       診療所待合室     ストーブへ順をまつてる薪たちよ     冬の日や壁にあそべる鳥の影     梅咲ける天神さまの細道を     水音の豊かにひびく寒の月     富士塚に雪積もりゆく遠き富士     大宇宙ミクロのわれは寒林を     寒卵割れてわれみる大きな目     富士山の見下ろす池の都鳥     佐々木てふ男消えゆく枯野かな     さびしいぞ中也調子の雪が降る     寒林や凝縮気味の陽がのぼる       富士朝霧高原 大室山など小さな富士寄生火山たち     側火山優しく眠る冬日かな     北風や落葉目つぶし頂戴す     すつきりと富士見ゆるなり枯木道     寒林やブランコひとつ揺れてゐる     美しき雉の戦ふ冬田かな       裏の空き地     日向ぼこ終えてカモシカ森に消ゆ     あめいろ     天色の富士の上なる鷹の空          髪真白翁となれり豆をまく     寒の水心しづけく流れゆく       それぞれ得意分野があるが     一月や防災神社燃えてゐる       コンビニ 販売ノルマ     恵方巻ノルマに悩む彼女たち     七五三五七五はあさつてに ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆ 随処(ずいしょ)に主(しゅ)となれば 立処(りっしょ)皆(みな)真(しん)なり 『臨済録』    目次へ **** 一月号 (2017年) **** (2016.12.30. 発行) ******      富士晴れて雪輝けり Good luck       富士宮 芝川水系には小さな発電所がいくつかある そのとても小さなダム 芥をすきとる仕掛けあり     枯葉たちぐるぐる回り梳きとらる     舗装道落葉の舞へるラストダンス     滅亡へ遅刻しつづけ秋の暮       養鱒池     共食いの鱒の骨白し秋の暮     山葵田やおさなき山葵整列す       二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。       その中に、「妊婦バス」という短編があつた。       主人公は若い男性。来たバスにのると、妊婦ばかりであつた。保健所に着いた。流れの中で不本意ながら       列に並んだ。医者に「おめでとう。妊娠です」と告げられた。帰つたら恋人は「よかつた。あなた産んでね」       と言つた。     妊婦バス師走突き抜け未来へと       駿河湾を下に富士全身がみわたせる場所     湾よりの一線のびゆく雪の嶺       溶岩樹型の円をのぞく     まる     円き中すつきり立てり雪の富士       東京     うじやうじやと人湧いてくる大枯野       上野     下町の散策果てて破れ蓮     寒の夜脳は勝手に暴れてる     寒林に透けて農夫や空の富士     カモシカを見据えつ小鳥に餌をやる       雪 雲 赤土 紅葉 常緑を交えつつ     初冬や七彩変化富士の峯       眼下の山里     焚火より始まる眼下の霧の海      寒の水たたき飛び立つ一羽かな     古鳥居沈黙の神その奥に                   近道や徐々に落葉に埋もるわれ       老年     わが背丈どんどん縮む豊の秋     富士へ向けなぜか指揮棒ふる男     富士颪風車舞ふ養老院     入院や寒夜の庭を犬が鳴く              さだめ     骸骨や寒夜にかたる運命節     冗談のごとくに生きて年忘れ       ひつぎ     雪道を棺背負ひてのぼる人     冬の川おしやべりカラスのお行水     寒の夜答えなき問宇宙より     冬の夜や救急病院無言劇     煩悩を富士にあづけて年忘れ       それぞれの時代     幸不幸時代にあづけ父母は     幸不幸時代にあづけわれわれは     満月や総身輝く雪の富士     冬夕日浴びてカモシカ草をはむ     山麓に住む宿命か寒の月     木霊神寒林こえて何か告ぐ       庭に水飲み場をもうけてゐる かはいい小鳥たち     水飲める目白ヒタキに感謝する       餌の向日葵の種へ山雀は大胆 四十雀は控え目     四十雀引込思案我愛す     パチンコ玉のごと枯枝を落つ葉かな     死してなほ敗れざる者冬銀河     寒雷や言の葉光り舞ひ上がる     新年号締め切り近し死は偏在     永劫の回帰転回冬銀河     枯木空夜間飛行の灯は富士へ       京都 竜安寺 地下にロケツトを幻想する     ロケツトの先端なるや岩の先       妻は自動車で病院へ 連絡がきて夫もゐた方がいいといふその病院への自動車がない     自転車で富士をおりゆく秋の暮       愛理 五歳     「あ」をとると構えてゐたるかるたかな         家の裏にいつものカモシカが顔を出す     あ!トナカイ!孫が叫ぶやクリスマス     寒林にやさしき目ありカモシカの     賑はしく枯れてにぎやかや枯木山     寒林にひびく歌声走る音     天空に富士輝ける冬田かな     老年や夢の中なる不眠症       富士山麓から駿河湾を見下ろす     黄金に輝く湾や冬日受け     月光や自転車羽根の生えるころ     赤き実の真赤にみのる枯木道     枯木道なべて日を受けひかりをり     果敢なる横顔渡る枯野かな       旧少年戦車兵学校跡跡 野外に古い戦車展示     雪の富士朽ちたる戦車朽ち行ける     虹色に光り田に張る氷かな     身の内のマグマしづめて大枯野     薔薇赤し凍りて光る露の珠     枯枝や時にひかりて小鳥かな     寒雷の照らす大地やもぐら穴       山宮神社 本殿はなく、御神体富士を遥拝所から直接拝するといふ太古の姿をとどめてゐる     遥拝す真輝きゐたる雪の富士     破れ芭蕉かたまりあつて富士の前     ここにまた冬日に光る芒あり     紅富士へ心まつすぐ運転す     今を生くこの今生きる去年今年 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  「人生を長編小説のように感じたのは、いつの年代までだったろうか」と落合恵子。  そして人生の短さと俳句の短さに呼応するものとして俳句を深く感じるひとたちが生れる。    目次へ **** 十二月号 (2016年) **** (2016.11.29. 発行) ******      晩年や前途洋洋大枯野     西方へ沈んで消えし冬日かな     うなだれて死神一人枯野道     月光に煌々光る茸かな     落葉道いたづらトロル跳ねまはる     時雨止み木々のしづくの光る森     狐火や心の森の奥のとほくより     テーブルの真白きへ散る紅葉かな        二十代、短編小説を多く書いた。原稿はすべて行方不明。       その中に、「Oh No」という短編があつた。       普段はあまり考えることのない男の「脳(No)」が、男が珍しく思索にふけると、騒々しく、       暑すぎると言つて家出をしてしまう話である。     わが脳はどこかに家出秋の暮     枯木道大空ぐんと迫りくる     赤信号つづく果てなり雪の富士        かひな     頬置ける腕にそそぐ冬日かな     薪を割る老人あまた別荘地     眠れない故の瞑想寒の夜       冬眠は難し 自嘲(?)     目をこすり眠れぬ熊がやつてくる       眠りすぎ     目をこすり寝起きの熊がやつてくる     犬連れて犬に連れられ枯野道     逆さ富士頂上鴨の着水す     蛇穴に飛鳥古代の穴にかな     六道の辻の落ち葉を振りかぶる     養鱒場鵜鷺監視の案山子かな     ぶら下がり縄揺れてゐる冬の空       田舎住ひ バス路線のない高齢者ドライバー     ネコバスのほしと思ふや老年期     顔せまき男に広き枯野かな     金色の銀杏落ち葉の円に立つ     俳書持ち冬のモールのカフエに     大空に枯れきはまれる一樹かな       早朝の鈍行列車     窓枠に雪の富士あり独占す     富士稜線かなた明るき冬の夜     寒雷や天大沈黙のなほづづく        (「天」のあとすこし空白)     五七五を忘じ見上ぐる雪の富士     カモシカは不動空行く冬の雲       森の家     冬の森大地に近く眠るなり       静岡駅前の銅像     家康公冬の天日みつめをる     ビル街や皇帝ダリア高く咲く     冬の雨丹塗りの神社灯るごと     冬の雨水輪の底の鯉元気     壜といふ荒野を蝗飛びつくす     落葉道角をまがれば時雨けり     淋しさは森に降りゆく時雨かな     のぼり坂加速し翔ばん秋天へ     生き生きと千本の薔薇海の青       屋根付きベランダ     ベランダに輝く冬の柱かな     落葉道踏めば落葉の楽起こる     雪降れり森の我が家の浮き上がる     暗闇や闇押しのけて雪は降る     遠富士を眺めて登呂の小春かな     縄文や弥生や登呂の雪の富士     狂ほしく絡みあひたる蔓枯れる     森林に自由天から雪が降る          だいこ     持つてけと大根渡さる散歩かな     小春日やゆつたり憩ふ溶岩塊     小春日や長き坂にて歩をゆるめ     七五三巫女の衣の真白さよ     七五三空に輝く富士の雪     こうえふ     紅葉の満ちてふくらむ小山かな     竹林の背後あやしや紅葉燃ゆ     楓美し庭師手入れの紅葉川       新富士一万歳     万年の溶岩の上紅葉散る     オオバンに交じる一羽の名は不明       突如 幻想のごとく     散る落ち葉はつか津波の音ひめて     紅葉道紅葉の里につきにけり     冬の日や鴨ねむさうに足をかく       初冠雪から数週間、新しい雪に覆わる     新雪に輝く富士を愛でるのみ     今日も又雪を加えて光る富士     空に富士落葉舞ひちる伊豆山路     落ち葉坂すべりそうなりすべりけり     鴨の足柔らかに押す寒の水     初雪や森やはらかく受け入れる     けだるさがわが体内へ冬籠     冬の虹霊峰富士の大空に     この里の歴史煮詰まる神楽かな         かろ     小春日や軽く髪上ぐ裸婦座像       ハツブルは孤高の天文学者であつた。どこにねむつてゐるかもわからない。       ハツブルの魂は衛星型ハツブル宇宙望遠鏡にこもり、全宇宙を見ている。     ハツブルの孤独宇宙へ冬籠     ニヒリズム思ひてをれば除夜の鐘       平和へとますます遠くなるこの世     不条理の世界生き生き去年今年     大仏へ春鎌倉の波の音   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  初句の「枯野」は必ずしも否定的ではない。    ところで、漱石の「俳味」を再読して面白かった。とりあえず載せておく。  俳句に進歩はないでせう、唯變化するだけでせう。イクラ複雜にしたつて勸工場のやうにゴタ/\並 べたてたつて仕樣がない。日本の衣服が簡便である如く、日本の家屋が簡便である如く、俳句も亦簡便 なものである。      漱石  明治四四、六、『俳味』    目次へ **** 十一月号 (2016年) **** (2016.10.28. 発行) ******      霧湧くや地より天より森の家     妄想が秋の森来る会釈する     吾輩は人間なのだ秋の暮       西脇順三郎     淋しさは美の根源や木の実落つ     薄原すすき諸君と共に揺る     秋雨や湖面に大き鯉の髭     秋の蝶天へ舞ひゆき消えにけり     緑陰に車を止めて一惰眠     泉源へ向けて整列残る鴨     いつか死ぬわたくしでした曼珠沙華             団栗を頭に受け楽し山路かな       老夫婦 体調不安の妻へ     眠るまで妻の手に触る星月夜     死ぬまでにトイレへ何歩破芭蕉     郭公や木魂孤独にこだまする     彼方にはみにくき戦争大枯野     鳥帰る幻すべて過去へ飛ぶ     見えぬもの赤きに隠る紅葉山     暗澹の心の果ての銀河かな     カナリヤは歌を忘れて秋の藪     愛だけで救えぬ地球望の月     不知火の狐火地球の導火線     老いたれば金木犀に鼻をつけ          葛原のうねり高まり富士の峰        たま     熟し柿魂のごと燃ゆ散歩道     鰯雲地上椅子取りゲームかな     紅葉山地獄の蓋と思ひけり     遠ざかる鏡のなかのぼくの秋     魂の静かに灯る秋の暮     静寂や森に降りゆく秋の雨     病葉のかそけき鼓動聞きにけり     軽やかな鹿の足跡秋の森     滝の音頼りに下る紅葉谷     なりわたる幻想曲や紅葉谷     近く住む世界遺産や秋の暮     硝子戸をとおして手話や今朝の秋     秋の暮歯医者で口を開けてゐる     坂道をころがる秋の目玉かな     静寂をしづかに破るコゲラかな     背泳ぎではるか銀河を渡るかな          美しき薔薇よさびしき香をまじへ     源泉の小さな島の花野かな     暗澹と心の奥の大銀河     大樹なる影やはらかし月の庭     漆黒の天より言の葉長き夜     ひつぢ田や雪を待ちをる富士の峰     長き夜のビジネスホテル未知の闇     夢食べるバクが食べてるリンゴかな     犀に傷秋の虻きて血を吸へり     チカラシバ揺れ美しき荒野かな     秋雨や湖畔のテント灯がともる       白内障では?     運転す木漏れ日眩しき秋の森     あかね空枯木の黒き神経図     山麓に秋の鹿鳴く撃たるなよ     犬の目で花野を歩いてみるとする     木を倒す明るき木魂秋の森     ふとあくび秋の森にて大あくび              すすき揺れ雲流るるや正座富士     ハロウインのかばちや尻据へ薄笑ひ     武器持てる透明男秋の街       樹海     溶岩の皺にしみ入る時雨かな     秋天にシーソー孫を投げ上げる     立ち上がるキリンに天の高さかな       富士六合目 山麓に御殿場演習場     霧のぼる中を響くや砲撃音     霧晴れて富士大空は宇宙晴     秋天を飲み込まんとす火口かな     天高ししづかに小石落とす富士       幻 原発の廃墟も見える     薄原ふりさけみれば都市廃墟       オートバイの若者       轟音で紅葉谷ゆくバカモノよ       富士 初冠雪の朝白く輝いてゐた     初冠雪夕やけ空に薄紅に          ☆       苦渋のもたらす豊かさ     四十九の人生豊か漱石忌     硝子戸の中の平安霜の朝     不愉快に満ちたこの世や昼の火事     目を開けるたびに富士あるわが枯野     傲然と首あぐ池の鵜の師走     嫌はれる力充実寒烏     コンドルの額に冬の朝日かな     寝転びしライオンの腹冬日さす     死ぬまではとにかく生きる冬の虹            昼も夜も同じ夢見る冬の旅     進歩なき世界平和や雪月花 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  「即今」を生きる。「気づき」に生きる。    目次へ **** 十月号 (2016年) **** (2016.9.30. 発行) ******        富士宮 若獅子神社 少年戦車兵学校跡 若獅子といはれ粗造の戦車で戦死していつた少年兵たち     秋風や声にはならぬ獅子の声        音止の滝 滝口      それぞれに水落ちゆけり滝の水     かまきりの脳震盪や庭の秋       富士宮 小田貫湿原     木道の間より顔出し沢竜胆       富士宮 朝日滝     先ほどの小川落ちきて滝となる     笠雲は富士を離れてUFOに       地域館跡     葛覆ふ地球支ふる子らの像     滅びへと向かふ地球や秋の風     病葉を今は掃いてる箒かな     銃殺を逃れし鹿の秋の顔     秋卵真中黄色の小宇宙       富士山麓 眼下に駿河湾     まつすぐに秋の海へと運転す       朝霧高原 自動車     霧の中灯ともしすすむ真昼かな     につたりとわらふ蛇ゐる秋の庭     ベランダに秋の森見つ老いゆくか     蜘蛛の囲にはじまる秋の迷路かな     緑陰にイエスのごとくたたずむは     秋澄めり箪笥の角もでつぱつて     耳元に悪意の秋風通りすぐ     秋の湾巨大タンカーのせてゐる     歩道橋渡るや秋の風ととも     秋風や砂場の河馬が欠伸する     運転すコオロギ鳴き継ぐ旧道を     筋トレやモグラ顔出す庭の面     満月やパール富士とて頂に     俗塵の舞ふ炎天下仙人は       神社        しらす     炎天下白砂の砂漠蟻越ゆる       幼稚園     敬老会窓をのぞきてスズメ鳩       買い物の妻     秋夕日あびつつ車に妻を待つ     秋の森こだまの中を飛ぶ小鳥     裏切りに生まるる歴史星月夜     芋の葉にコロボツクルとしてたてり     眼前に人の足ある昼寝かな     天高し果てしも知れぬわが荒野     天高し墜落中のイカロスよ     さわさわと沢の音ある秋の雨     行く雲に虹を孕ませ望の月     滑るまじ養鱒場への苔の道       遊園地 トロイの木馬     木馬飛べ秋天高く富士の空     斑鳩の仏恋しや燃ゆ紅葉        しじま     秋の森静寂は叫びゐたりけり     靴の紐結ぶ眼へ毒茸     曼珠沙華天神小社かこまれて     秋の雨砂利踏む音と響きあふ     透明の楽湧きいづる秋の森     秋雨のしづかに踊るデツキかな     電飾の光の霧に人ら消ゆ     湧き上がる雲の奥なる夏の富士     秋日浴びトカゲは犬の墓の上       富士山上は飛行機運航メツカ     飛行機の音わきいづる無月かな     殺虫剤雀蜂にはたつぷりと     雀蜂殺し細く観察す     屋根裏やエアーバイクで秋を行く       田子の浦 赤人の歌が万葉仮名でかかれた碑     読み下す赤人の歌雪未だ     潮風に吹かれて秋の体かな       津波対策の命山     命山頂上白菊ふかれゐる     秋の森秋の遺伝子霧と湧く     稲妻は荒野の奥に吾をうかがふ     虫の音やしづかな生を主張する     苔キノコ根つ子魔界の樹海かな       国有林     秋の森わがテリトリーなり小便す     台風一過森の青空宇宙晴れ     時止めてカモシカ佇てり秋の森       森住ひ     徒な多事避け座る秋の森     浄土的色彩世界紅葉山     月光は森を清めりわが庭も     初秋のベランダ素足にて歩く     歯磨をしつつしばらく森の道     滝見上げアンケートに答えゐる     森の奥大樹きらめく稲光     井の中の蛙仰ぐや大銀河     高きより見る秋草のなつかしく     初冠雪あつ間違つた雲だつけ     曼珠沙華行く手行く手に燃えあがる     遠い空ハードボイルドも夕焼て     ジヤンプして夏に入りたる昔かな       若者たちの農園     収穫の若き歓声空を富士     捨て猫の子猫つきくる花野かな       蜘蛛の囲の背後     女郎蜘蛛富士山頂を蹂躙す ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  時には、俳人たちのことばを思い出し、気をひきしめよう。  句が残ろうと残るまいと、あるいは有名になろうと無名であろうと、ともかくそれと心中してもいい というくらいに自分に引寄せて作るのが俳句だろう。(飯田龍太)  推敲というものの骨子は、相手にわからせようとするのではなく、自分の作品として納得できた、言 いたいことが言えたということが基本であるべきだ。(飯田龍太)    目次へ **** 九月号 (2016年) **** (2016.8.30. 発行) ******              からだ     古里や打上花火に身体ビビ     壁のごと霧吹き上ぐる富士登山       キの形の十字架もある     磔刑じやないよナナフシ窓ガラス     夏の朝ハサミの音とオクラかな       かつては日本赤軍など日本人によるテロも多かつた     おだやかな夏の休みや遠くでテロ     アブ殿の来訪迷惑至極なり     虫たちに愛されすぎる夏の庭     ベランダへ夏の小鳥や首傾げ     夏の闇深し心の闇無窮     「あ、虹」と子供指さす滝の空     不可思議な明るき闇をホトトギス     水音の地より響くや大夏野     飛んでゐるぼくの心や星月夜     蝶の道秋風流れゐたりけり     ひぐらしに耳の奥より鳴かれけり     熟考を経ずに割らんと西瓜かな     遺伝子の故か失敗西瓜割       富士山上は飛行機の通り道     夕日あび西方浄土へ向かう機か     「まあいいか」緑陰尽きて炎天へ       甲府方面からは富士は富士山麓、つまり「尻」は見えない。NHK大河ドラマ「武田信玄」に。       (武田) お言葉ではござりまするが、甲斐では誰一人、裏富士などとは申しませぬ。             [中略]       (武田) 霊峰富士は霊験あらたかにして拝む山にござりますれば、下(しも)は隠して            こそ正面、 尻丸出しの姿では霊験も消えてしまうというものだそうな。       (北条・今川、二人して笑い出す)     富士山の尻のあたりに住みて夏     むつつりと楽しく過ごす夏了る     心眼がとかく先ゆく花野かな     鵯たちは我が家のベリー賞味中     孫の世話ちよつと敬遠夏野ゆく     大き蛇ゆつたり渡る花野かな     緑陰にさがるふらここ漕いでみる          じやう みつかづき     電線の五線譜上の三日月     炎天や薄き雲の紗まとひ富士     炎天や大沢崩砂煙       七月、八月 戦争に関わる出版、報道が多くなる NHK Eテレ「加藤周一」     若き手記「つひに戦争」開戦忌     山鳩や八月五日の夕しづか           「国賊」「非国民」と糾弾する国民的正義 八月十五日は歳事記では秋ではあるが     正義てふフアツシヨ終る(?)盛夏かな       わかつてゐた人もゐた 危険な兆候は今を含めいつの時代にも     そして負けたそうなるはずの戦争を       あやふき未来へ     向日葵や憲法九条子らのため       富士宮御神火祭     御神火や隆々の腕込み合へり           あみだ     白糸の滝の阿弥陀籤を目でのぼる     己が顔のぞきて乙女の泉かな     考える蟻がさまよふ夏の砂     耳に入りあばれてゐるは秋の虫     東名や夏の日受けて乱反射     雄バツタ雌の背にのり大旅行       集団だと困るなあ     ゆつたりと孤独に泳ぐクラゲかな     かなかなや森の奥から大き浪     緑陰や少年全速力で抜け       倒産パーク     炎天や断固回らぬ観覧車     森の奥鼠花火が駆け回る                       かなかなや「絶対本命」森に生る     下闇や登呂の太古の風香る     星月夜登呂の歌垣はるかより     のぼりゆく蟻の軍団さるすべり     盆のもの浮きて流るる大河かな     堤防に座し対岸の蝉を聞く     カブトガニ兜の中の太古の夏       富士山麓        ともしび     五合目の灯見ゆる盆踊       わが家の窓 四句     寝転んで窓一杯の桜かな     寝転んで窓一杯の青葉かな     寝転んで窓一杯の夏の雲     寝転んで窓一杯の深雪かな     庭の隅ビニールプールに秋の雨     蝉の音に浮かぶ二階や舟をこぐ       屋根裏に世界幻視す秋の暮     やはらかく時雨降る道独り行く       今年の天文     蠍座と火星親密今日の夏       手筒花火     闇燃えて人も燃えんと手筒かな     闇を焼く業火となりぬ火の祭       とうちやう     夏雲や頭頂割れて黒き富士     煌々と月光世界富士黒し     こんこんと湧いで玉なす泉かな     雷に微笑み蜘蛛にわめく妻     かなかなの呼びだす真つ赤な夕映よ              かも     炎天や酒蔵杉玉湯気醸す       ニユーヨークにも牛の彫像があつた         つの     彫像の牛角を刺す炎天を     洗濯もの少し遠ざけバーベキユー     蛇が飛ぶ台風揺らす大樹より     倒木をまたいで里へ台風裡     台風一過富士泰然と独座する     永遠へ寂しく歩む銀河の夜       「煮沸してお飲みください」     炎天や飲めぬ霊水湧くを見る     滝壺や河童となりて子らダイブ       雨後     秋の朝森の滴のしづけさに     やはらかくバツタの足ははづれけり     雷鳴を黙して待てり油蝉     花火の子蛾がつきまとふ巨大なる     月光や黒き影ゆく森の奥     露に濡れ今朝もあるくや草の道       谷川     大岩に裂けゆく水涼しけれ     炎天やゆめのごとくに湧く泉     緑陰や阿吽の狛犬息しづか       夏草や予期せぬ穴におちにけり     びつしりと矛盾の甲羅剥げて夏       富士三つの峰 富士宮から 真中は剣ケ峰     秋天や真ん中尖る三つ峰     富士稜線たどれば秋の駿河湾     虻と蜘蛛にらみ合いてる窓ガラス     ドアあけるちやつかり虻に入られる     萬緑も世の連れづれか俳誌消ゆ     太鼓衆法被はじけて秋祭     秋の朝庭を掃きゐる巫女の腰     藻の花の揺れしづかなり心澄む     とり     水鳥よりも大きな鯉の秋の息     空に満つ赤とんばうや地を子犬     真緑のカマキリ緑にサと隠る     遠火事を喰はんばかりの夜の蜘蛛     秋の朝腰痛けれど体操を         ☆       悪夢しばし     夢の世にいざなふ布団干しにけり ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  個人俳句誌「富士山麓」発刊五年目をむかえる。多々感慨はあるが、とにかく自分なりの句をつくることだ。    目次へ **** 八月号 (2016年) **** (2016.7.30. 発行) ******     炎天やわれにも影はありにけり     認知症忌避を念ずる茅の輪かな     熱帯夜眼裏に立つ雪の富士     梅雨の日や部屋歩きゐる外出着       森の家の二階でベートーベンを聞きつつエアーバイク     万緑や三楽章をかけぬける     苔の花くらき山路に光りをる     鳥たちは秘語かわしをり夏の森     炎天や無縁墓石の影にゐる       がびてう       画眉鳥 猖獗をきわめる侵略的な特定外来生物 クロツグミ、キビタキ等の声をまね歌う       画眉鳥とわかると不快になる     夏の森フエイクの声の鳥美声     森林に生満ちあふる夏来る     夏盛んわれらは自然の寄生虫       沢を渡る山道を通つて行く必要が生じる いつもはそのまま自動車で沢を渡ることが       できるがやや水かさが増えている     梅雨の沢ハンドルしかと渡りけり     近づけばキヨトンと逃げる夏の鹿     狂ひ鳴く老鶯感心至極なり     渡らねばならぬ蛙が道渡る     老鶯や森の孤独を鳴きつくす     夏草や光まみれの富士が立つ       水どころ富士宮 いたるところに富士からの湧水が流れてゐる      湧水の音にまぎるる暑さかな     逃げ水のたつ校庭や富士揺るる       図書館     本借りて見上ぐる空や夏の富士     炎天の路上を死へと蚯蚓かな     バツタ飛ぶ野原の空の富士の山     間伐の音止む夕べ夏の富士     天空を流るる銀河黒き富士     梅雨の滝吾を引き止む如響く     真緑の植田の海に浮きて富士     若き猫若鮎狙う川辺かな     山の辺や苔絨毯の木下闇     夏草や秘かに花を咲かせをり     蝶々は泉のリズムにあはせ飛ぶ     梅雨晴れや雲の上なる黒き富士     青葉谷「落石注意!」ひとつ落つ     図書館の自動扉に待ちて蟻     巫女さんは梅雨本殿へ傘さして     短夜や真夜起き出でて昼を寝る     梅雨の雨しづかに鴨は羽繕ひ     万緑や富士を枕にごろ寝せん     山百合の勁き雄しべや風にゆる     万緑やひらひら舞へる蝶の恋     池の魚咥えて猫は夏草に     身動きの出来ぬ茨の道となる     山吹の黄のかがやけりちよつと鬱     富士隠す夏雲裾を脱ぎ始む          おくど あ     夏夕べ森の奥処が吾を誘ふ     青蔦の素直に伸びる空の青     毒茸を踏み散らしゆく孫に付く     夏草や郵便ポストはつか見ゆ     柿若葉少年のわれ佇めり     富士よりの霧おほひゆく青田かな       新装開店のコンビニ発見 福袋を買ふ     夏の朝散歩途中の福袋     崖の上青田原なり富士浮かぶ     からつぽの頭で歩く青田道     虎が雨音止めの滝鳴りに鳴る     繁栄と絶滅秘めて銀河かな     蛇笏忌や甲斐の青空紺深し     蛍火に囲まれ破顔の翁かな     巴里祭断頭台は闇の中       捕食動物人間 凶悪な戦争の最低のおぞましい形式     捕食圏求めてテロや大銀河          毎日の暮し大切赤蜻蛉       小綬鶏雄テリトリーの防衛か二羽対決     小綬鶏の断固戦ふ森の道     滝は霧霧の中から若き声       富士宮市山本 山本勘助生家といふ     真白なる芙蓉へ蝶や勘助なし     頂上やふらここありぬ揺れて見る     甲斐駿河涼しく見ゆる峠かな     万緑や腰を支へる外科手術     夏の森奥なる闇のいななけり     「ありがたう」門火燃やしつ父母へ           てみづ     炎天や神社の手水頼みとす     湧玉の命湧くごと泉かな       ぬえ       鵺 夜鳴く怪鳥とされているが実はトラツグミである     鵺なくや朝の涼しきひとときを     くちなし     梔子の真白き幸や朝の庭     わが虚無は未完必定大銀河     くちなは     蛇を轢いてはならぬ青葉道     サイズ変えアングル変えて夏景色     薔薇園や藪蚊無断でわれを刺す     標識の富士の絵のぼる蝉の殻     朝露を踏みゆき心鎮めをる     月光下われ浮いて寐る森の家     緑陰やおしやべり老女今佳境     短夜や明るき空を月あゆむ       茶処静岡             ぼうさう     炎天下空回りする防霜フアン       遠望        もや     炎天や靄におおわれ駿河湾     炎天下油断の夫婦歩を進む       大きなガラス窓     炎天の濁世や巨大な窓の外     カナブンをアブの吸ひ切る一時間     万緑や雨糸光る夢のごと      合歓の花地に落ちゆけり眠りをる     夏野菜籠のムカデをまづ殺す       湧玉池     神の池ポケモン降臨したる夏     狛犬の開いた口に蜘蛛の糸     炎天やさつきの爺さまもうあそこ     青田原かげろふの如揺る旧家                  こべにだけ       毒茸アカヌマベニタケを小紅茸と呼んでみる     大地へと血の点々と小紅茸     地の匂ひ嗅ぎつつ飛ぶや黒揚羽     夏の森光の子ども乱入す     ぢいさんが孫に泳ぎを教えてる       父は     藪こげる南海の兵敗戦日     朝日あび黒く輝く夏の富士          山々は夏の朝日の塵に浮く     万緑に向かひ真白き椅子一つ     オニヤンマが襲ふ相手はスズメバチ         ☆     ムクドリの群れて遺跡の秋の空     紙飛行機秋の雲間に消えゆけり       ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  発刊以来四年目の最後の号である。次回は五年目がはじまる。  五年を終えたら、ひとまず句集にまとめてみたいと思っているが、はたしてそれに値する句ができて いるのであろうか。五年目を前に今月号は特にその思いがつよい。といってもいたずらに緊張してもは じまらない。自分なりの句をつくりつづけるのみである。    目次へ **** 七月号 (2016年) **** (2016.6.30. 発行) ******     万緑や出家に近き山住ひ     万緑やひらひら飛べる白い紙       村の軍人墓地 「曹長」多き庶民の墓     青嵐同姓同階級の墓並ぶ     背の高き草の道抜け夏の海     夏嵐森喜びの深呼吸     あしなが     足長蜂の脚の下なる故郷かな     湧水や水中梅花花盛り     かはせみ     翡翠や流れの清き街の川       わが若き時代よりの愛読書『馬鹿について ― 人間 この愚かなるもの』        第III部 知能が高すぎる馬鹿  この場合は某知事        (第I 部 知能が低すぎる馬鹿 第II部 知能が正常な馬鹿)     知能高き馬鹿の詭弁や夏の陣     涼しさや悲しいことによく眠る     炎天へ草刈機たち吠えに吠ゆ     夏川や水草髪をなびかせて     夏の木はぐんぐん伸びるわれ縮む     ころがつて夏の大地のでくのばう     夏の朝江戸の時代の雲と富士     池浚ひタライに我が子のせてゐる     万緑や大鷲の影背後より     造り酒屋犬の昼寝のいびきかな     炎帝を睨みてゐたり鬼瓦     雪崩落つ若葉青葉や谷のぼる     生き様はなべて未決や花茨     三光鳥朝な夕なを祝福す     大宇宙花火の塵が舞つてゆく     青山河海の香りは山越えて     夏草や真中鮮烈水走る     短夜や人生勝ち負け飛んでゆけ     蝉時雨老人神社へ笑み拝す     首立てて鵜の流さるる夏の川     夏霧や富士山頂はあのあたり     改築のデツキや蜥蜴まづ遊ぶ       あかがね     万緑や銅色の登山道     ぬえ     鵺鳴くやスーパーマーズ森の空     ピロリ菌無しと安堵や老いの夏     牛丼屋二階より夏無人街     夏の森ブラツクホール浮遊する     緑陰に佇むぼくらの未来かな       幼き記憶 焼夷弾だつたのか     闇天に閃光はしる幼き夏     木下闇五百羅漢の目が光る     夏草や五百羅漢の百埋もれ         ふ  じ     山越えて富士山麓へ帰りぬ葛の花       信長首塚 富士宮市西山本門寺     紫陽花や信長の首これぐらゐ     首塚に響く豊かな田水かな        ぎんなん     首塚や銀杏落ちる音静か     蓮の鉢水を継ぎ足す炎天下     夏至の日や朝のはじめを老いてゐる         かもしか     梅雨の森羚羊ぼくを凝視する     かひ  あさぎまだら     峡の闇浅黄斑の舞ひあがる     永遠の迷ひ子迷ふ大夏野     群雲に月星雲のごとく行く     青田なり整列乱す苗愛す     青田道先頭を行く乳母車     迷ひこむ熱帯植物繁る里     自在へと老いの細道閑古鳥     蜘蛛の囲を破り滝へと道下る     大滝の飛沫の霧にずぶ濡れす        びん       お鬢水 富士宮市白糸 源頼朝の故事あり          おも     老顔を泉の面に再認す     滝壺をのぞく胡桃の太りゆく     富士山をのぼりゆく霧梅雨晴間     万緑や静かに光る白き花     笑むごとく泉の水は湧き上がる     蝉競ひ鳴く禅寺の読経かな     禅寺の砂輝ける夏日かな     静かなる水面に蓮の揺れてゐる     絶頂の生のはじける夏の海       銀行にて 詐欺横行の時代 老人のなけなしの金      大金をおろすに尋問にじむ汗     夏草や遺跡歩めば一古人       森の中の小川     わが闇にまづ一点の蛍火よ     蛍火のもえゐる闇に感謝する     わが闇に蛍ふつふつ湧きゆくか     苔の花愛でつ散策山住ひ        ☆     風船や青春空を漂へり       図書館書庫の暗闇     大銀河万巻の書の潜む闇     脳髄の渦のこぼれて銀河かな     月光は森へ脳へと落ち遊ぶ     星月夜淡き光に今を生く     永遠の夏の森へと迷ひこむ     総括や夕焼こやけ美しき  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆   今日は発行日である。   とにかく俳句をつくる。つくりためる。どんどんすてる、思い切って捨てる。   残そうと思うものは、表現を色々な角度から捉え直す。それでも捨てるべきものは捨てる。   最後には、締め切りということで、運を天にまかせて掲載する。    目次へ  **** 六月号 (2016年) **** (2016.5.31. 発行) ******     万緑と富士の空なる宇宙晴     ひまわりが夏を猛烈主張する     高原に満ちゆくつばめ翔ぶ光       声のみで姿は見えぬ     三光鳥また来てくれた我が家かな     庭の椅子囲みて若葉青葉かな                  轟音の滝の響きや我も揺るる     新緑に軟着陸のイカロスよ          ひとひ     こどもの日一日富士山見上ぐはめ              そうび     万緑の真中まつかな薔薇かな     万緑の真夜をこぎゆく月の舟     万緑やカケスどこかで鳴いてゐる         じゆうしん     不惑過ぎ従心過ぎたり夏に入る       *従心=七十にして心の欲するところに従えども矩(のり)をこえず(「論語」にあるのだが)     木下闇鎌をかかげて妻の消ゆ       森の中のわが家     初夏や朝を高鳴く森の雉子     初夏や緑の風が身をぬける     若葉山素つ頓狂な声が来る     滝落つる真澄の空や富士の嶺     新緑の逆さ富士ある水田かな     森を出て薔薇へ遊びに黒揚羽        よも     脳髄へ四方よりせまるうぐひすよ     名の知れぬ大樹若葉を誇りをる     大空へ若葉大樹は香を放つ     ベランダや大汗流し蟻がゆく     夏夕べ不穏な声の森の鳥     下闇や富士塚溶岩光りだす       水豊かなる富士宮           たぎ     廃工場水路を滾る夏の水     生き生きと雨の水輪の植田かな     梅雨の雨待合室はむつつりと     若葉から若葉に吹きて小鳥風     アウトレツト無人真夏の影深し     山ひとつ浮いて流るる梅雨の景     富士よりの青風香る湖畔かな     蛙泳ぐ植田の逆さ富士真上     万緑を真白く裂きて滝落つる     合歓の木の眠れる花へ月明り     夕暮や鴬よく鳴きよく響く     風光るすなわち緑耀けり     青蛙波たて泳ぐ植田かな               ひとや     万緑へ四角の窓やわが独房       締め殺しの蔓(つる)類も元気だ      各様に若葉繁れる乱世かな     つとめて    ほととぎす     早朝や声をふりまく時鳥            窓を疾くよぎる揚羽や若葉風     よく喋る男飛び込みするところ     郭公や目つむれば森海のごと       森の家     月光は森に芝生に遊びゐる     丁寧に虚言を交わし別る夏       廃村     夏草のむれてビニールハウスかな     かつこうや青空遠く忘れ物     笠雲は綿帽子のやう夏の富士     夏の月見えぬ太陽あびて浮く     わが朝寝許さぬうぐひす狂ひ鳴く     病む草を夏の大地に座り抜く       神の池 湧水     湧泉やまつすぐ泳ぐ鱒の列     夏の雨湧玉池を乱しをる     みみず住む夏の豊かな土おこす     富士背後入道雲は大巨人     亀虫の仮死演ずるを許しおく     わが脇に蜜ごくごくと吸ふ揚羽     黒揚羽そのため息の聞こゆ距離     緑陰を死者のさまよふ真昼かな     「今を生く」ごく平凡に夏の昼       夏の日本 歴史深し     日本のジヤパンジヤポンの盛夏かな     暗闇に控える富士や地虫鳴く     ふくろふが夜の底からわれら見る     万緑や生き生き生きよ未来の子     そうび     薔薇園海底割るる湾眼下             うあんごじ     本日はかたく閉門雨安居寺     緑陰や墓地のベンチの仙人は     わが未来われに迫るや日の盛     竹馬で夏の山河を越えゆかん         ☆              はるうしほ     血の動悸遠くこだます春潮     庭に咲く都忘れや森の家     さすらひの心さまよふ春霞     悪いけど巣を壊すのだ蜂さんよ     壮絶な断層ありぬ落椿       富士宮富士見石     信長の座りし石や落椿     雉子鳴けり富士山麓の寂しさに           こと     沈黙のあとに言なし原爆忌     西日浴ぶ負けゆく修羅と勝てる修羅     雲走る中泰然と月泳ぐ     走りぬく黒きけものの月夜かな          ちまた     森の霧出でて巷の霧にゐる     傲然とすくとたちたる薄かな     人間の愚かさ無窮雪の富士        ☆     約熱の雪がふるふる森を行く   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  短さの力強さ、その恩寵を効果的に、自分流に(単なる自己流ではなく)  一言主「吾は悪事も一言、善事も一言、言離の神、葛城の一言主の大神なり」(『古事記』)  芭蕉はすごいと何度にもわたり再発見することになる。  芭蕉は大袈裟に言えば、俳句においては、たとえば西洋哲学においてのソクラテス・プラトン・アリ ストテレス的存在といえる。大いなる出発点である。  (再発見にあたっては、堀切実、大輪靖宏、中沢新一×小澤實、西脇順三郎、他名前をあげればきり がない)    目次へ  **** 五月号 (2016年) **** (2016.4.30. 発行) ******     眼窩へと吹き込む桜ふぶきかな     血管に散りゆき流る桜かな     桜散る無人の野外劇場へ     かたかごの花へささやく小川かな       かたかご:かたくりの古名       プリ(亡き愛犬)     花の下桜まみれのプリの墓          ひま     夜桜や花の隙なる星の花     満開の桜トンネルぬけて富士     春風が夜の背中をなでてゐる                 たま     菜の花や白蝶としてわれの魂     薔薇色の富士咲く春の夕べかな                じじゆん     ひとひらの花のさまよふ耳順かな     花の塵踏みて散歩や山住ひ     春愁や草にねころび富士仰ぐ     花揺れてしづかな蜂の羽音かな     上弦の月の下なるの桜の夜     落花浴び若鹿われをみつめをる              した     死者無限桜散り敷く地下に生く     花筏続々落下堰越えて       宇部 京都 東京 京都 大阪 静岡 富士宮 (一時期インド、パリ)     流寓の果ての我が家や花の中       芝川断層     火の鳥が飛ぶ活断層の桜かな     美しき蓮華の畦や口に歌       聖地だといふ     するすると聖地真中を春の蛇     散る桜八十翁の怪気炎     ドアあけるホーホケキヨが呼びかける                   春山路右へ左へ君が家へ     春祭ねそべり「だつこ」と泣きわめく     春夕べ鏡にうつる翁顔     一匹の蜂の轟音春の園      は かげ     光撥ね翳撥ね落つる春の滝         わた     蒲公英の絮遊びゐるシャツタ街     春耕や虫の世界を騷しつ       動物園十句     コンドルの見つめる春の虚空かな     見つめられ春のペンギン考へる         せいたか     ペリカンの背高くらべ春の風     ハンザキの不動を囲む春の水       ハンザキ:オオサンセウウヲの別称      ガラス越し獅子の頬寄す春の昼     無聊にてあるく虎なり春の檻     羽根ひろげ孔雀変身春の風     紺碧の孔雀の肩へ散る桜          まなこ     絶壁に春の眼がありて象     動物園うらの林や百千鳥       活断層     足元の大地危うし春の月     遠くにて揺るる大地や芥子の花     水愛でる富士を愛でゐる春泉     若芝に脳置いて見る春の景     仕事するマルハナバチの音凛と     勤勉なマルハナバチを今朝も愛づ                 うみ     残る鴨点々置きてしづかな湖     車椅子足もて進む春の風             はし     ぼんやりと四月の端をわたりけり     達磨図や窓に浮きたる春の雲     ペダル踏む春の山河の風を切り        ☆     窓の外なべて山河や夏に入る          くら     新緑の森の昏きを歩みゐ     若葉山あわき光や鷹よぎる     富士山のきりりと立てり若葉道     滝壺の大空水の立ち上がる       まぶた     虹色の瞼あまたや合歓の花     積読の書は流れゆく天の川     信玄の越えし峠の若葉かな     新緑や緑の巨人立ち上がる  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 とにかく句作するよりほかない。句は理屈でつくるのではない。発想の現場に出会う。発想の端緒に 出会う。実際に作るのはあとにしても、そこから出発だ。  といっても自分なりに客観性を獲得させるため、俳論なども積極的に読んではいる。  あらためて、雑誌や本など「虚子の再発見」についての言及は多く、虚子への信仰はすさまじい。ぼ くも虚子の巨大さは常に感じている。大きな世界だ。だが、俳句作りが虚子一辺倒になったら、虚子信 者ばかりになったら、俳句の世界は一見表面的な豊かさとともに、多様性のない荒涼としたものになる はずだ。(社会性俳句、前衛俳句の否定などと表裏一体になっている訳だが。さらにこれとは別にアニ ミズムの復権のテーマなどはあるが、今回はふれずに置く。)    すべては説明の仕方だ。虚子信者ではないはずだが、五島高資が、かならずしも虚子だけの世界では ないが「天人合一」を使って、金子兜太の世界を説明している。ぼくも俳句だけではなく表現の世界に は、「天地同源」「万物一体」といった視点も必要と思い、それについての文章も書いたりしている。 (「天地同源」「万物一体」)    五島も俳句表現をすべて「天人合一」に集約しようとはしていない。芭蕉にも通じる俳句世界の通奏 低音の一つであるものとして、それなりに豊かな世界とも思えるのである。  五島の引用をしておく。  「「天人合一」    金子兜太が辿りついた至境」(五島高資)   天と人間との関係をどうとらえるかという問題は,中国思想史を貫く大きなテーマであるが,天・  人を対立するものとせず,本来それは一体のものであるとする思想,あるいはその一体性の回復を目  ざす修養,または一体となった境地を〈天人合一〉と呼んでいる。   すでに《荘子》において表明されているが,これを盛んに唱道したのは宋代の道学者であった。朱  子学でいう〈天理を存し人欲を去る〉という命題もひとつの天人合一論ということができる。  虚子世界としては、最近読んだものでは、『虚子と現代』(岩岡中正)が、ただ、虚子一辺倒の反省 の辞や、石牟礼道子への言及にももかかわらず、あくまでも読む側のしせいだが、間違って読むと虚子 教になりかねない懸念を含みつつも、おもしろかった。  次の稲畑汀子の文は、虚子の魅力をわかりやすくのべている。ただ、俳句全体、地球全体をかんがえ ると、その世界だけに安んじているのはいかがなものかな、と自戒を含めて思うのである。  稲畑汀子  (『高浜虚子の世界』)  小諸から帰った虚子は、救済の文学という考えを打ち出す。  虚子は自我を脱ぎすてたのである。  軽々と自由に、何物にも執着せず、自然と挨拶を交わし、すべてを善しと肯定して生きる虚子の姿が 浮かんでくる。そこでは空気は甘く光に満ち、動物も植物も喜びにあふれて遊んでいる。生も死もその ままでよいのである。  ところで、最近禅は痛めた足の痛さのゆえ、禅会場にいくもこともなくなっている。今までは間欠的 にではあるが禅は五十年近く続けていたことになる。  「人間禅」というグループがあることは、ネットはじめて以来知っていたが、今回あらためて覗いて みると、丸川春潭老師の講演録に次のようなものがあり、目新しさはないが、基本的というか自戒の意 味もあって引用しておきたい。(最近自戒することが多い)  「知識の集積だけでは創造はできない。感性が不可欠。」(丸川春潭)    セレンディピティとは、思いがけないひらめきであります。理論に加え、いろいろな知識経験を   総合しても所詮人知であり、隠れた宇宙の真理はまだ大部分が未知であります。その未知の存在に   気がづくには、人知を越えたひらめきが必要であり、このひらめきは知性ではなく感性の働きであ   ります。(丸川 春潭)    目次へ  **** 四月号 (2016年) **** (2016.3.31. 発行) ******       夢の世の窓辺の桜咲きにけり     消え行ける言葉灯りぬ春の闇     春風に吹かれ義兄の葬式に     朧夜のわれや本来無一物     対岸をゆくは我なり桜散る         あまつち     春霞富士天地に溶けて行く     春風の行方見てゐる山河かな     花の下死なぬ程度に眠りをる     春の日や虹色の水滝壺へ     紙飛行機春大空へ放ちけり     狂おしき季節や桜乱れ散る     まつすぐに人に来るなり春の鯉     禅寺を襲ふ桜の吹雪かな     くらくらと倒れてしまふ春の土堤     みんなみ     南に鶯鳴ける目覚かな     名園の朽ちて瓦礫に菫花     カーテンのふくるる春の窓辺かな     世はいつも戦国時代花吹雪      「よそみしないで」と妻の叱責     桜見て富士見てさくら運転す     腰痛し背中痛しや桜山       森の家     春の芝ちいさな蛙とび渡る     まほろばや春の朧の石舞台     隕石の近づく響き春の闇     廃村や春の空気の気迫満つ     しまだ           島田髪へと散りゆく美しき桜かな     春の水燿き堰をこえ行けり     追いかける孤独と恐れ花の闇     宇宙的妄想危ふし春の暮     春の月街煌々と生きてゐる       ババ抜き     啓蟄やババに好まれ愛されて     春の野やくらげのやうに漂流す     うみ     湖の水蓮華野とほり滝と落つ     石像のかぐや姫見る春の富士     急峻な春の小川や心せく     春の日や緑輝く森に住む       小隧道     隧道をしやがみ抜ければ若葉かな     とりあへず桜吹雪の中に待つ     理科室の人体模型春日浴ぶ     笠雲をゆつたりかぶり春の富士     3・11宇宙創世沈思する     別れ花柩に溢る春の葬     前頭葉ころがしてゆく春の道     春の野辺真白き富士の浮遊かな     春の空ぐんぐん伸びる大枯木     病院の廊下のはての春の雲     春の野をかける木馬や空を富士     未来ある歌満ちて来る春野かな     雲湧くや消えて顕わる春の富士     無住寺の艶なる楊貴妃桜かな     折鶴を春の富士へと翔たせけり     薔薇の芽の輝く先の春の海     大いなる桜吹雪に透けて富士     散る桜古墳の闇に消え行けり     鳥獣の呼び合ふ声や春の森       新幹線     春雨をけぶらせ進むのぞみかな     富士の肩なだれて春の駿河湾     春風やにこにこ顔で哭く翁     はにかみて春の子供の別れかな     禅林や白砂飛べる春の蝶     順番に死んで消えゆく春の闇     硝子戸へ桜吹雪の我が家かな     春の丘三角点より富士を見る     黒土に螺鈿のやうに梅の花     別々の花浴びてゐる別れかな     馥郁を春の野辺にて摘みにけり     大口に無数の椿笑い出す     自然今ページめくるや春の景     国境は胸にそびゆる遠き春     わが愚をば吐きて蹴りたき春野かな       庭、猫の餌がたつぷり置いてある隣家の庭へ            猫の餌を盗りにたぬきや春の芝     春の庭狸は森へお帰りに     熊笹に動くは狸か捨て猫か     花吹雪星々またたき深きかな             山笑ふ笑みて翁の散歩かな        ☆     十字軍殲滅砂漠の青嵐     空海はわが体内を泳ぐかな     狼のいない月夜や森唸る     行儀よくストーブ待てる薪たち  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 森澄雄のかつてのインタヴューの   「いまの俳人は頭をつかいすぎる。人間の平凡ないのちがあれば、俳句は自然に生まれるもの」 といった俳句の低調への憤りをめぐって書こうと思ったが、あれこれいってもはじまらない。森澄雄 のいうように 「俳壇とは関係なく、自分の俳句をつくってゆくだけ」という姿勢につとめるよりほかない。  しかしまた森澄雄流に「最悪な」現状を憂えるあまり、其の強い思いのゆえに自分勝手にたとえば飯 島晴子のある句(「翔べよ翔べ老人ホームの干布団」)などを「甘い」と排斥したり、一方では「虚に 居て実をおこなうべし」を常々考えているといいながらも、俳句をせまく窮屈なものにしてしまう結果 になるのは不毛だ。  ついつい自分の考えに合わないものを排斥したくなるのが人間で、俳句の世界でも普通に行われてい ることではあるが、少なくとも俳句という詩の世界では、そういった句は自分はつくらないという姿勢 を保つのは当然として、自分に合わないからといって、排斥的な発言になることはやめたいものだ。  【追加】   飯島晴子への発言は「蛇笏賞」を与えるかどうかの発言で、澄雄もその委員でなければ無視していれ ば済んだことで、排斥とはやや言い過ぎだったと思えるが、いずれにしろ、他を認めまいとして攻撃的 になる様は時々みかけることではある。  一般的に言えば、俳句は玩具にもなりうる。俳句という玩具(玩物)に喪志する「玩物喪志」はここ ろしたいことだ。                       目次へ  **** 三月号 (2016年) **** (2016.2.29. 発行) ******     退屈な春の波なり見て飽かず     雲割れて春の光の富士の山     立春やシヨーウインドに子犬跳ね     交差点続々渡る春の顔     春の樹へ一直線の小鳥たち     飛び跳ねて春の鹿なり塀越ゆる     焚き火跡灰の中から菫草     妄動の果ての奇跡や龍天に     春の闇ものを思へば怒濤寄す     とりあへず藪で小用春を行く     梅か桃すももの花か断じ得ず      吉本隆明の「廃人の歌」の一節使用     妄想によつて廃人花嵐     春の日や大きな虹の中に瀧     梅の香にむせて見上ぐや富士の山     白梅や空に輝く富士の嶺           かいば     春の空巨大な海馬富士を越ゆ        海馬:記憶をつかさどる脳の一部、ギリシア神話の神ポセイドンの乗る海の怪獣でもある      アメリカ     ギヤツビーは花の闇へと消えゆけり        春月の統べゐる銀の雪世界     論ずるに足らざる栄枯花と月          くれなゐ     雪を着て椿紅冴え返る     牡丹雪天の小さな道化たち           うしほ     盛り上がる春の潮よ日がのぼる        春駈けるノーテンキなる若者よ      自然界のヒエラルキー 餌(ゑさ)場にて      やまがら     山雀に餌を譲りて四十雀     文明はさびしやさびし四月馬鹿     異国船はるか背後を鯨かな     林の奥清く輝く春の雪      年とつた     春の川心の中で飛ぶ姿勢     春の街悲劇が突撃して来たる          たま     鳥形の軽き魂飛ぶ春の森                 ひと      マネキンの視線の中を春の女      高層ビル屋上     鳥瞰やはるかに蝶よ鳶烏      森の中の家     乾杯す若芽萌え立つ空の富士     春立てり五百羅漢の喜怒と哀     春風の緑の見ゆるその一瞬     まなうら       なゐ      眼裏に顕はる恐怖春の地震     春焚火灰より立ち上がりたるものよ     流さるる世相なげくや老の春     鳥籠に鳥無き春の芝生かな     春の山明鏡の池蔵しをり     忘れ物かげろふの野に見つけたり     春風やはためく「横断中」の旗     雲となり春の山河を浮遊せむ     凡庸な水無川や春出水     寂寞や空をただよふ春の雲      富士山麓より遠望     山麓や浮かびて春の駿河湾     春の闇並びゆく人溝に消ゆ     風光る海賊船に子供多々     鴎飛ぶ春日をあびて白き腹     渋滞の先は桃さく昼寝村      神の池二句     お尻あげ潜る鴨たち春の池     鱒襲ふ川鵜をなげく春の老     流れ行く赤き椿と歩をあはす     春の昼拝めば観音チリとなく        ☆     雪原の果てに青空大宇宙       あられ     熊笹に霰日暮の遠谺     野ざらしの髑髏の歯音夕枯野     よろめけば寒の水なり丸木橋     静物にしづかに雪の降る谷間     首都高が屋根や真冬の外寝人  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 脈絡もなく、四つの引用をしておく ○「考えるとは、映像をつくりだすことだ。」(ヴィットゲンシュタイン) ○「これまでにも繰り返し言っているように、若い頃からぼくが最も感心している芭蕉の俳論に <虚に居て実をおこなふべし>(各務支考『俳諧十論』)というのがあります。これがぼくの俳 句観の根本になっている思想なんです。」(森澄雄) ○言語は自己表出(沈黙)と指示表出のおりなすもの (吉本隆明) ○一微塵の中に世界を映じ、一刹那の中に永遠を含む (華厳経)                       目次へ  **** 二月号 (2016年) **** (2016.1.30. 発行) ******     雪原や青空聳ゆ富士聳ゆ     愛憎や丑三つ時の初詣     裏山と共に浴び居り富士初日     唱和する山川草木初御空      「カルミナ・ブラーナ」二句     運命の輪は廻り継ぐ去年今年      かつて湖に、美しき白鳥であった。今は焼かれて、大きな口がせまつてゐる     空無限白鳥なりし頃の青      山宮神社 本殿はなく遥拝所よりご神体富士を直接拝する     ご神体富士の気韻や初詣     しづけさやコゲラ寒林叩く音      朝霧高原 ハンググライダーのメツカの一つ     冬空やハンググライダー湧きに湧く        やいば     谷底や刃のごとき寒の水     冬の滝清き大気を震わせて     青空は屋根のごとしや寒の森     冬の日やベランダに聴く笹の風                 まなこ     近づけば退くカモシカ眼澄み      いつしか霧     寒林は墨絵の淡き世界へと     寒林やさまよふ理由不確かに     寒林のいつか迷路となりにけり     寒林の寝息我が家へとどきけり     藻の陰に潜みて静か冬の鱒             とりけもの     初夢の中を乱舞の鳥獣      妻寝言 歌つてゐる 演奏会近し     寒の夜や寝言に歌ふレクイエム     森深し雨が雪へとかはる闇     雪はねて木々は姿勢を取り戻す     大雪原湖面のやうに月渡る     中天に冬大三角や黒き富士     大寒や輝き尖る剣ケ峰     青空や河豚のふくるる姿雲     投げ餌欲り都鳥くる神の池      富士宮             かた     歳晩の街や思はぬ方に富士           ふるさとの枯枝にある懸り凧     天籟や雪の山河をわが家へと     雪の野や大樹大きく手をひろげ     雪しづく森や一大交響楽      地方都市 駅前はさびしいシヤツター街     歳晩やイオンモールの繁華街              きた     雪原や天より聖き風来る     枯枝に火星燃え立つ夕べかな     はね踊る雪の餌場の小鳥かな     冬の街欅大樹の肌の荒れ     陸橋や靄にうづもれ地方都市     時雨るるやくづれさうなる崖の家     円形の古墳にまるき冬日かな     闇の中白隆々と残り雪      四十雀 山雀たちよ            から     寒林を遊ぶ妖精雀たちよ     厳寒や錐揉むごとくわれ進む     降る雪や橋の上なる長話     枯木大樹声をあげたる月夜かな     雪の原かけてる犬とその従者     青天や林の奥の闇の雪      死が近いやうに思へる     立ち上がり雪の森へと老狸     唇に歌や雪野をゆく女        ☆     膨らんでくる春風や富士裾野     平凡な軍人墓地あり春の丘     春の野辺浮力あるごとただよへり     おたがひは異邦の人か花吹雪     かげろふ     蜉蝣と思ふこの世や藪蚊来る      ぬいぐるみ     熊さんの棚にいじける良夜かな     吊し柿果肉は黒く輝けり       戦争     人殺す結果になつて殺されて  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 一部すでに引用しているが、あらためて「龍太語録」から、心して  ○ 自分の作品として十分納得できた、言いたいことが言えたということが基本であるべきだ。  ○ 一代の名句と称する作品はことごとく個性を超えたところに位置している。                       目次へ  **** 一月号 (2016年) **** (2015.12.30. 発行) ******       西富士に住む (朝霧高原の一角、森の中)           べに      あふまどき     紅富士の天に出現逢魔刻     地より湧き我が家襲へる濃霧かな     考へる枯葦として富士仰ぐ     霜の屋根虹色世界美しき     袖広げ七五三の子舞ひ上がる     神経図大きく広げわが枯木     落葉踏みまた来てくれたカモシカよ       ウオシユレット     湯の噴いてお尻安堵や冬の朝                なゐ     かまきりの泰然自若昼の地震     日本は望の月なり遠きテロ     人間は複雑単純テロの秋     濃霧割れ富士がどんどん迫り来る     砂山の向うは奈落冬銀河     一本の道へ消えゆく冬の人       アニメソング・コンサート     敬礼をする若者ら冬銀河     冬空へ決意の槍を投げてゐる          まなこ     驚愕す鼓膜眼や鹿倒る     落葉踏むなつかしき曲わきおこる     正しさは人の数だけ去年今年     シリウスの瞬き強し富士黒し     オリオンの四角と富士の黒三角     溶岩に立ちて沈思の冬の人     小春日や富士ゆつたりと裾ひろげ     水底に春光満てる寒さかな     乱世は今日も続くや大晦日     時雨けり大きな玻璃の窓の外     寒林や見たくなき景透けて見ゆ     枯蟷螂しづか網戸に死をまてり            大宇宙さまよふための蒲団かな     谿谷は白息吐けり冬の朝     薪たちの順をまつてる暖炉かな     熊笹のさやに騒げる寒の風     鳰の笛しづかにひびく逆さ富士     暗闇の奥は漆黒年の暮     冬晴や山頂にある天使像     無心にて鴨浮かびをる神の池     カモシカと見てゐる森の真の闇     紅葉濃し魔法の森となりにけり     送電塔大きな熊が登りゐる       飛鳥 入鹿首塚     首塚に籾焼く苅田の煙かな     茶の花の波に浮かんで富士の嶺            かまきり     ベランダに首無き蟷螂 犯人は?     湿原は冬日に輝き空を富士     輝ける光の池に浮かぶ鴨     寒林や肌やはらかき昼の月     寒月を黒くぬるごと黒き雲     黒々と初冬の土あげ土竜かな     草莽は野に住みこの世大枯野     寒泉底より命ふきあげて     青空を見つめて桜の蕾たち     冬の川烏行水終えるとこ     冬の池傷ある鱒の眼鋭き     冬晴や富士はしづかに歓声を     木の実ふる山路楽しくなりにけり     言い訳をなぜかしてゐる柚子湯かな       「かつて若かつた」自分へも     瞬間を生き生き生きよ去年今年       心の欲する所に従えども矩を踰えず (従心)     従心という語輝く師走かな       「市中の隠」     なりきれぬ山中の隠去年今年     寒林の空あたたかき富士の白     わが部品少々摩耗初詣             時雨の音ききつあれこれ別の思慮     風に首よく振る尾花や尾花なか     寒林やわれのくさめの大こだま       極々私的な句。田貫湖からは、雪が積もると富士大沢崩れに亡き愛犬プリの顔の雪型が浮き上がる。       少し北の「道の駅」から見ると、やや斜め顔で、羊に見える。      ここからは羊と見ゆる雪のプリ             まなこ     カモシカのしづかな眼裏庭に     リーダーを求め過ぎるな雪の富士     冬の夜や真澄を掃きて箒星     枯枝や鳥美しく枝移り     銀色の月が寒夜の富士の空                のぼ     寒林や木の間を月のいま上る     辻公園しづか日を浴ぶ師走かな     わが森はわが大宇宙冬籠       ☆                           堕ちてゆく世界へ美しき初日かな       昔幼児だつた     背負はれて空襲ただ中夏の夜     静脈をデモン泳げる体かな       山道を雉子が急に横切ろうとして車で驚かすことに     雉子諸君車は急に止まれない  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
俳句の短さについて。 俳句は短い。五七五を基本とする。 その短さを生かすにはマクロとミクロという二つの面からの考察が必要であろう。 「マクロ」 大きくとらえる。しかし言い出したらきりがない。短く端的に表現する。 「ミクロ」 焦点をしぼりきり、短く表現する。    考察というほどではないが、「短さ」の効果を十分意識して句作したいものだ。                         目次へ  **** 十二月号 (2015年) **** (2015.11.30. 発行) ******     黒き波冬の波止場に白く散る     窓辺より蟷螂のぞくわが家かな     ゆつくりと虹崩れゆく花野かな     青空をしばし泳げる落葉かな     甘美なりや地球最後の夕焼は     赤とんぼおのれの影の上を飛ぶ     天高し阿修羅仰げる大宇宙     天高し鳶を追つてる烏かな     雨の坂落葉にすべるまたすべる     滝真白空に富士ある紅葉かな     霧の中妖しく揺れて紅葉かな     紅葉燃ゆさざ波たてつ燃ゆる池     両輪は自由と孤立秋の暮     公園の落葉をわけてつがひ鳩     旧街道背後を釣瓶落かな     ふくろふの目玉の中の森に住む       UFOのやうな雲     三輪山や秋空ユーフオ雲の浮く       まなこ     枯蟷螂眼の奥の山河かな     下り坂最高自転車花野道     窓の戸に挟まるかまきり救出す     暖炉の火はぜてはるけき昔かな     錦なす紅葉山より白き滝     面白や釣瓶落しのこの濁世     かまきりたち目配せ交わす家の壁     白波の上に凍れる富士の嶺     六角の白灯台の時雨かな                   秋風や羽衣の松絹の音を     もみぢやま くち     紅葉山明るき口で滝を吐く     寒満月煌々窓の結露かな     朝日うけ朱の燃えたてり大紅葉     小春日の袋小路をさまよへり     小春日や輝いてゐる平和の碑     小春日や光の波の中をゆく     心音の明るく響く小春かな     小春日や暗渠流るるわが思ひ     寝転んで雪虫飛ぶ見る無聊かな       紅葉落葉     赤き影撒きて紅葉の大樹かな         てうづ     冬日浴び手水静かに揺れてゐる     寒林や雉子鳴く声のしずけさに     夕焼けに紅蓮一筋飛行雲     蟷螂等死を待つてゐる冬の壁     冬の日を吸いて輝く薄かな     秋晴や大便たんといでにけり     コスモスの波に浮かびて富士の山     亀虫を憎むにあらず潰しをく     落葉舞ふ交響曲がわきおこる     時雨降る神の池なり鴨余裕     飛鳥なるかはいい小蛇今朝の秋                      ひる     我が庭の椅子登頂をめざす蛭     この狭き地球にテロやシクラメン         かひな     老い皺の腕に冬の朝日かな     地球号SOSや秋の暮       借景の塩梅(了解済)を追求する妻     冬の森妻の命じし木を倒す           きよ     冬の森奥より聖き光かな     冬青空日輪黒く輝けり     冬日あび富士まどろめり山麓も     寝転んで冬の夕陽を足で蹴る     薄野や涙腺ゆるくなりにけり       三輪神社への道のべ 木の幹枝の断面               ほと なり     山の辺の秋やあきらか女陰の形     幸せなはうかや雪の富士仰ぐ     我もまた狡しと枯野見つ思ふ     紅葉の林ぬけ出で雪の富士       「(わて)パーでんねん」     「パーでんねえ」その語なつかし十二月     触発の世界平和よ去年今年        ☆     初山河草木なべて輝けり      地獄とは他人のことや初詣     宇宙へと浮き出て春の月夜かな     尾の長き人猫になる春の園       奈良公園 中学生が餌をやつてゐる     鹿プイと吐くせんべいや春の風     八雲立つ富士山麓や種をまく     炎帝は核融合をしてをられ     駿河なる蜘蛛の囲に透け富士の山  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 以下、寺田寅彦「俳諧の本質的概論」からの引用。  饒舌(じょうぜつ)よりはむしろ沈黙によって現わされうるものを十七字の幻術によってきわめてい きいきと表現しようというのが俳諧の使命である。ホーマーやダンテの多弁では到底描くことのできな い真実を、つば元まできり込んで、西瓜すいかを切るごとく、大木を倒すごとき意気込みをもって摘出 し描写するのである。    この幻術の秘訣ひけつはどこにあるかと言えば、それは象徴の暗示によって読者の連想の活動を刺激 するという修辞学的の方法によるほかはない。                       目次へ  **** 十一月号 (2015年) **** (2015.10.31. 発行) ******     月光のそれは明るき森の家     落葉踏み森の我が家へ帰宅かな       砂煙            のろし     天高し大沢崩れ狼煙あぐ     秋風や吹きゆく方のうす暗き     秋風や人波に彼消えゆけり     雲の中月独り行く輝きて     紅葉散る森の精たち踊り落つ     銀河へと飛び込む胆力欲しきとも       方位による厄年          ふさがり     われ今年八方塞秋の暮     秘められし夢の輝く秋の暮     目蓋閉じ又あけてみる秋の暮     革命や疲弊あちこち秋の暮     宇宙より輝きおつる滝無音           まなこ     枯蟷螂平常心の眼かな     いつだつて乱世いつもの秋の暮     心なる鎧をはづし祭かな     日の当たる道のまつすぐ秋の森     天高し欲は宇宙の果てまでも     カーテンに秋の朝日や二日酔     木霊して胸の奥処を落つ木の実     鴉殿徒歩渡りゆく秋の川        もぐら     秋日浴び土竜死にたる芝生かな     かもしか     羚羊の足の跡だと断定す       田貫湖 映画ロケ     秋の湖ロケをみつめる烏かな     青空へ吸ひこまれゆく秋津かな       富士     初冠雪美しかりし一日かな     釣り人の眠りおちさう秋の湖                せな     楽か苦かおんぶバツタの背の雄       そのユーモア その憂鬱 時代に対する真摯さ     漱石は奇妙な作家秋彼岸     雲間より富士の見てゐる祭かな     紅葉映ゆる池に水垢離乙女かな     岩飛んで渡り遊ぶや紅葉川     大木の道ふさぎ居る秋の森     さんちや     山茶咲くしづかな道のその暗さ               たま     月の道亡霊のごとわが魂は     草紅葉大草原に月昇る     秋晴や富士の空なる狼煙雲     強がつて戦ふ世界月光下     赤とんぼ蜘蛛の囲の縁飛び過ぎぬ     凩や我は奥へと奥津城へ     凩や時代はいつも激動期     かなしきは蟷螂の眼に吹く秋の風     境涯をとにかく生きろ秋の暮          コスプレの時代の祭ハロウイン       飛鳥・奈良十四句       甘樫の丘     甘樫ゆ刈田に籾を焼く煙     逢魔時飛鳥の山に月あがる     天高し空気甘しよ飛鳥野は       飛鳥大仏     かんばせ とき     顔の傷に刻古る秋の暮     飛鳥なる豊けき柿に朝日かな     凩ややがて逝く吾死者の野を     猿石の笑ひ戯る秋の暮       柿、柿、柿だ     天武喰ひ持統も喰へる柿の裔     八方へ千手伸ゆく秋の暮     御仏の指の先へと秋日差し             まなこ     三山を見渡す秋の眼かな     明日香風昔乙女が秋の田を     亀石や天下の秋を笑むごとし     平城京跡地広漠秋の風        ☆     冬籠屋根裏で漕ぐエアバイク     わが脳のプールを泳ぐ小人たち     ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
   最近ひさしぶりにウィトゲンシュタインの有名な言葉に再会した。  いわく「語られうるもの以外何も語らぬこと」  それは呪文のような言葉で、詩や小説を目ざしていた若い時代にはずいぶん反発したものだ。  「語られうるもの以外何も語らぬこと」 ただし、これは哲学そのものについていっているようであ  る。(文学は哲学ではない。)  その真意については異論も多く、簡単にまとめることはできない。その後その言葉を反省的に発展さ  せ「沈黙する」のではなく、たとえば神秘なるものは「示す」ことができるというように「示されう  るもの」への言及にいたるようになった。  さて俳句は語るものではない。少ない言葉で「何かを示す」文学である。語らないことによって何か  を語る「沈黙に無限に近い文学」ともいえる。  はたして自分には「示す」何かがあるのであろうか。  日常生活の中で、眼を開いて、また眼を閉じて、「示されうる」何かをみつめたい。  もちろん、俳句、そして芸術(たとえ第二芸術であれ)は、単なる理屈ではなく、理屈を超えた感性  的なものの表現であることはいうまでもない。  (勿論それだけに限らず、なにげない日常的な世界の中で何かに出会い、見つけ発見したことを表現 するのも大切なことである。)                       目次へ   **** 十月号 (2015年) **** (2015.9.30. 発行) ******     天高しゆつくりいそぐかたつむり     満月の沈む西方浄土かな     青空や口あんぐりとあけびの実     星くづの子孫のわれら月光下     サイレンの音遠ざかる虫時雨     サイレンと点滅灯と虫時雨     月光や海のかなたの独裁者     屠殺場に月光そそぐ山河また     ささやきの声のさざ波大花野     眼疲れや秋の遠嶺に目をいやす     裏の森カモシカたたずむ時雨かな     靴結ぶ肩に紅葉の落葉かな     背景の揺れ揺れ揺るる秋の風     静寂の色に染まるや秋の森     野分過ぐ雲の裳裾をからげ富士     夢の世へゆだねる心合歓の花     月に鳴くあまたの虫の無月かな     秋風は富士の方から吹きそむる     稔田や電線雀たち待機     秋の暮袋小路のどんづまり     秋の野や馬は愁ひの目を放つ     白き旗めざし薄の迷路かな     鳥翔ちし枝ゆれてゐる秋の暮     薄原ラバ溶岩に腰おろす     秋天や光まとひてたつ大樹     真夜めざめ満月見ゆる窓辺かな     目蓋閉じあふるる光秋の暮     泉水の底より湧きて秋の声     薄原孫が隠れて探す役     石像の巨人は闇へ秋の暮     苔むせる椎の木頼む秋の暮     カナブンは秋の日を浴び死んでゐる     曼珠沙華富士へ高まる棚田道     真夜めざめ雨と違ひし虫時雨     秋の暮芝生の白椅子光りだす     青栗の光とらへて輝けり     豊の秋歩むや電気柵のそと     名月も落花も淡き夢のなか     やつ        と     谷戸ゆける雲水たちの鋭きまなこ     法雨まき雲水ゆけり鎌倉は       強行採決     日本の闇虫たちの狂ひ鳴き     萩の花乱れ咲く野をかきわけて     わが闇の広きを虫の鳴き広ぐ     尾をたてて白き猫ゆく花野かな       誕生日は九月一日     震災忌厚きステーキ噛みあます     菊の花死者は背後を浮遊する     カルガモの一人あそびや紅葉谷     しらけをるハツピ姿の祭りの子     奥山の池の水面へいなびかり     秋の森眼大きく我をみる     秋の森鼓膜大きく我を聞く     縁ありて富士に住ひす曼珠沙華     星月夜仮面の裏の深き闇     月光が解剖台の富士にかな     裏の道野分の川となりにけり     秋晴や光堂過ぎ衣川     馬の息向かふは秋の富士の山     初秋の登呂に来てをりクソ暑し     宇宙エレベータ下りて大地の秋の暮     色鳥を仲間と思ふ森住ひ        ☆     なんとなく春の柱を抱いてゐる       湧玉池     池に漬く岩に水浴び神の鳩       ひとは     万緑や一葉一葉のゆれてゐる     熱燗やあの人この人死んでゆく     秋を過ぎ知らない町の冬に入る     さやうなら流れに梅花藻揺れゐたり     耳澄ませ冬の静寂聞いてゐる     青苔の海なす庭や春の風     冬霞あいつとぼくが消えてゆく     寒晴の森の奥へと男女かな     師の道を遠く離れて枯野かな ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 「短さ」への情熱? バカだねえ。  人間はそれぞれのあり方において、それなりにバカであるといったバカ論はやめておく。  ただ、バカを自認した漫画家赤塚不二夫の一見真面目過ぎる発言を。  「ただバカっつったって、ホントのバカじゃダメなんだからな。知性とパイオニア精神にあふれたバ カになんなきゃいけないのだ。」                       目次へ   **** 九月号 (2015年) **** (2015.8.30. 発行) ******     テレビでは河馬の河馬の子生むところ     夏の河河馬の河馬の子生むところ     夢の世にうつつありけり原爆忌     幽谷や霧の中より滝の音     大いなる虹に見とれてわれらかな     滝の上へ水は無心に流れゆく       娘、その夫と息子とパリ メールにて     パリ涼し娘伝へる大暑かな     公民館壊す埃は炎天へ     炎天や表参道人影無     市役所のたらひ回しや大西日     炎天下地図を見つめて動かない     大音声的に矢当る涼しさよ     豪華なる闇と消え行く花火かな     影踊る手筒花火の火の粉浴び     老年や蝉見つけんと首痛し     谷川に流す魂雲の峰     熱帯夜和金数匹苦しさう     まさかさま夏の淵へと飛びこめり             たい     晩夏光浴びてわが体何を待つ     透明なしづかな秋の空気かな     清らかな光り浴びゐる良夜かな     秋雨の音のしづけき林ゆく     秋雨や森林弦楽四重奏     空瓶の立つ秋雨の芝生かな     われ生きてゐるを発見夜半の秋       富士山麓の森の中の我が家にも広島への黙祷の時間が来る。       長崎原爆忌は旧暦では秋になるが、こだわることはない。長崎はまさに夏の最中だった。     黙祷の時間広がる夏の森     夜霧濃しあがる飛沫を泳ぎゆく       いつだつて時代はきな臭い                             秋の夜や時代が迫る我に迫る       長く生きてゐると     後悔はあれこれ無限天高し     阿阿呆と他人を我を秋の暮     蛸壺の動き出したる月の浜     天高し地の激流を流る身か     幻想の赤く色づく秋の森     天高し廓然無聖とただ歩む     亡霊の如き国家や豊の秋     小粒なる秀才あまた豊の秋     秋風や鈍き光りの銀閣寺     秋風や悠然と立つ無名像     猪の突進してくる山路かな     魂の紅葉してゐる大樹かな     裏山の釣瓶落しを愛でてゐる     田舎道祭太鼓に歩をはやめ     昨夜火のかけめぐりたる施餓鬼川     剥製の鹿の見ている秋時雨     半熟の秋の卵が空を飛ぶ     無人バス秋の峠を越ゆところ     明らかに衝突音や今朝の秋     人生を笑みて歩めり曼珠沙華     秋の夜や水車のこぼす黒い水     栗の毬二三個蹴りて散歩かな     頼まれて潰したりけり夜の蜘蛛     いたづらに吹く秋風や蜘蛛の尻       富士宮市役所の放送がきこえる。「今日は、70回目の終戦の日にあたります。戦争によって亡く       なられた方々の霊をなぐさめるとともに、世界平和の願いを込めて、サイレンを放送いたしますの       で、一分間の黙祷を捧げましょう。」駐車空間をみつける。     敗戦日ハンドルを手に黙祷す     流されて流水プール雲の峰     稔田や「電気牧柵危険です」     滝風にあおふられのぼる黒揚羽     緑陰やニコニコ顔が会釈する     蜻蛉飛ぶ秋の空気をかじりつつ     里川にナイヤガラと落つ花火かな     死に体やつくつく法師耳元に     知らぬ間に薄揺れゐる庭の隅     プールにて劇雨となりし喜悦かな     秋風は仮面の下に湧きにけり     虹まとひ蜥蜴走るや今朝の秋     やはらかに蜥蜴のぼり来網戸かな       「脱出ゲーム」     名月やスマホにかぐや姫ゲーム     いつか死ぬわれに揺れてる芒かな     白髪へしきりに落つる木の実かな     人に会ふたびに会釈の墓参かな             くち     巫女たちの優しき唇へ秋の風     豊の秋花緒の下駄が置いてある     月へ笑む白銀世界只中に     長寿なる神の死思ふ夜半の秋       偶然の一致     釣人と海鵜は瞬時魚を得る     秋風やパンドラの箱片隅に     鳩小屋に鳩の不在や秋の風     秋風や鳩の羽根浮く神の池     こころしてはげむつもりぞ秋の暮     玻璃窓に富士ある釣瓶落しかな     コスモスの畑の中でバス待つ子     戦争のにほひほの湧く薄の夜     サヤウナラ影はるかなる花野かな     疾走すエアロバイクで夜半の秋        ☆     滝壺へ落葉となりて投身す     武装せし心の底の隙間風     梟が進軍ラツパふく夜だ     生まれたる光あふるる春の森     夢の世や蝶のかたちの夢が飛ぶ ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 この九月号で、個人雑誌『富士山麓』は発刊以来三周年となった。  最初はとりあえず五年間と思ってはじめた。あと二年ということになる。  あと二年は目下の目標である。勿論それで句作をやめるわけではない。  それ以降は、場合によっては隔月刊、季刊などペースをおとすことになると思う。  正岡子規は「禅とは平気で死ぬことかとおもっていたら、平気で生きて居ることであった。」  と述懐しているが、「平気」という語彙を使い、「一見表面的には平気で、もう二年間は俳句  を作り続ける」ことに日々をそそぎたい。  最近あらためて芭蕉の言葉を思うことがおおい。特に気になることばを三つあげておく。   名人はあやふきにあそぶ       (『俳諧問答』許六)   点者をすべきより、乞食をせよ    (『石舎利集』孟遠)   きのふの我に飽くべし        (『俳諧無門関』蓼太)   上記と重なるが、句作上、心にとめているものとして    「上手になる道筋たしかにあり。師によらず、弟子によらず、流によらず、器によらず、    畢竟句数多く吐き出したるものの、昨日の我に飽きける人こそ上手なり」(『篇突』許六)  なお、角川『俳句』(2015年8月号)の小澤實主宰「澤」創刊15周年の記事に中沢新一の記念講  演への言及がある。あまり俳句サイドから自画自賛的になることもないが、こころしていいことと思  う。   「人類十万年の歴史のなかで途切れることなく続いた詩を、短い俳句という型にここまで洗練させ   たのは日本人だけである」   「俳句を作るとき、私たちは大きな叡知の歴史のなかにいる」(中沢新一)                       目次へ   **** 八月号 (2015年) **** (2015.7.30. 発行) ******          はう     燕の子富士の方向き親を待つ     夏富士の赤き埃のたつところ     わが影を踏みゆく街の暑さかな     万緑や雨の真白き糸見つむ     一山の合歓の花咲く目覚めかな       すいてき     滝壺や水滴虹となりあそぶ     霧深し地鳴と響く滝の音     それぞれの位置に影あり夏の朝       ひぐらしは朝と夕迫るやうに鳴く     かなかなに包囲されてる朝目醒     ひぐらしの絶叫朝へ澄み渡る     かなかなの音ビンビンと裸へと     真夜の森お化け屋敷かちらちら火       大げさな雑草退治     炎天下火器にて雑草大地焼く     万緑や流れて万の風の色     飛び跳ねる夏の少年それが孫     朝顔は昔浴衣の色に咲く           とき     朝顔のしぼむ刻くる定めかな     万緑や影黒々と真昼なり       人間それぞれのありかたにおいてそれぞれの狂気をもつ     わが脳に多少の狂気夏野行く     横町をまがればはるかなる青田     万緑や眼前せまる白き花     よき乙女よき苗なげる田植祭                     神の田の真中に映り神の陽よ       神の田に由来する川     七夕や雨に濁れる神田川     塀こえて響くプールの若さかな     岩黒し滝純白にたぎり落つ     緑陰に水音ひびく快楽かな     しづけさや子らの声消す滝の音     くず ふるさと     葛隠す故郷道となりにけり     万緑や心放てば蝶となる       幼児 おそるおそる     遠ざかる「青虫くーんまたあそぼ」         するど     残雪の一筋鋭初夏の富士     万緑の声の響きの中にゐる     日の光すきとほりゆく若葉かな         まなこ     青天や淡き眼の合歓の花     マンネリにテレビ体操夏の朝                 じやう     万緑や我が家は富士のマグマ上     夏の夜の通奏低音かはづ鳴く                  万緑や枝から枝へ疾く小鳥     かなかなの空吊橋をわたるかな     青田道虻にかまるる蚊にささる     池底におよぐ魚見る大暑かな     夏の朝光と鳥のはじけをる     ふくろうの凝視す夏の闇の芯         やまひ     宗教に頼る病や夕化粧     台風へ釘打つ雨戸合歓の花     ひはだぶき  ゆだち おと ゆか     桧皮葺はげしき夕立の音懐し     万緑の波やひらひら真白き手     夏の夜の夢の奥行き限りなし     羊水に揺らるるごとき夏夕べ     夏の月ねむたきねむりねむりたし     夏草や城址の長き石の段       東京     炎天や人工洞窟地下街へ     炎天や神楽坂上炎天下     森の奥夏の光が溢れゐる     夕焼の背後黒々大宇宙        きぞ     夏の朝昨夜の断定砕けゆく     万緑や無名の目立たぬ木々諸君       検索     相思鳥かグーグル見れどわからない           あひ     永遠と一瞬の間夏怒濤     合歓の花散り敷く道の夢のごと     赤とんぼかき分け洗濯物を干す        ☆     鳩たちが道をゆづりし恵方かな     青空や今日は凧ある富士見坂     煩雑な人間世界望の月     故郷の夜霧の奥の大宇宙         あ たま     霧深し蝶現れ魂と消えゆけり     夜霧濃し霧の日本がうづくまる     やはらかく富士に笠雲花野ゆく     秋天へ一点と消えわが悪意     蒲団着て宇宙さ迷うふ星月夜     ドーナツの穴まなかより秋の声     星月夜螺旋階段どこまでも     朝霧や青田の上を白き鷺     月光をまとひ全き山河かな     落し穴落ちたるままの枯野かな     大銀河その末端にわれらかな     万緑へ落ちゆく真白き天使かな ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 次のように思ってみるのもまた一興。  ランダムアルゴリズムという言葉があるようだ。デタラメに、行き当たりばったりにやったほうがか えってうまくゆくことになることがあるというのである。このアルゴリズムは自動掃除機には有効のよ うだが、当然万能ではない。  とりあえず行き当たりばったりに何かにであう、はっとする光景にであう。日頃読まないジャンルの 本を読む。日頃見ないジャンルのテレビを見る。行き当たりばったりに言葉にであう。偶然の出会いか ら、何かがはじまる。それが俳句であったりする。                       目次へ   **** 七月号 (2015年) **** (2015.6.28. 発行) ******       齢のせいか「去年今年(こぞことし)」の感慨はなにかと沸きおこる     矛盾的自己同一や去年今年       ☆     郭公や森の谺を鳴き通す     梅雨の雨富士胎内の心地よさ     万緑やわれの泳ぐは生死海       姿は見えない     三光鳥ききつとにかく朝寝かな       わが家の合歓の木の枝に     三光鳥姿を見たる安堵かな     円窓にまつたき夏のみどりかな     ゆつたりと流れ渦巻く滝の上     春は丸夏は三角冬四角     冬は玄(くろ)秋は青空白き雲     万緑や純粋経験光なす     炎天や暗闇曳きて黒揚羽     赤き薔薇黒く輝く炎天下     夏草や土堤から一筋飛行雲     炎天や森にはひれば毒茸     きらきらと砂舞ひ上がる泉かな     合歓の花空の高きに眠るかな       珍しいことだ     鳴き競ふアカシヨウビンと三光鳥     緑陰に下がりふらここひとり揺る     水風呂や老いたる魂(たま)は冷えきらず     眼(まなこ)置きカモシカ消えぬ夏の森     万緑や激しくせまる赤き花       商店街の籤(くじ)     梅雨晴や一等賞を引き当てる     風鈴に不屈の心やはらぎぬ     万緑を統(す)べゐる富士の無言かな     梅雨の川撫ぜて飛びかふ燕かな     梅雨晴や薔薇の顔(かんばせ)晴れにけり     花時計梅雨の時間を刻みをる     夏の森舞ふがごとくに鹿よぎる     万緑や真白き花は浮遊する     梅雨晴の輝く森となりにけり     ころがさむポンポンダリアてのひらに     なんとなく負けるトランプ夏至の夜     植田へと弾む水音空の富士       俯瞰 中学生らしき数名     滝落つる底に黒々頭かな     道端のミヤマカタバミへしやがむ妻     夏至の真夜そのしづけさのさびしさよ     悪魔的便秘居座る雲の峰       富士宮     炎帝の統べる町並富士淡し     炎天へ伸びゆく蔦の躊躇かな     緑陰やデーサビスの声高し     炎天になりゆく神社掃き清む     夏草や手押し車に憩ふ婆     炎天や巖(いはほ)に立つ鵜吾(あ)を凝視     タツチして祭の列にくははれり       富士宮、大宮縄状溶岩     緑陰や苔育(はぐく)みて富士溶岩     森の息ゆたかに吸ひて夏の妻     万緑や森より沈黙湧き上がる     バツタ飛ぶ無限に青き空を飛ぶ     万緑や涼しき風に帆をあげて     巨大なる蛾ののぞきゐるよその家     池ざらへすみたる池の水の青     さびしさやぐんぐんのびる雲の峰         ☆     高原や蜜蜂遊ぶ野花の香     けぶる山寝釈迦の如し春の雨       裏山は天子山系     裏山を森へなだるる霧の塊(くわい)     首まはし天下の秋を見てる雉     犬吠えて牛は無心や秋牧場(まきば) ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 「ところで、俳句の上達方法には二通りの道があるといいますね。先生について先生の俳句を徹底的 に勉強する人と、特定の先生につかずに徹底的に我流を押し通す人。先生についた人のほうが早いが、 意外につまらなくなるのも早い。先生の俳句から思い切って遠くへ飛ぶことができないからでしょう。 我流の方は上達も遅く、世に認められる人も少ないが、案外、後世に残るのは我流、自分を見失うこと なく、異端を貫いた人ではないでしょうか。」   (前田弘、『俳句界、2015年5月号』)  そうそううまく行かないのが人生だ。それを覚悟で自己の生き方を生き続けること!                       目次へ  **** 六月号 (2015年) **** (2015.5.30. 発行) ******     夏草や頭上青空大宇宙       樹海     万緑のトンネル抜けてあの世かな     初夏の森の鼓動にめざめけり     夏川や黒髪として藻はなびく       三光鳥も     諸鳥の鳴き競ひをる朝寝かな     崩れゆく世界か真中を泉湧く       五月下旬     雪解富士今朝うつすらと雪化粧     腕組みを解き炎天に立ち上がる     雲裂けてアルプスのごと雪解富士     水田なか日本の電車しつぽ振る     藤棚に甘ゆる虻の飛翔かな     夏の森清き瞳の鹿駈ける     広大な菜畑はるか海の紺     羽根ひろげ春の雲見る孔雀かな     浮遊感春から初夏へ辿り着く     日輪へ突撃雲雀の声残る     高原の風いきいきと鯉のぼり     吊橋や梅雨川我へ迫り来る     廃村や虞美人草の花盛     啄木鳥(きつつき)は夏のリズムへ誘(いざな)ふや     窓辺へと巨大なスズメバチ来訪     こどもの日子供のベリーダンスかな     空池や夏草ぎしりしげりをり     万緑やトマトまつかに熟しゆく     鵬(おほとり)の羽音影ゆく夏野かな     ベランダに波紋の美(は)しき菜種梅雨     厠(トイレ)にて三光鳥をしかと聴く     万緑や輝き落ちて作り滝     霧おり来森の坂道我登る     霧深し煙霧にわが家流るかな     豪胆な毛虫のゆえのわがかゆみ     夏雲やハンググライダー消滅す     時鳥杉の木の間の富士の山       蜂を待つ妻     丸花蜂ブルーベリーへ妻安堵     フアンフアーレ夏の森より響きくる     炎天の芝をさまよふインコかな     炎帝や千年の亀見上げゐる     大樹なる若葉若葉の命かな     湖と森蒼く輝く時鳥     崩れゆく世界や真中を湧く泉     そういへばわが肩歩む毛虫かな     富士へむけサツカーボール蹴上げたり     けしの花やさしく揺るる保育園     夜明け前狂ひ鳴き飛ぶ時鳥     夏空や雲湧く如くわが邪念     おはやうと森の小鳥へ夏の朝     星月夜終末論がよぎる脳     砂時計ゆつくり落ちる夏の果     月見草白きが紅くしぼむ朝     夏の空降り降り登り降りる蜘蛛     赤い花真赤に散りぬ夏嵐     そのやうに理解してゐる蚯蚓(みみず)かな     青嵐富士山麓を吹き渡る     木漏れ日の矢羽根のごとし夏の森     風揺るる木の葉も空もハンモツク     過ぎ去りし夏またすぎる水中花     机上なるエンデイングノート合歓の花     さまよへる心と梅雨の身体(からだ)かな     流星や少年の願流れ行く     青嵐高き空より山の音        ☆     耳元に鶯鳴ける朝寝かな     うぐひすのひねもす鳴くや森住い       歌真似上手な外来種もまた     画眉鳥の鶯ばりに日がな鳴く     霊界へ森の奥処へ秋の暮     月見風呂末期の首を清潔に     身を流し鴨のつがひは消えにけり     言葉あれ!季語よりこの世うまれけり     山林に自由木もれ日美しき     空谷のはるけき底をカモシカは       慣用句誤用     俳壇やいづれあやめかかきつばた   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 「俳句は発見だ」確かにそうである。しかし「発見」の定義においてあれこれ相違がおきる。  自分にとっての発見をこころざす。難しい。  俳句でしか表現できない何かを見つける。難しい。  最近、作庭家重森美玲の庭園の写真を見る事は多い。京都にあれほど長く住んでいて実物は見た事が ない。東福寺にもあるらしい。東福寺には紅葉を見には行ったことはあるが。  作庭も芸術であり「芸術は創作である。」と重森美玲は言いきった。そうなのだ。俳句も発見であり、 芸術なのだ。挑戦する他ない。そして、挑戦しているのだが。                       目次へ  **** 五月号 (2015年) **** (2015.4.29. 発行) ******     夭逝を思ひし昔春の月     春の庭鳥の詩人が歌つてる     春風は楽譜のやうに吹いてゐる     百面相なかなか難(かた)し春の道       かつがれる     四月馬鹿とんと忘れしとんまかな     春日浴び蒲団とともに干されてる     若き日や逆立ちで行く春の道     網膜に春の妖精踊りゐる     蜜蜂の羽音も軽(かろ)し春の園     春愁や富士の天にぞ父母居ます     春の庭歯をみがきをりうろつけり     丑三つや桜は白く霊のやう     花種をまきて安堵や妻の肩     鶯の高なく朝の散歩かな     夕靄(もや)の森へ帰宅をいたしけり     美しき風の光よ桜散る     夜桜や亡き人つどひ立つごとし     若草の大地踏みしめ仰ぐ富士     月光や白き炎をあげ桜     足あとは鹿か犬かや春の泥     春の日や鮒の産卵波高し     二階より寝転び見てる桜かな     春の野辺携帯電話われを呼ぶ       桜にかこまれたわが家     わが家の桜吹雪のなか目覚む       愛犬プリの墓     吾(あ)も浴びるプリの墓への花吹雪     無一物われへ豪華な花吹雪     桐の花パリに咲きをりなつかしき       孫 幼稚園     桜へと明るき拍手入園式     風呂の窓あけて花の香花明り     やはらかく渦を描きて春の川     故郷は花散るはてに立ち上がる     未完こそわれらの定め桜散る     若草の崖のぼりゆく赤き蛇       カーラジオ モーツアルト     レクイエム窓外菜の花桃の花     順繰りに窓の桜を見て朝寝     生と死の明るさの中桜散る     撃たれたる鹿にふりゆく桜かな     ふつくらと円くふくらみ春の池     堰こえて花の筏の乱れ落つ     朝桜すみわたりたる空気かな     春の雲ぼくらのためにうかびゆく       本州の西端に生れ いつしか富士山麓に住んでゐる     春の富士眼前に生く不思議かな     菜の花や小型SL富士山(ふじ)へ向け     菜の花に豪奢な桜吹雪かな     悲しみは桜の雨となりにけり     散る花のぴたりはりつく石碑かな     春の夜が大き翼をひろげてる     ピヨピヨと囀る男春の汗       春祭 向うから     春風にのり来る妻らの合唱曲     春芝や椋鳥モンローウオークす       餌はなしと知りて離るる春の鳩     水音を目つぶり聞ける春野かな     眼前の富士切り裂きて燕かな     落椿地上に大きく謎の文字     シヤンパンの泡に散りゆく桜かな     山葵田や水やわらかに音たてて     野の光川面に豊か春の川     湧きいでて春養鱒場の幼魚たち     ドーベルマン我に吠えをり春の道     田貫湖を桜ふちどる富士おぼろ     学校の桜散りゆく学校田     燕飛び川は流れてゐたりけり     大木の若葉まとへる歓喜かな     我が庭に散りふる桜散らせおく       春の霧 墨絵の世界     目覚めけり春の墨絵の森の中     山麓の末黒野はるか雉の声     末黒野に群れて暗黒烏団       富士市二日市浅間神社 昭和十八年生れ     樟若葉八方塞の齢(よはひ)らし     ぐんぐんと杭のぼりゆく春の蔦     チユーリップ列の背後を亡き人ら     花菜畑広しはるかな海の紺     熊笹へ山菜盗人(とり)は侵入す     もうすでに盗られてゐたるタラの芽よ     仮の世の命歌へり春の鳥     春の野やはるか遠くにテロ起る     芝生より蜂飛び出せり春を飛ぶ     鹿の目のわれを凝視す春の森     水草を髪となびかせ春の川     春の日や大きな白き敷布干す     芝生より蜂飛びたてり春を飛ぶ     春の坂夕陽背にして老子下(お)る     春風に吹かれ山麓ただよへり     チユーリツプま中に老子王子かな     堂々と雪解の富士としてたてり     地より湧き枝先に春輝けり     山里の屋根を圧して桜かな       家の裏を歩くカモシカに     カモシカ君はやくお帰り春の森     カモシカの首振り食み居る若葉かな       ヴイヴアルデイ 春     春の楽堂にあふるや天使舞ふ       チエコ室内楽団 宮城道雄の「春の海」     音楽はあふるる水や春の海       鵜、魚の飲み込み方立派     被写体と意識してゐる春の鵜よ     春の湖(うみ)傍若無人の鵜の咽(のんど)     花散るや豪奢さびしさきその中を     春の森眼(まなこ)の中を鹿たてり     さへづりや富士をよこぎる電線に     春の夜や自転車歩道に独り佇つ     春の日を畳にねころび浴びてゐる     ニワトコをたしかめにゆくはめに     春の雨シヨパンの楽として降れり     静謐や一輪草の群れ咲ける     耳すまし風に桜の乗る音を       ☆     斑雪富士心しづかに溶けゐたり     青嵐たふれし幡のはためける     夏草やシヤツター街のここあそこ     近づくに呼吸共振滝の道     天地(あめつち)の呼気の一つの噴井かな     仁王像夏の筋肉もて迫る   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 年をとったものだ。しかし嘆いていてもはじまらない。  『西脇順三郎対談集』になるほどと思う言葉がある。西脇らしい言葉だ。1971年78歳の発言である。 老人への「過激のすすめ」といったものだ。  「なんていうかな。人間の道をわきまえてから過激になったんですよ(笑)。そうじゃないと我々年 寄りは生きていても面白くないですよ。(中略)  若い時はなんでも自然なことを言ったって、生きている要素があるんだけど、我々のように年寄りに なると、よほど過激なことを考えないと生きていてもつまらないですよ。」                   色々書こうと思ったが、今俳句づくりに性根をいれなおすためにも、『平成秀句選』からの龍太を引 用しての長谷川櫂の文をひいておこう。別に目新しい発言ではない、というより言い古された表現だが、 常に原点にという意味では重要だ。  「見事な技がかえって作品を小ぶりにしていないだろうか。」(飯田龍太)  「現代俳句は(中略)卓越な表現を得ようと躍起になっているようにさえみえる。俳句はわずか十七 音。しかし、天がほほえんでくれれば、その何倍もの無限に広がる世界をとらえることのできる詩型で ある。」                         (長谷川櫂)  (追加5.18. 「俳諧の流行、只洒落(しゃらく)にけしきの句のみ成りゆきて、俳力日々に薄く成る   のなげかわし。」蕪村句評)  唐突であるが、最後に、吉田松陰の漢詩を。俳句作りは、たとえ主宰級でも、一時名が知れ渡っても、 特例はのぞき、結局はうずもれること、消えることになるということを前提の「草莽」の作業でもある。 勿論そういったことは短歌、詩、小説などの他の分野でも同じことだろうが。好きな道を進んでいると 覚悟して明るく耐えるしかない。吉田松陰の意図とはちがうことになりかねないが、とりあえず「から 元気」をつけるためだけにでもあげておこう。  立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)  俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)  不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)  且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)  百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)  君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)                         目次へ  **** 四月号 (2015年) **** (2015.3.29. 発行) ******     青空のま白き富士へ落花かな     春風や富士が馳走の散歩道       湧玉池 水草の萌え     水底に若葉萌え出づ輝けり     春暁や眠りきれない闇の数       バナナフイツシユ日和(サリンジヤー)     三寒の四温のバナナ日和かな     春の空子供のぼくが飛んでゐる     欠航のフエリー浴びゐる春日かな       運転席のこちらも老人だ     横断歩道渡る老人待てり春       イータツクス     納税期コンピユーターに使われて     廃墟いま春月光を装へり     春風や死にゆくために敬礼す     古びゆく兵の墓列や春の風     木の洞に胎内のごと春の闇     あちこちに悪人はゐる春うらら     春日浴ぶ五百羅漢の面構へ     春の夜や闇のさざ波脳浮遊     宇宙へと春の脳髄発射する     菜の花の沖に明るき笑顔かな     全身を流るる血潮森の春     蹴られ継ぐボールの上の揚雲雀     春鴉サツカー主婦は玉を蹴る     春山路宇宙思へば雉の声     あの丘の大樹芽を出す無数の目     春の日や足の踏んでる足の影     庭に出づすなはち春が襲ひくる     春泥をはねて運転森の道     春日浴び呼吸しづかに小石かな     うろついてゐるまに春もふけにけり     春の川一尾それたる鱒の列       富士登山金剛杖で森の道を     大地踏む金剛杖や春の森     わが行手かげろふのなか消え行くか     古書店の奥よりながむ春の雨     犬あゆむシヤツター街や春の雨     戦死者の日記読みをり春の雷     青空や芽吹きの光ひかりあふ     山鳩の鳴く音さびしや春山路         ゆんで     山路行く弓手青空春の富士       ガラス越しに     杉花粉飛び立つところ空は黄に       初音         つたな     鳴きそむる拙き鴬めでてゐる     地下水の春の呼吸の響きかな     桃の花小さな夢と開きけり       春光 田舎の駅     影として孫ら手をふる春ホーム       不気味な時代だ     気味悪い風春の山こえて来る     春分やしづかに騒ぐ森の木々     立春や青空見上げ老大樹     春光や大地の沖へ抜き手切る       老体     春風やわれ芽吹かせんとて吹くか     空つぽの鳥かご無言春の風     春の富士地下水脈の音若し     春雷や夢よりさめて野にありぬ     若芝に一脚の椅子安眠す     春風や枯山水の砂不動     春の川流れつどひて春大河                富士の空刻み初めたるつばめかな     つまやうじ     爪楊枝くはへてゆくや春の道       富士宮 陣馬の滝      滝の音と春の小鳥のシンフオニー             まなこ        末黒野に土筆を探す眼かな     老子の書膝にありけり春の風     春の川草の緑のなか流る     在りし日の芝生の椅子の春日かな     富士を背の小学校の春休     黒雲の裂けゆく春の光かな     さまざまの雲の夢行く春の空                    人間はさびしきものや夜の桜            森の秀の騒いでゐたる春日かな     足引いてゆく人多し春の道     春の庭ころんでそして立ち上がる     風船に吐息をまぜて青空に     足元にちいちやな菫見いつつけ     春の川春の烏の沿ひのぼる     名をよんで春の小鳥に餌をやる     信玄の桜見上げて英会話     上弦の昼の月ある花見かな               おもて     さくら散る仮面はづせし面にも        ☆       石巻日和山神社     鈴鳴らす死者へ津波へ原発へ     新緑の青き炎や青不動     ベランダに露美しく整列す     富士へ向け祭り囃子のへうげ楽       二羽同じ形で水に頭をつけてゐる     シンクロや鴨の夫婦が尻あげて       自然に生きる遊牧の民      一瞬に殺す羊や大西日     熟田津やまぼろしの月のぼりゆく     春秋を幾つ重ねん冬銀河    ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆
 句作については、モノローグ(先人、同時代人との書物上でのディアローグをも含めて)をしつつ進 むよりほかない。  さて、このところ詩(辻征夫など)を読むことが多かったが、詩論では辻征夫『かんたんな混沌』の 次のことばが気になった。  「私が悲しいといったら、それは人間が悲しいといっているのだといえる地点にまで、詩をかくもの は行かなければいけない。」  「一枚の木の葉をかたることによって全世界を語ることもできる」                              目次へ  **** 三月号 (2015年) **** (2015.2.28. 発行) ******

    春の日へ翼大きくひろげけり     水音のわれにたかまる冬の畦     ニヒリストコート脱ぎ捨つ冬の岩        ななそぢ     冬青空七十路の心京奈良へ        まひわ     雀百羽真鶸百舞ふ冬田かな     あるじ     主なきとなりの庭の冬日かな     春の雲春の大空わたるかな     大枯木夕陽に燦たる炎上ぐ       火葬により体は蒸気や炭酸ガスとなり大気に散らばり循環する     転生や冬青空として生きん       ときどき目がさめると言つてはゐるが     長き夜の妻の多彩な寝言かな     春暁や浜に打ち上げられ目覚む     断層に沿い冬空へこの身浮く     立春や遙かなるもの歩み来る     立春や岸を歩めば鴨水へ     立春や日あび捨て猫毛づくろひ     春雨や少し濡れんと庭歩む     きのこ山怪しき声のいづくより     立春や客来ぬ店のちぎれ旗     花と咲くハンググライダー春の富士     発火せよ冬の花火よ発火せよ     旅人は春の森ぬけ春の野へ     フランスはあまりに遠し遠眼鏡     山林に存する自由すみれ花     降る雪や過去と未来も降つてゐる     満月や黙し降りくる雪女     枝先に木の芽揺るるや春揺るる     アスフアルトいつしか尽きて春山路       宇宙そのものもある種の余白かもしれない     余白より春の雪降る森の家     白き花枯木に咲けり牡丹雪     枯枝の高きを朝日染めにけり     何いそぐ廃屋の庭つぐみ殿     雪降るや雪の合間の富士その他     雪の夜見ゆるは猫か狸かな       三島     あしたか     愛鷹山や空燦燦と雪の富士         模型ヨツト     春風や老たちヨツト競う池       パリにも店を出しているゐる     チヨコガトー割ればほんのりパリの春     麦笛や富士山麓も耳立てて     枯枝や春の小鳥が飛び跳ねる     若者につぎつぎ抜かる春の道     睥睨す鷹を浮かべて春の空     死に向かふ秋の道なり冬に入る            孫の家に娘の雛の華やぎて     満月や黒き翳行く雪野原     ふくろふのまなこに光る春の闇     森抜けて春の光の里に出づ          ひかり     再生の春の陽光を浴びてゐる       富士山上空 飛行機航行のメツカ     雪の富士飛行機雲は放射状       山の小学校     サツカーは四対四や山の春     春夕べ鐘つきたくて鐘をつく     水音の里や春日の力満つ       田貫湖     春さざなみ今日は見えない逆さ富士     遠くほどゆくり落ちゆく春の雪             うずら た     春浅し庭に出づれば鶉翔つ       白糸の滝 春日を受けて     虹懸けて滝の白糸落つるかな     春浅し真青な空より富士颪     谷間より枯葉のぼりく蝶のごと     熊笹の鳴る春風と思ひけり     水鳥君ぼくの散歩は佳境です     稜線に雪輝ける春の野辺             ばん     にほどりに誘はれ鷭のチトもぐる     捨て猫のゆつたり歩む春日かな     異郷なり春の大空しかとあり     春の川小さき橋を雉渡る     春昼や株賈はさがるあれ上る     春小路猫が空からふつてくる     恍惚と富士より流る冬銀河     春山路雪の深さを引き返す     惨劇のはじまる春の夕焼ぞ     とうとうと大河と流る春の道     春の闇猛禽類として吠ゆる     命がけ春の枯木は直立す          嬉々として急ぐパトカー春の昼       わが庭の富士桜の芽を食ひに        うそ     団体で鷽が芽に来る桜かな      ☆     まぼろしの滝落ちきたる銀河より    ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  作句については、結果はともかく一句一句発想や表現など自分なりに工夫する以外ないが、次の短文 は気になる。  本当の旅の発見は新しい風景をみることではなく、新しい目をもつことにある。                                 マルセル・プルースト  ついでに次の高柳重信のことばも気になる。 *本当にいい句というのは、ねらった的のもう一つ奥に思いがけなく命中しているような作品である。 *自分に可能な仕事はもう終ったのではないか、と始終そのことを考えるのも、定形詩人の当然の姿勢 であろうと思う。それを別の言葉で言えば、この形式に対して、自分の奉仕できる限界を絶えず考える ことであろう。 *俳句を書くという行為は、そこに精神の権化である一匹の鬼を出現させることである。そして鬼こそ は、古くから「もの」と呼ばれる、得たいの知れぬ不可思議なものであった。                      (中村苑子『俳句礼賛−こころに残る名句−』より)                              目次へ  **** 二月号 (2015年) **** (2015.1.30. 発行) ******

       富士初日 三句 朝霧高原        まづ背後の山の高みに日があたる     背後よりまづ光そむ初日かな     一点が輝き富士の初日かな     初日の出孫に従ふ孫の影     賽銭を投げて佳境や初詣              いと     それぞれのはからひ愛し初詣       浅間神社の前に交番     初詣手配書の顔彼に似る       湧玉池     ポーズとる鴨もありけり初詣          まなこ は     初詣盲導犬の眼美し     石垣に老いし影ゆく冬日かな     フランスのワインはうましお正月       ハンドバツグ置き忘れたやうだ     春着着て全力疾走リターンへと     大空に雪の富士ある安堵かな     ゆく道の空にあふれて富士の雪     富士仰ぐ点のわれなる枯野かな     寒満月わが影地へと沈みゆく       登呂 佐佐木信綱 歌垣の碑     歌垣の登呂ははるかよ雪の富士             もず まなこ     登呂の田の杭なる鵙の鋭き眼       日本平 ロープウエイ     冬枯の無き谷の上ゴンドラで       久能 徳川家康の墓     石段の奥の奥津城冬日差す       日本平     初春の大空に浮く富士の峰       通夜     棺の中ひと眠りゐる霜夜かな       葬儀 同じ齢の知人      「万物に感謝」と言ひて逝きたると     葬儀場出でて青空冬の虹     初春や泉の清き歌響く     山麓に退く生や冬銀河       ひたき          わが鶲わが欄干に来てとまる               初喰や鴨は頭を浸け尻をあげ     風花や記憶のかけら舞ひ上る              かんあ     荒野ゆくわれを窺ふ寒鴉どち     枯枝に鳩眠りゐる冬日かな     枯木より飛び立つ百羽の烏かな     捨てられぬものに冬日のあたりをる     湧水のやわらになぜて寒の鯉     海上に卵のやうな寒の月     湖の底に村あり雪がふる       知識は果てなし     わが書斎広大無限除夜の鐘     大寒や沈黙闇にひしめけり       大腸内視鏡検査のための腸洗浄液     腸管を洗ひ晴々寒の朝     大寒や日に浮く塵とただよえり     ポトポトとおつる点滴寒の雨     破れ芭蕉山のごとくに枯れてゐる     冬空に溶けこむごとく昼の月       愛犬三回忌     寒菊の香り放てる墓前かな     冬の朝なべて輝く富士も又     朝日浴び枯木かがやき透きとほる     廊下なる裸電球冬夕べ       都市     コンクリート割れ目の草の枯野かな     寒鮒釣バナナを口に運んでる     鷹舞へる凍湖の空の深さかな              にがびやくだう     大寒や森に消え行く二河白道       待合室 薪ストーブ     薪燃ゆる焔やさしく病者へと     湖の全貌見ゆる枯木かな     たこやきを喰いて二月をただよへり              にほ     鴨の群せつせと潜る鳰一羽       白糸の滝     虹放つ滝の底へと寒の昼     百千の糸滝それぞれ虹放つ     大寒や孤独の影が先急ぐ     豊穣や枯野の沖の海の色     大寒や森の奥なる闇炎舞      枯木らは手をうちひろげ雨を受く     寒の雨ペツトショツプに子犬じやれ     原子炉や冬の渚に冬の波     冬銀河飛行機の灯こえゆけり       からだ     我が身体窓二つあり寒月下     慎重に死神わたる凍湖かな     歩道橋ビルのかなたの枯野かな     水澄むや底の落葉の深眠り     落葉分けつぐみとうづら出合ひけり     枯芝の荒野を巨人のごと歩む     冬の浪富士山麓に響きけり     瀬の音は天へひろごる雪の富士       忘れ初め     思ひ出す忘れ初めの四分後       海舟を思ひつつ     かうざう     行蔵は我に存せり大枯野     白足袋のつひに消え行く枯野かな     大枯野光と闇が襲いくる       孫二人     遺伝子に生きゆくもよし去年今年     雪折の桜の枝を切る痛さ     大寒の雲間あふるる光かな     冬空に白き雲行く解脱かな     冬日噛む狼形の雲の口     大虚へと迫り聳ゆる雪の富士     大枯野いつか迷路となりにけり     春近しなんだか消えてしまひさう     手をそろえ寝ころぶ犬や春近し       大昔新婚の頃 実家でぼくの母が料理した河豚を思い切つて食べたと妻          つま     河豚食へり夫も一口食べたれば         ☆     書を読むやページ開けば桜散る       家の裏は天子岳     天子岳春の天使よ舞ひ来たれ     軍靴鳴る春夭夭の景色かな     大衆といふかげらう歩む大路かな     わが孫にわが血たくする子供の日     この森は小さき楽園すみれ花     霧閉ざす森の深さやほととぎす       登呂     孫二人縺れつ走る秋の畦     孫恐る登呂の住居の秋の闇                       かうげつだい ぎんしやだん        銀閣寺には砂盛りとして山型の向月台と波の形の銀沙灘がある     満月や銀沙灘より波の音     入水せる乙女の湖や紅葉燃ゆ     秋天の大きな耳に聞かれゐる     魂の深さは秋の富士の空       家は森の中               よはひ     寝転んで西日みてゐる齢かな     薔薇の香の中を漂ひ迷宮へ     胸底のシルクロードの秋の暮         ☆     まあだだかい宇宙の闇へ問うてみる     けつたいなヒトビトあふれ地球かな     我が死後は原子分子として生きん    ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆ 自分がいいと思う句を残してゆく。当然捨てる句も多い。 とはいっても実際のところは、時間の制約もあり、自分がまあいいかなと思う句を「えいっと」気合い をかけて個人誌に残すことになる。 ようするに、それなりの覚悟をきめて進むよりほかない。  林翔の次の句のようには及ばないとしても自分なりの「逞しさ」に賭けるよりほかない。  ピカソ虚子ともに逞しその忌なり    林翔  以下、最近書いたり、抜き書きしたりしたこれからの俳句作りを考えるに資すると思える文章を若干 ひいておく。 自己に閉じ込められ、 自己にこだわっている間は、 世界を真に見ることができない。 自己が自由に自在に動くとき、 世界もいきいきと生動する。  (道元) 固定化された自己を手放せ。そのとき私は悟り、世界が目覚める。  (道元) すべてが美しいとは言い切れないこの地上の万物に感謝!!  評論(たとえば小林秀雄)は断定する力が輝きを与える。位相は違うが、俳句も断定する力が命を与 える。                              目次へ  **** 一月号 (2015年) **** (2014.12.30. 発行) ******

      京都十句  久しぶりの京都 特に学生時代の下宿付近はおよそ五十年ぶりである     濃みどりの苔にまつかな紅葉かな       祇園     闇深し花見小路に散る紅葉     寒月や古都は黒きに沈みゐる        吉田神社 学生時代よくその前を通った が、拝んだことはない        下宿は吉田山をこえた所にあり神社は大学の通学路にあつた 当時神社にはきはめて無関心であつた         かしはで     はじめての柏手打ちぬ照紅葉       昔の下宿の一つが見つからない      古都の路地今も迷路や実南天       東山     錦なす紅葉の山辺逍遥す       哲学の道     哲学は紅葉にまかせ疎水道       法然院 学生時代散歩の途中よく立ち寄つた 静寂な時間を持つた     紅葉燃ゆ昔のぼくがすわつてる       法然院には、谷崎潤一郎の夫婦墓(空と寂の一字がそれぞれの墓に書かれてゐる)がある       その側に植ゑらてゐる桜に寄せて。(季節をこえてよむ)     空寂や青き空より桜散る       「スケツチ展」 銀閣寺近くの画廊での友達の個展     線と色明るく遊ぶ小春かな        ☆     関ケ原すでに雪なり伊吹はも     学食に若さはなやぐ枯木立       六角堂 池に立て札「この白鳥は…」     危険なる白鳥らしや「危険です」        ☆     天命や落葉大きく御空より            さまよ     おれたちの時代彷徨ふ枯野かな     しばし生くこの世にそびゆ雪の富士     寒林に光輪大きく夕陽落つ       鹿二句 まさか 銃声とは     寒林をよぎる自由を鹿は持つ     寒林に銃声あの鹿撃たるるや       永久革命は ただ民主主義についてのみ語りうる。民主主義は制度としてでなく、       プロセスとして永遠の運動としてのみ現実的なのである。(丸山眞男)     定めなき永久革命去年今年              たうか     一人座す寒三日月の刀下かな       いつの日か     大地割れ眼前灼熱地獄かな     寒三日月漆黒裂きつ癒しつつ              カナダガン     冬日浴び芝生に昼寝加奈陀雁     陽は沈み終りに近き冬の旅     生と死のバトンタツチや去年今年          やいば     三日月の鋭き刃氷りけり     青空に伸びる枯木の神経図     寒天の大海原を飛行雲       朝霧高原の一角 大砲のやうに筒状の溶岩流穴が富士を向いて置かれて居る     溶岩流穴にとらへし雪の富士     寒風にあふられて鷹のあわてをる          へいげい とんび     鷹の座の枯木に睥睨鳶かな     寒風の丘に男や富士あふぐ       常に過渡期だ     流行は雲と消え行く冬青空       久しぶりの東京二句 クリスマスの前     巨大なる地下の迷宮冬の蟻       花屋やシヨーウインドウには蘭の花(季語としては秋)が目につく     東京はサンタあふれて蘭の花       天を一宗教の神と限定すればその声はきこえなくていい 心を強くして、自然、宇宙の声を聞く     天の声聞こえず聞きつつ花野ゆく       冬の夜の自動車での峠越     冬の灯の輝く街へダイビング       富士山麓 遠く眼下に駿河湾     冬の日をまつたり吸いて光る湾     水門は海へのレンズ冬波濤       暁夢     あかときやみほとけしづかにしはぶけり     寒林や朝日に輝く木々の頂     冬空をつんざく一声森にあり     老病死本格的に冬に入る     ギア―あげのぼりゆく坂雪の富士     渋滞や雪ふりつづぐ山あふぐ     風花や森の青空宇宙晴れ     芒原すすきに頭なでらるる       ゆつたりと鮒たち     水澄めり鮒のしづかな円舞かな       「カルミナブラーナ」(中世の歌集)より「焙られる白鳥の歌」       昔は私も美しい姿で湖に住んでいた。かつて白鳥だった頃は。       なんと哀れなことだ、今は焼かれてただ真っ黒な姿になってしまった!       料理人は鉄串を回し、薪は私を強くあぶり、給仕が私を酒宴に運ぶ。       皿の上に横たわり、飛ぶこともできない。       ぎしぎし砕く歯がせまりくる!             うたげ     丸焼きの白鳥あせる宴かな     蟷螂のどこまでのぼる枯木かな     うたかたやあの世の枯野へ汽車でゆく       実現しがたし     星となりいつしか消えて行きたしと     冬天に綱掛け渡る男かな     外し投げ冬の仮面とつけかへる     その熱気炎と放ち寒マラソン     大寒の妻生き生きと寝息かな      ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  『2015俳句年鑑』を読む。天につばを吐くことにもなるが、「この一冊で、俳壇がまるごとわか る」とあるが、現俳壇の世界のエネルギー不足に、なにか疲れを感じてしまった。  そんな無駄ごとを言ってもはじまらない。そんな暇があるのなら「自分の畑を耕す」ことだ。  いわずもがなの言葉だが、同書の中で、堀本裕樹が引用している「百の理論より一句」という桂信子 の言葉を生きるよりほかない。                              目次へ  **** 十二月号 **** (2014.11.29. 発行) ******

    裏山の紅葉豪奢に咲きにけり       朔太郎を思ふ     永遠に悲壮な父の小春かな     寒月の白く染めゆく森の道     雪の富士仰ぎつまづく木の根つ子     水鳥のあやふく遊ぶ荒瀬かな       浅間神社     七五三祈祷にひたる老婦人     厠にて時雨の音を聞いてゐる     秋日和妻は輝く鎌持ちて     星月夜無数の人が愛しあふ     死を思ふ寒月冴えてゐたりけり     紅葉のトンネルの中退院す       特定検診 年とれば     身の丈は縮みゆくなり冬の空         こだま        霜の夜や木霊と響く汝が寝息     人間を演じ切りたし冬銀河      億年の果てを夢みて冬眠す       森の中     冬の森子鹿のまなこすみわたる     白壁に影流れ行く師走かな     冬晴やさびしき丘へのぼりゆく     小春日や地下水脈に沿ひ歩む     冬の雨ぬれてか黒き墓の列     ストーブ燃ゆ我が名呼ばれてゐたりけり     閉ぢし目の奥より崩れ冬の波     冬霧の湧く湾眼下富士裾野     耳すます澄みて気高き冬空へ     はじまりは終りの続き雪深々     よくひびく夜間飛行機霜の夜     泉には女神ゐませり緋の紅葉     冬晴や狼煙のごとき富士の雲     くぢら雲富士氷海を泳ぎゐる     年賀状青空とだけ友若し     犀走る寒の月夜の街路かな     水澄むや鱒の鋭き目の光     大根のすなほに抜かれ抱かれけり     冬薔薇の一花がわれに語ること     寒風に吹かれて蔦の青緑     歴史とは人の生き死に除夜の鐘     それぞれの正義戦ふ去年今年        ☆        芸術の今ひらひらと春の蝶        ☆     ひまはりの無心に咲けりゴツホ死す     大地より悲歌にじみ出づ清水かな     万緑へ心の悪を開放す        ☆     光年やはるかなものはみな清し   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆ 高倉健が死んだ。 ぼくの同世代の中、いわゆる学園紛争を戦ったものたちの中には、その後酒席などで、高倉健の任侠路 線の映画の主題歌、例えば「網走番外地」の歌に自らの思いをこめて歌っていたものもいた。 その後、高倉は任侠路線をはなれ、市井の生活の中、寡黙な男の忍耐への世界を秘める映画が中心になっ ていった。 死後、テレビで追悼番組があった。 映画に対する態度に、俳句にも通じる言葉が語られた。いくつかを書いてみる。 撮影本番の時には考えない方がいい。勿論それまでは十分考えておくが。 いずれにしろ思う通りにはいかないものだ こみあげる気持ちを大切にする。かざりけのない演技を。 生き方が芝居にでる。テクニックじゃない。 厳しい環境で自分を鍛える。 一作、一作を ただ一作一作を。   (俳句で言うと、一句一句を ただ一句一句を) 不器用でいい、懸命に生きる。映画に打ち込む。 映画作りには、無垢さ、純粋さが大切。 日本的といえばそれまでだが、俳句という「寡黙な」形式は日本的なものである。 日本の伝統的俳句は、「一行定型詩」であり、世界にうってでる俳句は「長くない自由詩」という体裁 にならざるをえない。「寡黙な」「一行定型詩」といっても閉じ込めることによるエネルギーはマグマ 的エネルギーを蔵することにもなるはずだ。                              目次へ  **** 十一月号 **** (2014.10.30. 発行) ******

      石巻日和山 眼下は泡立草の荒野 3・11三年半後     まぼろしのまぼろしではなき津波かな     柱の跡透けて見ゆるは秋の海     咲き乱る泡立草や礎石跡     秋の海生きたかつたと夢の声       松島     秋の湾かき混ぜ船は舵を変ふ       瑞巌寺 雄勝石といふやうだ     黒光る参道石や散る紅葉       高舘     美しき秋の山河や夢の空        りり   まなこ     義経の凛々しき眼秋の空              みちのく     子供らは刈田に遊ぶ陸奥は     東北の豊けき稔田しかとあり     霊魂が秋草ゆすり通り過ぐ              かぜ     稔田に風がほら行く風太郎     秋の雲安達太良山上生き急ぐ        (以上東北行)     虫の夜や虫の宇宙に浮かぶわれ     秋の暮どうにかなると決断す         あ  あ     倒れ伏す我を我の運ぶ花野かな     おとなしき無頼のわれや紅葉酒     大紅葉青空撫でてゐたりけり            はて     しぐれ忌や闇の果より鹿の声     秋の森鈴ころがして小鳥たち     秋晴やあるくときには大股で       ねそべりて     秋晴の空飛ぶはずの畳かな       小学生     赤帽の列紅葉の林来る     燃ゆる天釣瓶落しとなりにけり     秋夕陽影なきわれらあちこちに     赤のまま広がり咲ける畦をゆく     水無し川沢音ひびく秋の雨     ななそぢ     七十路や迷路となりし枯木道     口ごもる我に薄が揺れてゐる             よはひ     秋天へ落下途上の齢かな                秋晴や散歩を統べる小型犬     秋天や一画かけて蜘蛛競ふ     傘さして庭をめぐるや秋の雨      満月や卓上レモン光秘め     桐一葉背後に虚子を感じをる     妄想へ釣瓶落としとなりにけり       窓の桟に     たづねこし蟷螂つまみ草叢へ        しんくう     秋晴や深空泳ぐ深海魚                蔦紅葉包みて小さき喫茶店        あ  あ     星月夜我が我をまちぶせる町の角     水澄むや水底の石光りあふ     後光さす男が一人秋の暮              わが庭の小さき宇宙の秋の景     夜明け前最も暗し鉦叩     緩急もありてゆつたり秋の川       ときどき鱒養魚場を散歩     以前見し鱒が横目でわれ迎ふ     源流を向きて鱒群る紅葉川       時代とともに変化する     誘蛾灯殺しの音のビビビビと     河口なる渦に渦まく秋の声     輝く目背後にうけて花野行く                全力で宇宙の果を思ふ秋     わが影を大地にうつし秋を飛ぶ     みす     御簾あげて秋風招く女御かな     大き目で森の空気を見てる鹿     鳴く虫を圧し鳴きをる鹿の声     真夜起きてテレビ見てゐる夜長かな     全世界泣いてゐるなり虫の夜     永遠を呼びをる鹿の音と思ふ     旅終へて死出の花野をまたあゆむ     死ぬまでの旅のさびしさ吾亦紅        富士     注連縄は滝の白糸富士の山     台風一過濡れてか黒き富士の嶺        はくじん     初冠雪白刃のごと富士光る          紅葉の錦の帯や富士の峰     秋夕べ富士隣人のごとく立つ        春     泉よりラララ湧きいづ春の声     堂々とわれを忘れて春を行く     桜舞ふ戦後生れの老人に     根をはれよ春の大地に四季へ向け   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  今月号は東北の旅の句からはじまった。奥の細道の一部を歩くことになった。ただし俳句吟行のため の旅ではなかった。  同時代をいきたものとして、震災の地を訪ねておかねばならないという思い、そのなかには冥福を祈 る、びびたる金額でしかないが、お金をおとすことによってほんの些細なことでもできればという思い があっての石巻を中心とした旅であった。  いままでも津波や原発の被害に焦点をあてての句はあえてつくらなかった。それらは新聞テレビなど の報道によってだけで知ったぼくらではなく、具体的にその苦しみを体験した現地の人が吟じるものだ と今でも思っている。(もちろん今からでも起こりうる津波問題、原発の脅威、反対についてなどはそ のかぎりではない。)  そうはいっても、旅の間に自然にできた句はあり、その幾つかは掲載している。  勿論それ以外の句の掲載も多い。あまり作為のないようにいわゆる「無為自然」につくりたいが、文 芸はついつい作為をまとってしまうのはしかたのないことだろう。「創造とは習慣(決まりきった見方) を超えること」という言葉があるが、自由態でと自分にいいききかせることが、創造へとこだわること につながってしまう。                              目次へ  **** 十月号 **** (2014.9.30. 発行) ******

    地下街に地球転がる秋の暮     瞬時われ小爆発す星月夜     秋の暮彼方に鳴くや阿呆鳥     天国も地獄もなべて秋の暮     長き夜のか黒きところ渡りけり     未完こそわれらの定め秋の雨     不可思議な月の光となりにけり     青空ゆ蓑虫元気に揺れてゐる     秋の森岩屋の闇が輝けり     富士まではただ青空の秋日かな     天高し屋上十階駐車する     音もなく動く秒針夜半の秋     口開けて妻横たはる秋昼寝     曼珠沙華二三絡んで赤く燃ゆ     青空に静止凝視のヤンマかな     山里は雉子のよぎりてこともなし     夜半の秋視線隅々透き通る     長き夜の夢の終わりの流れ星       しづ     地を鎮め炎と燃えて曼珠沙華     秋風は沢の水音織り込んで     夜霧濃し顔がくづれてしまひけり     さまざまな人生濡らす秋の雨       昼間                むぐら     こほろぎのあちこち歩む葎かな     名月や光の底の森とわれ     秋の日や魚影の濃ゆき神の池     秋草のそよぎ美し中洲かな     残る蝉一つ高鳴く神の庭     コスモスの道まつすぐに富士の峰     風のまま坂のぼりゆく落葉かな     風渡る稲田の波を目で泳ぐ     風立ちて薄の光こぼれ落つ       古本屋に「短歌新星十人」     新星も古びにけりな秋の風     孤独飼ふ秋の夜長の闇深し     宇宙よりふわりと着地桐一葉     秋の夜や夜間飛行機胸を飛ぶ     谷渡る電線光る秋の空     曼珠沙華蝶の羽音のしづけさよ       小田貫湿原 アサマフウロ 沢桔梗など     湿原の花園満開秋の富士     抜け殻が蝉のかたちをしてゐるよ     鹿の目のじつと見つめるわが家かな     さざ波の少し上吹く秋の風     ゆれてゐる月よすすきの揺れてゐる       田舎 軽自動車     二台目の「軽」あるくらし秋桜     秋の坂おりてくるのは霊柩車     秋日浴びのんびり雲と富士の首     冷蔵庫なぜか主張す夜半の秋     無言にてピアノ直立星月夜     長き夜の夜間飛行機わが胸を     父母なくてわれ万緑に包まれて     秋の日の光かがやく町の川     月光を浴びて無人の野外劇     鹿の目の中にわれあり秋の朝     我と世がゆつくり闇へ秋の暮     人生に正解はなし大枯野     老人が月見上げてるそれがぼく        ☆     大空はいつも頭上や枯野ゆく     真青より冬の錨が下りてくる     偏屈者ひそかに感動初日の出     夢に見る臨死経験春あけぼの     宮の庭水まく巫女の太き腕     稜線の緑に湧きて夏の雲       東京砂漠といふことあり     遠富士や静岡砂漠炎天下  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  ところで、「俳句」10月号の特集「余韻・余白を生む! 「平明」と「沈黙」の力」は、「平明」 と「沈黙」を考え続けてていたぼくにとっては、時期を得た企画であった。  ぼくは「単純」と「省略」の力をといいかえてもいいと思う。ひとことでいうと「単純」の力であり、 「豊穣」への拡がりを含んだ「単純の力」である。  もちろん、「平明」と「沈黙」、つまり「単純」と「省略」だけを掲げて、他をかえりみない単純さ はぼくの選ぶところではない。そして、退屈な「平明」はさけねばならない。  「一言主」という神がいるが、「一言」という語も気にかかっている。俳句は五七五で「ひとこと」 であり(取り合わせであれ一物仕立てであれ)、一言で言い切るものである。(もちろん言い切ると、 言いおおせるとは違う。)一言で言い切る事により、豊穣な世界を現出させるという面もあるのではな いかという思いである。もちろんその実現はむつかしい。                              目次へ  **** 九月号 (二周年、2014年) **** (2014.8.30. 発行) ******

    霧の中霧の声聞く独りかな     死者たちの声美しき虫の夜     森深く青い鳥飛ぶ秋の夕     名月や流れつきたる森住ひ       奥の細道  ロード(道・タオ/ケルアツク)     芭蕉今オン・ザ・ロードや夏野ゆく     太古より繋がる命秋の暮     ヒトラーの夜霧ただよふ夜霧かな              すだれ     秋風のやさしくなでて簾かな     踊りつつ木の実落ちゆくファンタジア       毎日を後悔しない     秋の野を遊び暮らして秋の暮     発芽する思ひありけり秋の暮     秋の暮春あけぼのの待ち遠し     まんまるな毬を愛する秋の暮     すこし蹴りも一度けつて毒茸     森よりの帰還猫ある夏の果     富士の空大きな月が生けてある       朝霧高原     肺に染む朝霧甘き散歩かな     行く川の絶えざる流れ泳ぐかな     夏終る『擬制の終焉』古びけり     天高し則天去私はなほ高し     しづけさが唯一馳走の森の秋     豊年やしづかな力湧く夢想     自己探しあるく若者きのこ山     蝶舞ふやさそはれ舞へる合歓の花     秋風や森の底ひに世を愁ふ     わが森の秋の空気を遊泳す     十字架の影くつきりと秋の壁     交番に子供生まるる秋桜     プールなる逆さ富士へと飛び込みぬ     手を腰に富士見上げ飲むラムネかな       養魚池     秋風やさざ波のもと鱒千尾     神の池真中の岩の大すすき     若葉より鳩の飛び出す辻公園       手筒花火     紅の闇噴きあがる手筒かな     長き夜の心の闇の星座かな     耳あてて森の大樹の秋の歌     山繭へ響きて森の音楽よ     天仰ぐ首首首の花火かな     秋天の富士見て結ぶ靴の紐     霧の中大き鍵穴現るる     かなたより電話高鳴る花野かな     林間の秋の光を呼吸する     霧の壁いくつか抜けて森の道     ゆつたりと富士山麓をよぎる鷹     しづかさや野分近づく池の面     戦国の荒野を鳴くやほととぎす                じてい     かなかなや錐のごとくに耳底へと     休館のプール鉄錆にじみ出づ       田貫湖 秋     雲の幕ダイヤモンド富士幻想す        きのこ     美しき茸のうすら笑ひかな  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  2014年九月号、発刊二周年の号である。  だが、心の晴れはいまいちだ。なにか盛り上がるものがたりない。  盛り上がればいいものではないが、もっと何かを求め、三年目にはいっていきたい。続けるなかで、 生まれるなにかを。  毎日を「生きる」ことだ。見つめ、感じることだ。自然の、宇宙のリズムを感じることだ。                              目次へ  **** 八月号 (2014年) **** (2014.7.31. 発行) ******

    沢音の明るくひびく若葉かな     山百合の並んで咲くや風の道     横乗りのぼくが風切る夏休     短夜の卵子へ泳ぐ精子かな     人語めく虫の羽音や夏の森     老鶯の今朝も高鳴く散歩かな     わが夢のわが魂の螢かな     嬉々として三光鳥を見たと妻     降り注ぐひかりの綺羅や夏の森     卓上に殺虫剤立つキヤンプかな     炎天やいつもの老人いつものベンチ                炎天へ大きく美しき蛾がのぼる       小さな放浪 韮山     蛭ケ小島へ青田の風に流されて     川蜷に螢を思ふ小川かな     炎天を来て温泉に身を浮かす     野菖蒲の紫あやしき山路かな     台風のあと青空にわれ吸はる     迷ひ猫森より生還夏の果     命湧く砂吹き上げて泉かな     てのひら     掌に漆黒の闇夏野行く     ラベンダー摘むや空より蝶の影     ラベンダー刈りたる風のさまよひ来     サーカスのぶらんこゆわん走馬燈     夏草や一族の墓あちこちに     はげしさの夏をしづかに森のなか     紫陽花とともに闇へと沈みゆく     合歓の花夢の中へとしだれ咲く     青蔦のわが脚のぼる沈思かな     脳みその勝手にあばれゐる盛夏     大樹満つ空あふぎつつ秋に入る     万緑に輪郭ありぬ空の紺     戦前の記事をコピーす文化の日       富士山麓泉多し     今日もまたなぜか来てゐる泉かな     刺青の男長袖汗無限     黒揚羽滝落つ天へのぼりゆく     われら無視庭堂々とオニヤンマ     丁寧にお辞儀されてる暑さかな     笑つてる人の笑顔の玉の汗     青嵐胸の扉を開けておく     かなかなの声に浮きゐるわが家かな     窓辺より始まる万緑宇宙かな     万緑の上の青空果て無限          山百合に大物の蛾来る夕べかな     合歓の花夢訪ふごとく黒揚羽        ひとは     万緑の一葉一葉のそよぎかな     雲の峰空の青さを越えゆけり        ☆     大いなる霧が森ぬけわが家へと     缶けつてうづきし足や秋の暮     天空に富士の影ある狭霧かな     大宇宙航海時代大銀河     足の裏ほぐしておりぬいわし雲     アホウドリ飛び立つ空や昼の月     智慧の輪のついにとけたる夜長かな     秋の暮れ演歌一つに涙かな       ☆     あの春へもうもどれない富士の春       桜散るブラックホールへ向けて散る     春芝生もりあがりゆき富士となる        ☆     天井のか黒き穴が呼吸する  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  句作の発想などにかかわる「自由の心」という点から、最近テレビ番組を見ていて、なるほどと思う 発言をあげておく。両方NHKである。  一つは「錯覚の科学」から  計算された偶発性を引き出す、重要な力   好奇心   持続   柔軟性   楽観性   リスクテイキング(リスクを引き受ける)  一つは、「プロフェッショナル」、ある産科医のかつてのアメリカ時代の先生の教え   おじけづいて 踏み出せない人でなく   リスクを顧みず動き回る人でもなく   勇気と冷静さを併せ持つ探求者であれ   ☆(追記)以下の文は、この八月号を出すにあたって、冒頭のマニフェストに追加したが、やや重  くなるので削除することとした。とともに、その思いを残すためにここに再録しておく。☆    遅きに失したが、おおげさに言えばこの歳になりますます俳句に殉ずる思いが強くなって   いる。    殉ずるといいながら、ある歳になればきっぱりとやめてしまう予定でもある。そうしたこ   とを含めて殉ずるのである。    当然のことだが今俳句そのものを十全に体現できる位置にはない。ぼくなりの範囲でその   ほんの一部でも体現できるようにつとめるのみだ。  (2014.8.4. 追加)                              目次へ  **** 七月号 (2014年) **** (2014.6.30. 発行) ******

    万緑や真赤な花が主張する       家のまわりの林     三光鳥姿みせずに二十日鳴く       コスモスは秋桜だが宇宙にひろがる語でもある     向日葵の瞳に富士とコスモスと     呼吸する一大万緑世界かな     風化する記憶よ机上へ青嵐       富士山麓 ハンググライダーのメツカ     万緑はハンググライダー吐き続く     下闇や夭折の友やつて来る     美しき影青々と雪解富士     夏夕べ好んでのぼる女坂     水音の豊けき里の青田かな     窓枠や若葉あふれてこぼれ落つ     紫陽花をざつくり斬りて抱いてゐる           あした     郭公の一声深き朝かな     白蝶と黒蝶乱舞日の盛り       自転車、上りは苦しいが     富士へ向け夏の風切る下り坂     亀たちも午睡無人の昼寝村     蝉しぐれ遥かかそけき浮世かな     足元より青田の風や浮遊する     梅雨晴や薔薇いつせいに香をはなつ          まなこ     万緑や森の眼は森の闇     やわらかな力もて湧く清水かな     梅雨晴や森のしずくの燦然と     万緑や緑の風に染まる子ら     梅雨寒し直立不動の鳩たちよ     はればれと逆さ富士ある植田かな     麦の秋さびしき色の風渡る     炎天を行くや鴉に見下ろされ     木下闇眉つりあげて阿修羅かな       白糸     滝の上に雪解富士ある五月晴     雲の峰見えねど富士はしかとあり     山清水祝詞ひびけり富士麓     スカイツリー落下途中の燕かな               泉湧く音に顕ちたるものの影     高原の夏や輝く山羊の角     大樹なる命まるごと見上げ夏     炎天を目指して蔓や烏瓜     梅花藻のしづかに舞へる清水かな       朝、鹿がわが家のそばにたつてゐる     夏の朝鹿の瞳にわれと妻     木下闇老子のあくび受けつぎぬ     古墳なる丘の大樹の若葉かな     万緑や白鷺白く舞上る     昼顔の咲きたる場所を失念す     輝ける若葉大樹や神と見る     木下闇地はさざめきに満ち満ちて     皮膚病んで動かぬ狸登山道     青嵐森の生活十五年     若葉打つ雨や一大交響楽           うれ     炎天下枯木の末に鋭き眼           あした     しづけさや夏の朝が流れ着く       福島原発忌(三月十一日、十四日)     無念なりまた一つ増ゆ原爆忌       森の診療所     涼風やベツドの空の昼の月         ☆     頂上の野菊の上の青い空     闇天の一太刀あびたる銀河かな     木登りや昔のぼくがぼく見上ぐ     竿に鮎富士正面に竿上げる     観覧車紅葉の向うに雪が降る     菜の花を目でかきわけて進むかな  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  俳句づくりを考えることが続いた。俳句を作り続けるためには、当然のことである。詳しくは今すぐ にはかかない。これからの句作りの中で、反映させていきたい。                              目次へ  **** 六月号 (2014年) **** (2014.5.31. 発行) ******

    新緑の森や光の天使舞ふ     新しきテント雨音愉しとも     夏の脳道化暴れてゐたりけり     夏の雲二階で誰か跳ねてゐる     青丹によし鏡の裏の夏山河     春ゆくやごきげんよろしゆうさやうなら     新緑の森はしづかに霧を吐く     夏の森木洩れ日浴びつ飛ぶ小鳥     薔薇園の薔薇門の中富士たてり     一本橋蜥蜴先頭われ続く     卯の花や湧水の音澄み渡る     眼前に迫り身かはす燕かな     万緑や奥の奥なる闇光る     夏空やぐんぐんのびる飛行雲     万緑の微塵砕けて大地かな     万緑のはるかかなたの砂漠かな     乱雑な書庫へ迫れる若葉かな       小鳥も蛇もぼくも生きてゐる     小鳥の巣襲いし蛇をめつた打ち       ここ数日は     今朝も咲く山椒薔薇の花うれし     ほととぎす一声森を荘厳す     ほととぎす富士のかなたのきのこ雲     遠富士や浴槽泳ぐ夏の宿     新緑の闇を宿して大樹かな     腐敗せる春の背中を見送れり     薫風や谷川若き声をあぐ     濁りゐる川対岸や合歓の花     若葉光全身浴びてわが家かな     美しや夏の日そそぐ森の窪     新緑や生死ほのかに流れゆく     新緑に転がすわれの目玉かな     木下闇流れ漂よふ子守唄     万緑や鹿耳立ててわが家見る     水田なる広き青空逆さ富士     湧きいでてしづかに満てる清水かな     蛇何を躊躇してゐる登山道       白糸の滝     滝とどろ幾千の糸揺れつ落つ     緑陰に憩ひて我の愛車かな     萌え上がる柿の若葉や空を富士       迷惑外来種という自覚なく     画眉鳥の小癪な散歩夏の庭     白湧きて谷の底より燕かな        ☆      春雨のやさしき霧となりにけり         地震対策の命山(いのちやま)の上に雲間からの光     命山頂(いただき)天より梯子かな     旅人のわれ越ゆ月の峠かな     清き水絶えず湧き出づ富士山麓     目を丸く子鹿は森に消えにけり     直立しわが裏庭の蝮草       少年時代     駅前の地球最後の夕日かな  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  書きたいことは多いが簡単に。 継続するためにも、目先の結果など余計な事は思わない。「今を」生きる。 本物を目指して作っているのなら心配はないと、「一応」思っておく。 自分にとっての王道を歩む。王道と言っても客観的に王道というものがあるのではない。 あるのは自分なりの道しかない。 自分にとっての本物を作る。自分なりによいものをつくろうと歩み続ける。 ゴーイング マイウェイ                              目次へ  **** 五月号 (2014年) **** (2014.4.29. 発行) ******

    春曙この山麓に富士と立つ     吹き上がり舞ひ上がりてや花吹雪     囀りに耳をすますや空の青     遮断機のかなたの世界花吹雪     わが庭の桜満開めでたしと     夕闇を湛へて白き桜かな     流星を見送りゐたる桜かな     花筏満々たたへ小川かな     この谷戸の桜楽しも浮きあがる     富士よりの風一陣や花吹雪     風に散る花にのせゆく心かな     谷間より燕や白き光湧く     すべり台頂上に子や花吹雪       野原に小さな発電所への水路     真つ直ぐに発電所へと春の水     満開の花を見据ゑて蛙殿     春日あび鮒の交尾の浅瀬かな     逆さ富士花の散り落つ水面にも     春風や富士仰ぎつつスクワツト     春の雨心の底の水輪かな     野良猫ののんびり春田渡りけり     春の日や孫ら跳ね跳ぶ芝の上     死後にまた分けいりたしよ春山河     蒲公英の原に寝そべり仰ぐ富士       月と火星大接近     月と火星桜の空に相ま見え     鯉のぼり堀には鯉が口あけて     ベランダに春の雨なる水輪かな     ものの芽と優しき雨に囲まれて     さざ波のゆるる静けさ春の芝     光り落つ緑のしづく春の森     躍動の中に死はあり春の川     邯鄲の夢あけぼのの花吹雪     春眠や四方のうぐひす感じゐる     われよりは早く流るる春の川     鯉のぼり富士も逆さの水田かな     目潰しや山路をゆけば濃山吹     信号の赤から黒き燕かな       津波で死んだ子へ母親が言ふ。「生れてくれてありがとう」「助けてあげられずごめんね」     東北やありがとうごめんね母子草               鈴蘭の鈴の音聞こゆ夕べかな     風に揺れそれはかはいいチユーリツプ     池の鵜の翼広げり春の風     ときめきの風船となり青空へ     たたえやう新緑満てるこの時を     白く舞ふ天使のりけり春の雲     中腰で春の雑草ぬいて妻     復活祭大いなる蜘蛛惨殺す     薔薇植ゑて妻手を洗ふ春の園       花から花へよく働くよ     花粉付けマルハナバチの愛しさよ     四面楚歌口に出でたる春山路     花散るや時に利もなく老いにけり              小鳥らの枝移り楽し桜時     春の日を呼吸してゐる若芽かな             みそさざい     湧水や声すきとほる鷦鷯     小高きに登り春立つ富士仰ぐ     苗を植ゑ落花あびゐる妻の肩     星々と競ひあふかに夜の桜     春空にとけ込む富士となりにけり       富士山を御神体としてゐる山宮神社遥拝所            しで     春風に浮きたる紙垂や富士ゐます     巨大墓地覆ふ桜の花の森     日をあびて光の中を桜散る     森の奥炎燃え立つ落椿     花吹雪坂の向うの空の青     膝の骨少しづつ減る春散歩     白蓮のしじま真白き山路かな     春あけぼの富士山麓に闘志あり     春はゆくごきげんよろしゆうさやうなら         ☆     代田澄み晴々と立つ逆さ富士     初富士や天突く気魄満ちみちて     まつたりと初日をあびて駿河湾     しづかなり初富士置いて駿河湾                  梅花藻のゆらぎの美しき清水かな     万緑や真白き鷺の白く飛ぶ     杉の秀に満月大きく灯りけり     星屑のわれら見上げる星月夜    ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  このころ思うことを箇条書きに。 ◎ きっぱりと詠む。明快に、単純に、深さを持った単純さを。 ◎ さまざまな俳句があるが、単なる「さまざまな意匠」の陳列に終わるだけでは残念だ。本当の意味  での豊かな多様性を。 ◎ 中村草田男のつぎの句、含意にあふれている。     「チンドン屋と半学者なる詩人すすむ   (『母郷行』)」   ややこしい理屈はともかく、自ら「衝天の気」を持って。泰然と。 ◎ 最近、あらためて思い出す。龍太がかつて言ったことを。   一度引用したことのある飯田龍太の文を再録する。 「後ろめたさついでに言えば、俳人という肩書がつくことも後ろめたいね。この頃はみんな図々しくなっ てえらそうにしているけど、戦前なんかは恥しいぐらいのものだったからね。だいたい、俳句でいっぱ し結構だなんていうのは、一世紀に一人や二人ですよ。あとはみなジャミ(釣で言う小魚のこと)。そ いつらがつっぱって、かっこつけているのは滑稽ですよ。それに、俳句には専門的な要素なんてどこに もありませんよ。俳人が専門家意識を持っちゃ、おしまいです。先生、先生つて黄色い声で言われるの は、いい気分だけどね。俳人という看板を出している以上、この点はしっかりと自戒しておかなければ ならないと思うね」  (飯田龍太 「太陽」1987年3月号)                              目次へ  **** 四月号 (2014年) **** (2014.3.31. 発行) ******

    満開の花にただよふ雪の富士     富士仰ぐ巫女の黒髪桜舞ふ     無明へと咲き満つ桜のなか歩む     水音のつねに聞ゆる桜かな             せな     やはらかく春風の背なぜてやる     ベレー雲ふんわりかぶり春の富士       白糸の滝     白糸の糸きらきらと春の風     大滝は春のリズムもて落つる     流れ星飛びかふわれの春の闇     梅の香や富士陶然と青空に     残る鴨残る鴨追ふ水の音     多彩なる春の仮面がやつてくる     木の洞に春の小鳥が顔を出す       はじめは鶯かと     画眉鳥に間違ひのなき初音かな       亡き父母の年齢へ     老年や春風のごと父母の恩              まなこ     うららかや眼鏡の奥の眼また       「富士は日本一の山」     春宵や富士の歌もて会終る     この谷戸の白紅梅の狂ひ咲き     街灯のガラス輝く春日かな     春の市素直に蜜柑買ひにけり       ダルマが干されてゐる     ダルマ殿腹出し春日浴びてゐる     宇宙塵宇宙にあふれ春の空     春空へニユーロン伸ばす枯木かな     山笑ふ我ら死にゆく義務持てり     蛇穴を出て青天をめざすかな     鳥の子の頭突きしあひて枝の先     地に影や春の鳩たち空に満ち     図書館の前の湧水春の音     くつきりと春あけぼのの空の月     紅梅や犬の散歩の人ばかり     啓蟄や森出て都会のど真中     春の雨けつこう暴れはじめたり     揺れゐたる遠く近くの春の笹     天才が春の藪より頭出す     春の空千手万手をあげ欅     雪折れの枝切りすてるパズルかな     さざなみを見ているこころ春きざす     残る雪山の斜面を白き道     春の池水底鳰の泳ぐ見ゆ       三・一一 三周年     春の空富士本日も無言なり     新しき神話はじまる春来る        やまぎは     湿原や山際よりの春の水     時計屋に春の時間がなだれ込む     スーパーのカートに乗りて春の孫     どこからか春の風吹く大和かな     春の野を来る幻は人となる     座布団のまあるくふくらむ春日かな     揺れゐたる草木遥遥春夕べ     真つ青な富士の空より落椿     富士山麓梅桃桜とただよへり     春なれど入り日に赤き雪の富士     朝ぼらけ小綬鶏雌を求め鳴く     桜の木ピンクになりぬ花近し     枯芝の光まみれの春きたり     岩間より青空へ蝶舞ひたてり     流るるは時代よ風よ春の川     花の雲宙はるかなる星雲よ       養鱒場     春の水逆巻くやうに魚の群     我が庭を睥睨するかに春の鳶     梅の香は富士の天よりおりきたる     春の日をやわらに受けて照葉樹     春風や上下の雲は合体す     春風や揺るるともなき草木花     彷徨ふや遊びごころの春の中     招き猫然として猫花の下     春一番木々は腕上ぐ腋の富士     ピンク色あふるる春の景色かな         ☆     屁ひり虫つぶせと妻に命じらる     月影や真白き世界にわれ黒し     小便で雪に字書きし昔かな     大寒の星へ薬缶が沸騰す     蹴りそこね足ひいてゐる枯野かな     氷穴や氷の蔵す真の闇   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  春。春を見つめる。春を読む。春を聴く。春を書く。シンプルに。自由に。明快に。  気になっている言葉。 「シューベルトは悲しい人生でしたが、音楽には喜びや様々な感情が表現されています。」    (ピアニスト、マレイ・ペライア)                                目次へ  **** 三月号 (2014年) **** (2014.2.28. 発行) ******

     大雪        2月8日から始まった大雪、とけきらないうち2月14日からふたたびさらなる大雪へと       句は時系列配列にはなってはいない       森の中の家、雪深く自動車が使へない 孤立集落といふ言葉     初めての大雪初めての孤立かな     生と死が真白き雪となりて降る     見えぬもの見えてくるなり雪世界     月なくて月夜のごとし雪大地     大雪や庭のどこかにおとし穴     スコツプのつきたつてゐる雪野かな     飽きにけり降り続きたる雪の嵩     大雪の暗き宇宙を覗きこむ     点としてわれは歩むや雪の原     目の高さ雪野ひろがる目覚かな     朝日うけ紅香る庭の雪     嬉々として雪掻きするやとなりの子     雪の上枯木ぐんぐん空へ伸ぶ            まろ     雪の上みずから転び小鳥たち     雪の上何を遊ぶや小鳥たち     雪の上森の鳥たち集散す     あざやかな鳥もまじりて雪の上               ともし     雪の夜のだいだい色の灯かな     深雪晴足をぬきつつ歩を進む     星月夜雪積む夢の世界かな     雪の夜や耳なし芳一さまよへり     雪晴や月光あびて雪女     ふくろうのまなこは不動夜の雪     ペガサスは雪をまとひてとびたてり     彫像の行列雪掻き済みし道       雪による分断、交通制御不能     想定外想定外よ春の雪     大雪の深さいくども測りけり     大雪や礫のごとく小鳥たち     青空や半身うづめ雪原を     青と黄が白にまじりて雪と降る       しん     我が心の宇宙へ山河へ雪降れり     雪降れりこの世まあるくなりにけり     春近し目覚めば大き雪の中     小鳥らの飛び交わすなり深雪晴     首上げて富士見る鴨や深雪晴       箱庭的な景     我が庭の雪の山河を目で歩む     残りたる雪の包囲を甘受する     雪白し白き世界の無限大     月光や淡き光の雪世界            たま     雪原をさまよふ魂の行方かな     永遠に落下途中の牡丹雪               森黒く庭の面光る雪の夜     雪により捕縄され居る我家かな     猫白く雪の枯木にのぼりをる     朧月富士山麓の根雪かな     雪の上絶えずなにかが飛びすぎる     天上は真白この世は雪世界     枝に雪残れるうしろ春の富士     残雪や白き世界へ大あくび     陽をあびて雪すこやかに溶けにけり     雪折れを耐へて春へと生き延びる     大雪の向かうに春がまつて居る     ベランダにとけゆく雪や春の雨                大雪前後       青淡し富士の溶けゆく春の空     梅の苗植え梅林をこころざす     麦笛が遠くに鳴るよ春が来る     秘すれば花夢ただよへる春の宵     春の歌うたっていればいつか春     残雪やあなどりすべりころげたり           しじま     大いなる時の静寂を落椿     湧水の豪華な縁取り落椿     子規資料コピーす窓の春の富士     冬の真夜体の部品はづる音     やまびこをしづかに聞けり雪が降る     春霞マラソン富士の方へ消ゆ     立春や鴨のつがいの川流れ     立春の一日あるいてしまひけり     立春や夕べは深き雪となる     エンジンは春の響きの漁港かな     立春や野にぎつしりとモグラ穴               まなこ     雪野原ざつと見渡すわが眼     立春の山河に熱き涙する     残る雪わが足跡もそのなかに     春浅し弥生の遺跡くろぐろと     竹林や春のこだまの水の音     梅の白雪の白とぞ照応す     白梅の香は辻公園を荘厳す        ☆       思ひ出     雪積るパリの路上やこける人       富士宮市核兵廃絶平和都市宣言の碑 文字だけで終りたくない     核兵器廃絶の碑や富士の雪   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  富士山麓。大雪に一時自宅にとじこめられることになった。  自動車道は二、三日後通行可能(まず国民休暇村のある田貫湖への道路が、次はその道路から自宅へ の道)になったのだが、初めての大雪の経験だけで、大雪の句をよむのはむつかしい。  細谷源二の 地の涯に倖せありと来しが雪      (『砂金帯』) など厳しい雪国に生きてきた、そして現に生きている俳人たちも痛切に句を詠んだはずであり、まだま だ甘い今回の当地の大雪の経験であった。  最近、興味を集中していること。  1)子規 あらためて注目している。笑える句や俳句革新についての文章等々見直す見どころ多し。  2)アドラー心理学 特に『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)を再出発点としてのアドラー  3)禅 加藤耕山老師 公案など禅知識によりかからない坐禅そのものに生きた「古仏耕山」    なお、単純で大胆な句をも作っていきたいと思うぼくに、あたりまえといえばあたりまえの次の文章 が心に残っていると付け加えておく。  大切なのは、普通の言葉で、非凡なことを言うことだ。       「ショウペンハウエル『読書について』」                                 目次へ  **** 二月号 (2014年) **** (2014.1.31. 発行) ******

    地球号北半球は春へ飛ぶ     散歩する合間合間の冬籠     太陽が枯木に一つ懸りをり     青空や落葉まみれの丘を超ゆ     青天や皮膚呼吸する雪の富士     春近し小さな教会丘の上     春近し空へ放ちてグライダー     偽度胸掲げて雪の森をゆく       横浜 金沢文庫の場所を聞いても誰もしらない  時代かな     一月の金沢文庫どこにある     丘登り冬日を浴びる海を見る     たまりゆく心のそこの落葉かな     しづかなり孤舟浮かべて冬の池       強風に車をもつていかれないやうに     ハンドルをがつちり握り北風へ     赤い花青い花降る雪が降る       富士市みなと公園 山部赤人の不盡山の巨大な歌碑がある     言ひ継ぎし富士の空なる凧ひとつ     山の端の影黒々と寒の月     もぐら穴続きし先の雪の富士     犬吠ゆる雪の墓場の底ひより     大寒や池の鏡の逆さ富士     天井に夢の張り付く去年今年     やはらかく烏着地す寒の土     モツアルト響き熊笹ゆれてゐる     初日さす部屋なり初日浴びてゐる       小生小柄     二メートルの男に続き初詣     句を作る景たまへかし初詣     見てをりぬ遠き雪峰を墓場より     尾をふりて犬座りゐる暖炉かな     魔女となり暖炉の前でしやべりをる       宇宙への供物台のやうな石段     石段の上に輝く雪の富士     死へ向かふため起き上がる雪の朝     華麗なる雪の原あり富士裾野     雲間より氷柱のごとき光かな     大の字に宇宙ただよふ寒の床     白鷺や雪の水面の何見つむ     雨戸開け降り来る雪を覗くかな       田貫湖 時代だなあ      煙突を暖炉をつけてキヤンプかな     大枯野孤独分泌して居たり     散る落葉浴びたり踏んだりして歩む     二日酔庭の雪にて顔洗ふ     人生は結果往来雪吹雪     氷上をすべり歩きの鴨真顔     風邪の夜は魑魅魍魎の暴るまま     のけぞりて雪に倒るる遊びかな     寝転んで青空見つむる雪野かな     ひつそりと壷にあたりし初日かな     初富士や犬に吠えられ日常へ     冬の川意外に早く流れをり     寒き夜や心のすきま宇宙的     熊笹に雉の首現る寒の道     冬銀河見上げ待ちゐる救急車     掃除機の音なつかしき三日かな     夢想家に焚火の炎燃え上がる     今日もまた夕日の沈む二日かな     シユールなる神代の古事記読み始む     初富士は枯木の中の我家かな     初富士の方から風が吹いてくる       この時期真正面に朝日を浴びる 運転は油断大敵     目潰しの冬至の朝日となりにけり     予期したる雪降り出せる散歩かな     冬茜血濡れたるごと空はあり     転がれる拡大鏡の中の冬     冬ごもり棚に飾りし孤独かな     歌つてる暖炉の前の小悪魔よ     枯木山となりし安堵の散歩かな     冷蔵庫メモに覆はるる師走かな     氷りたる下弦の月も春を待つ        ☆     うねりつつ湧き上がりくる春清水     旅に果て給ひし芭蕉鳥雲に     よびかける春の声あり地底より     神はあり神の息吹の春の風     春寒し遺跡のかたちに土を掘る          よし はむら     揺れてゐる蘆の葉叢の春の鯉     畦歩む登呂の畦なる草の花     森の中小さなおうちへ春が来る               うれ     朝日浴び花粉輝く杉の末        ☆     汗が飛ぶ裸祭は絶叫す        ☆       どれだけの数の句がつくられ、直ちに忘れられてきたのだらう     無数の句星雲なせり星月夜     月明り子狐跳ねる森の奧     スイツチがいつしか入る秋の暮     秋夕べ森が泣き出しゐたりけり     頬杖も疲れにけりな秋の暮     散歩する書物の中の秋の暮     薄原揺れて見え初む風の筋       言葉あそび     詩人死し俳人廃され秋の暮        ☆     やがて消ゆ太陽系で俳句かな       どうも車で同じところを回つてゐるやうだ     横浜や車ぐるぐる蟻地獄        登呂遺跡 摩擦で火種 それを吹いて麻の繊維に     火をおこす小学生のひよつとこが   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  〇 名人はあやふき所に遊ぶ。              『俳諧問答』  〇 古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ    『韻塞』  〇 物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし。『三冊子』  先日、「気になる俳句」のページに「芭蕉の名言」を書いた。  今回その中から選んで、上記の三つ以外日頃の句作に刺激を与えてくれる言を再録しておく。  なお「芭蕉の名言」は独立させ、別ページをもうけたいと思っている。  また現在、芭蕉、子規、虚子の流れを思っている。特に子規の「俳句革新」を。  〇 ついに無能無芸にして、ただ此の一筋に繋がる。『笈の小文』     〇 予が方寸(理屈)の上に分別なし。     「其角「雑談集」」    汝等が弁皆理屈なり。           「其角「雑談集」」  〇 言ひおほせて何かある。          『去来抄』    〇 不易流行                 (『去来抄』などより)    師の風雅に、万代不易あり、一時の変化あり。この二つに究(きはま)り、その本一つなり。                                   『去来抄』    不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず。 『去来抄』  〇 俳諧自由              (『去来抄』より)    俳諧自由の上に、ただ尋常の気色(けしき)を作せんは、手柄なかるべし。 『去来抄』      〇 松の事は松に習へ。             『三冊子』  〇 乾坤の変は風雅の種なり。          『三冊子』  〇 造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ    事なし。                  『笈の小文』  〇 心に風雅有るもの、一度口にいでずと云ふ事なし。   『去来抄』    〇 心の作はよし。詞の作は好むべからず。    『三冊子』  〇 格に入りて格を出ざる時は狭くまた、格に入らざる時は邪路にはしる。格に入り、格を出ては    じめて、自在を得べし。           『俳諧一葉集』    格を定め、理を求める人は俳諧中位に置き、格をはなれ理を忘るる人は、此の道の仙人なり。                           『許野消息』  〇 高く心を悟りて、俗に帰るべし。         『三冊子』  〇 事は鄙俗(ひぞく)の上に及ぶとも、懷かしくいひとるべし。   『去来抄』  〇 新しみは俳諧の花なり。             『三冊子』  〇 きのふの我に飽くべし。             『俳諧無門関』      昨日の我に飽きける人こそ、上手にはなれり。   『篇突』  〇 俳諧は気に乗せてすべし。            『三冊子』    〇 句調はずんば舌頭に千転せよ。          『去来抄』  〇 発句も四季のみならず、恋・旅・名所・離別等無季の句ありたきものなり。『去来抄』  〇 虚(想像)に居て実(真実)を行ふべし。実に居て、虚にあそぶ事はかたし(難しい)。                            『本朝文選』  〇 俳諧といふは別(格別)の事なし。上手に迂詐(うそ)をつく事なり。  『俳諧十論』  〇 俳諧は三尺の童にさせよ             『三冊子』  〇 一句は手強く、俳意たしかに作すべし.      『去来抄』  〇 発句は取り合はせ物と知るべし。         『篇突』  〇 発句は、ただ金を打ち延べたる様に作すべし。   『旅寝論』  〇 平生即ち辞世なり。               『芭蕉翁行状記』  〇 我骨髄より油を出(いだ)す。          『俳諧問答』    〇 俳諧は無分別なるに高みあり。          『俳諧問答』    〇 点者をすべきよりは乞食をせよ。         『石舎利集』  〇 風雅もよしや是(これ)までにして、口をとじむとすれば、風情(ふぜい)胸中をさそひて、物の    ちらめくや、風雅の魔心(ましん)なるべし。    『栖去之弁』    〇 もの知りにならんより、心の俳諧肝要也。     『古池』  〇 かるきといふは、趣向のかるきことをいふにあらず。腸の厚きところより出でて、一句の上に    自然あることをいふなり。            『俳諧問答』  〇 俳諧の益は俗語を正す也。            『三冊子』  〇 俳諧は教へてならざる処有り、能(よく)通るに有り。『三冊子』                              目次へ  **** 一月号 (2014年) **** (2013.12.31. 発行) ******

    天空の一角しかと雪の富士     去年今年闇に命の力かな       富士市「田子の浦みなと公園」の小さな丘 三百六十度の展望     見まはせば伊豆太平洋や雪の富士     航跡の紺深みゆく冬の航     脳だけのラジオ体操寒の朝     馬鹿なこと考へてゐる枯野かな     夕映や紅の濃くなる雪の富士        まなこ     冬の馬眼やさしく歩き過ぐ     群集の去りし広場や寒の月     敢然と裸木となりおほせたり     聖水とて紅葉あびたる黒き髪     愛鷹を超えて富士へと鷹一羽     我狙う猟師ひそむか茸山     小春日や飛びたくなりて飛ぶ小石     枯草に真珠まがひの露の玉     クリスマス怪しきサンタ何か嘔く     冬の川寄り添ひゆけば冬の海     大枯野輝き光る海見ゆる           こがね     全身に日あび黄金の枯木かな              ばつた     愛犬の墓によりそひ飛蝗凍つ     狼煙雲富士に立ちをり大枯野     冬晴やあの山こゆる翼欲し     青天へ逆血管図大枯木       この今を感謝     太陽はいつか爆発日向ぼこ     小滝凍て大滝凍てて並びをる     枯木山送電塔に人光る       富士大沢崩れ 風強し     空真青大沢崩れ雪剥げて       富士宮市 朝日滝     青空をあふれて寒の水おちる     富士稜線うしろは雪の甲斐の山       自然で残酷なその料理法     つかみたる子猫落しぬ冬の鳶     鷹を追ふカラス集まる里の空     小鳥食む赤き木の実を食つてみる     滝連ね冬の棚田を小川かな     大空を月歩みゐる枯木山     空谷やこの凍滝とわれ二人     降る雪や地より湧きたる地の賛歌     宇宙的絶望胸に枯野行く     帰還せり寒のトイレをベツドまで     雪の山夢幻は白き影をひき     姿勢良く雪の富士見る小犬かな     小川ゆく寒の水とて水親し     ひつじ田であつたはずなりメガソーラー       校庭の隅にもソーラーパネル     ラグビーのボールころがるソーラーパネル       西行にはなり難し     にせ     偽放浪結局帰る秋の暮     冬至の日あびてまつたり太平洋     洋上をおのれ高めつ鷹一羽     冬至の日あびてやはらか富士とぼく     枯木折り音のなかへと深入す     枯木山一条の道登りゆく     舞上がる紅葉や遠くの世が燃える     秋深しグラデーションは富士登る     鳥たちがなぜだか狂喜木の実落つ     紅葉なす大地の果てのおろかもの     寝転んで歩む天井冬ごもり     眠りゐるわれの内なる桜かな     梟のみつめる闇を修羅たちは     冬朝日あびて山脈すこやかに       映画「2001年宇宙の旅」      コンピュータわれら背くか福寿草       森の中に住む すぐそばの富士見ゆる所へ     元朝の霊気しみ入る真顔かな       ヴイヨンの詩の一部を              こぞ     深刻に思ひすぎるな去年の雪       気がつけば数へ年七十一歳     気がつけば妻子や孫やお正月             ☆       四季四句     正解のない人生や花を見る     正解のない人生や夏祭     正解のない人生や秋の暮     正解のない人生や雪が降る        ☆     くれなゐにくれゆく桃の節句かな     角笛は春の山々駆けめぐる          兎の如く春の芝跳び犬駆ける     時代には時代の風や桜散る     忍耐はさくらさくらと散りにけり     対岸の春へ抜き手を切つてゆく     手を振つて先頭をゆく遠足子       名誉教授は勲章の対象になりうると大学の申請受諾の意思をとふ文書来る     勲章辞意ただちに送付すみれ草        ☆     しづかなる小川は滝と落ちつ吼ゆ       湧玉池 「浅間なる御手洗川のそこにわく玉」(平兼盛)         たま すが     わく玉の魂の清しき清水かな       廃仏毀釈以前神宮寺(神社に附属して建てられた仏教寺)あり     岩清水すでに滅びし神宮寺     麦の秋胸を撃ちたる画家一人     夕焼けの丘のぼりゆく影法師     大夕焼末世の業火天がける        ☆     世をさけて住むにはあらじ竹の春     富士一周自転車で終え月見風呂        ☆       ひも理論と言ふ科学理論あり     お互ひにひもで絞めあふこの世かな       富士山麓はハンググライダーのメツカ     不時着やハンググライダーわが森に        ☆     (一番上に掲載した句は、次のように二句をあわせてとも思ったがやめておいた)           富士二句     天空の一角しかと雪の富士     列島のまん中しかと雪の富士   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  ネット上で個人誌を発行しているが、無名きわまりない草莽だ。  草莽は草莽なり自分なりの「道」をゆく他ない。冒険者と自称するのもおこがましいが、自分なりの つたない冒険を生きるよりほかない。  「俳句をこのようなものだと限定」しようとする俳人たちの無駄な覇権争いからはなれ、自分なりの 旅をすることだ。  商業主義が跋扈する俳句界に矢島渚男のような発言をする俳人がいてもおかしくはない。    「芭蕉は権勢にこびることを最も嫌った。俳句の原点はそこにある。」  さて、このごろあらためて「そうだったかとハットする」、「しみじみそうだと思う」といった句を も作っていきたい思うのだが...いずれにしろ「贅言」はいい加減にしてともかく句をつくること。                              目次へ **** 十二月号 (2013年) **** (2013.11.30. 発行) ******

          FUJIYAMA     わが宇宙雪の富士山聳えをり       山道で     カモシカの無垢な眼と遭ふ吸はれゆく              きた     青天にひろがる命秋来る     小春日のころがつてゐる山河かな     額縁は紅葉なりけり富士の山       陽だまり(日溜り) 冬の季語として採用したいものだ                 ばつた     陽だまりに富士を見てゐる飛蝗かな     赤と黄と吾も浮遊す紅葉山     華麗なる毒の茸に遭ひ申す     極端な考へすてて柿を剥く       けものみち     黄落や獣道にて日暮れたり     干柿を狙う鴉に納得す     薄の穂いつか撫でてる無聊かな     冬山に太き日矢の突き刺さる       富士宮 大鹿窪遺跡     草枯れて縄文遺跡空の富士     生と死は回転扉冬の鵙     ビッグバーン以前の青さ秋の空     ひつぢ田や背筋のばして雉渡る     華やかな造花捨てられ枯野道     ひつぢ田やカラスは集ひ笑語する     わが庭の老いたる薄刈つてやる     小春日やパン屋笑顔でパンを売る     七五三餌を奪ひあひ神の鶏     鹿の声森の夕べにひびきけり     日向ぼこ吾に隣りて別の吾     冬天にぶらさがりたる蜘蛛の糸     太陽系いつか終焉秋うらら     紅富士の紅染まりゆくこころかな     初雪や昨日刈りたる芝の上     冬晴や富士のまた吐く飛行機雲     わが森の奥にさしゐる冬日かな     生き急ぐわれらの惑星秋の暮     青空へぐんぐん伸びる秋の木々     華やぎを秘めて富士立つ寒の空     燦燦と日浴びて光る枯木たち     沼しづかしづかに泣きぬ秋の暮     次々と岐路あらはるる秋の暮     幻影は枯野に消えぬ日本晴     冬日浴び荒れ野の道の果ての富士                わた     富士へ向け富士アザミの綿毛吹いてゐる     鳶たちの目は爛々と北風裏     鹿の棲む森に連なる月夜かな     森の奥月隠れてるかくれんぼ     老人がバスに鈴なり紅葉狩     運転をやめる日いつか鳥雲に     静謐や師走の森の奥の凪     冬の夜の蜘蛛の怪しき出入かな     わが星と思ふ光芒星月夜     風に舞ふ落葉の音の宙歩む     神殿の裏の真赤な紅葉かな       古い煉瓦造りの喫茶店          いだ  さてん     紅葉の蔦に抱かれ茶店かな            ☆       虚子『小諸百句』     紙魚食ひし『小諸百句』を購ひし              滝の音に臍下丹田共鳴す        ☆       富士宮 田貫湖温泉 富士に亡き愛犬の雪形が見える     いい湯だな富士雪形のプリ笑顔     断定に満ちてこの世やシヤボン玉        ☆     亀の背に揺られて宇宙漂わん    ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  「物の見えたる光、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」(芭蕉)  作句法は一つだけに限定したいとは思わないが、こころしているものの一つに芭蕉の「物の見えたる 光、いまだ心にきえざる中にいひとむべし」がある。  何か感じたこと、必ずしも光りに照らされた瞬間というほど大げさではないが、あっと感じたこと、 閃いたことを句にすることから句がうまれはじめると思いたい。出発はそうありたい。ただ、「いまだ 心にきえざる中にいひとむべし」の「いひとむべし」はきわめて例外的にはおこり得るかもしれないが、 推敲の過程で大きく変わる場合が多い。リズムや語を按配し、発想の原点に立ち返って、想をねりなお し、そのなかで変身すのは自然なことである。いわゆる創造、創作的な面の登場である。  結果は「いまだ心にきえざる中にいひとむべし」とは違うことになるが、あくまでの出発は「物の見 えたる光」があってこそ始まると思いたい。  その製作の過程で「みえたる光」に通底するものは見失なわないようにしたいと思う。                             目次へ  **** 十一月号 (2013年) **** (2013.10.31. 発行) ******

      フランス(パリ)六十六句       パリ空港到着     パリ空港昨日の月をみてをりぬ       ひさしぶりのパリのメトロ     メトロなる迷路ふたたび地下の秋       金色に塗りなほされたもの多きパリ オペラ座 女神が高きに     金ぴかの女神胸はる秋の空       サクレ・クール     秋空にそびえて高き白亜院       ソルボンヌ大学に近いルクサンブル公園 新学期     自由なる装ひ笑顔はじけ秋       カルチエ・ラタン パリ五月革命 「舗石の下は砂浜」といふ落書があつた     天高し歴史を刻む舗石踏む       ダロワイヨ     フラン買ひ食べつつ歩むサントノレ       車、ネオン 光の洪水     夕暮の光ながるるシヤンゼリゼ       ノートルダム・デ・シヤン     ここにまた聖母を祈る女人かな       トイレ利用のためのカフエへ 今日二度目のカフエ利用     二杯目のカフエテラスや天高し       自動トイレが街角に 自動洗浄も今では改良されてゐる 「かたつむり」といはれた昔は     ずぶぬれになつて出でたるトイレかな            日本の放射能汚染を心配するパリジエンヌが言ふ      日本人何も知らない知らされない       お土産の静岡茶の放射能が話題になる        原発の放射能は制御できないと言ひ、からくち冗談好みの次のやうなせりふになる     緑茶飲むこれが最後とパリジエンヌ       路上の犬の糞はあいかはらず 妻踏んでしまう     パリ中に響く悲鳴や糞を踏む       パリに踏む犬の糞なる地雷かな       エツフエル塔五句     エツフエル塔空青々と鷹渡る     蟻のごとエツフエル塔へ人の列     霧の中赤いエツフエル歩くのか     雲裂けてエツフエル塔へ秋の日矢       ニユーヨークの摩天楼もさうだつた     エツフエルの天辺今や雲の中       運河     かふもん     閘門に船待つ空や鳥渡る                あした     パンの香の流るるパリの朝かな       モンマルトルの丘 ブドウ畑 やがてパリ産ワインへと     ブドウ熟れパリの畑の豊けさよ       パリ郊外 麦畑の中     堂々と大樹の続く並木道       ヴオー=ル=ヴイコント城の地下牢 鉄仮面をつけた等身大の人形     地下牢に夢見る若者鉄仮面       昔ギロチンによる処刑がおこなはれてゐた             たま     コンコルド断首の魂のごとき月     ハイエナが仮面をつけてシヤンゼリゼ     天高し鞄にパリの地図探す       ヴイヨンてふ中世末期パリの謎の無頼詩人     影求め小路小路を秋の暮     マロニエを拾ひて古希やシヤンゼリゼ       オ・シヤンゼリゼ 「オ」は「oh」ではなく「aux」 シヤンゼリゼ「にて」     鼻歌はいつかシヤンソンシヤンゼリゼ       時代とともに主人公は変はる かつては日本人      薔薇の香や高級バツグへ中国人       街角の捨てられたソフアーに男が眠つてゐる     路上なるソフアーの上で何夢む       ダリ美術館     パリ路地の行き止まりに咲くダリの夢       こんなことも     幸運やスクラツチあたるパリの秋     出口なし秋の日暮の裏路地は                          薔薇の香やサクレ・クールはパリを統ぶ     セーヌ川秋色ながれゐたりけり     シテ島のへそのあたりの秋の風       ポン・ヌフ(新橋)といひながらパリでもつとも古い橋     新橋はパリで最古や秋の蝶     薔薇窓は燃ゆるが如し秋夕日       ケ・ブランリ美術館     仮面たち踊りさうなり秋の午後       ルーブルからコンコルドへと続くチユルリー公園 カササギは黒地に白     パリの空カササギ白を輝かす       オルセー美術館 二句     開館を並んでパリの秋の冷え     再会すゴツホセザンヌ印象派     物乞ひは元ヒツピーか秋の風       カタコンブ(地下墓地)     骨積みて海賊マーク地下の秋       クリユニー中世美術館 一角獣は日本に行つてゐる     一角獣不在の館秋の冷え       歓楽地ピガール 地下鉄の換気口の風をうけての撮影が行はれてゐる     スカートに秋風受けてモンローか       インフオメーシヨンの女性態度悪し     インフオメーシヨン女は秋のあくびする       小便便器はあひかはらず高さがある     四季とはず小便便器の高さかな       午後の開店時間になつてもなかなかオリーブ店の主人が帰つてこない       南フランス出身ののんきな女主人     ゆつたりと店主が帰る秋風裡       セーヌ河畔 古本屋(ブキニスト) かつては利用してゐた     ブキニスト昔のわれがのぞいてる       ボンボン(キャンデー) かつては駄菓子的存在であつたはず 今は高級駄菓子屋である     ボンボンの色がはずむよ四季の色       ポン・デザール(芸術橋) 他の橋にも縁結びの鍵が隙間のないほど結びかけられてゐる     しはわせや鍵ぎゆうぎゆうにかけられて       セーヌ川 その長き歴史     流れ行く光と時代セーヌなり       セーヌ河畔 バトー・ムツシュ(セーヌ観光船)の乗り場を問はれる       知り合いのパリジエンヌは答へられない かはつて答へる     外つ国の人が知つてることも秋       モンマルトルの丘     パリ秋天赤い風船飛んでゆく     凱旋門つるべ落しの光芒に     暗闇に聖母の涙光る秋       モンマルトルの丘へかけあがる 若い時代の旅のパターンをついついやつてしまふ              けらく     長階段登りきつたる快楽かな       モンマルトル テルトル広場 似顔絵画家がよびかけてくる     「いかがです」「お金がないよ」「ぼくもない」       ムーラン・ド・ラ・ギヤレツト     木漏れ日の風車が回る秋の夢       ホテルの窓 道路向かひのいくつかの窓に生活の一部が見える     窓々にパリの生活空を月       モンマルトル墓地 ハイネ、スタンダールたちの墓     死者たちの王国散歩パリの秋       楽で安あがりの空港へのバスのルートをホテルの人に説明する        彼にパリジヤンみたいだと言はれる     パリさらばバス乗り継いで空港へ        ******     朝日浴び輝く木々や今朝の秋     満てるものしづかに満てり秋の朝     山脈の裏は明るし秋の暮     顔のなき人の会釈や秋の暮     雨誘ふ雲を見てゐる花野かな       鉢巻雲     鉢巻雲まきて富士立つ運動会     行く雲ととどまる富士や秋の空     コスモス     宇宙花や時代時代の風に揺れ     梨のつゆたつぷり喉にしみわたる     陽を吸うてしづかに揺るるすすきかな     目をつむるときの紫秋の暮     秋思とて大樹見つめてゐたりけり     ひつぢ田や空に豊かなひつじ雲     ひつぢ田や初冠雪の富士の峰     川の音ききつつ揺れる薄かな     トンネルを抜け容顔の秋の富士     カナダガン標識A27と再会す     なみだため無言のおきな秋の椅子     小鳥たち赤い木の実を遊んでる     われの死ぬ地球仰げり秋の夜     露の世の夢の世界よ小鳥くる     「まあいいか」落葉の道をあゆみゆく     真夜目覚め鳴くこほろぎをいとほしむ       駿府城     堀に散る桜紅葉の美しき     秋空をはばたき渡る白き雲     風強し富士に噛みつく秋の雲              おもと     永遠について語るか万年青の実     虹まとひ満月雲を抜けにけり     富士初冠雪振り返るたび消える雪     天上に竪琴流る天の川     どんぐりのたくさん落ちて豊けき道       野菜をよくわけてくれる元同僚 家(別荘)の玄関に「下ノ畑ニ居リマス」の文字あり     豊作や下の畑にゐるらしい       台風は南海に     遠台風黒雲富士へなだれ落つ       なつかしい風景     谷があり岡あり秋の日差あり           ☆     富士へ向けサツカーボール蹴り上げる     初護摩や心の火こそ燃やすべし     天才のぎやうさんゐはる春の闇     わが遺骸引いてゆくものあるおぼろ     万緑や死は唐突に彼おそふ       富士山麓 湧水多し     散歩道すくひてうまき清水かな       地上から見あげる     闇空へ光の帯や富士登山     老年や水をまきつつ虹遊び           ☆     森を抜け下界の空気と激突す       のろし       狼煙雲     富士山頂噴煙のごと狼煙雲   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆    フランス(パリ)六十六句  無季の句もある。芭蕉の「発句も名所など、無季の句ありたきもの」をふまえて無理をしてまで季語 を入れていない。  古希の記念を口実としての旅であった。海外渡航は十度目である。最初はパリ一年。その時はまだ俳 句をはじめていなかった。帰国後にはじめた。やや大げさだが日本文化再発見の意味も無いわけではな かった。今回は最短の十数日であった。季語の問題など含め、俳句は日本でこそという思いが根底にあ り、今までは海外吟には積極的にはなれなかった。今回はやや自覚的に作ったが、十全な展開というこ とにはならなかった。メモ用紙はともかく、句帖を片手にといった習慣はぼくにない。数だけは作った。 その一部がここにある。                             目次へ  **** 十月号 (2013年) **** (2013.10.4. 発行) ******

 昨日パリから帰ってきた。十数日間の不在であったが、「十月号発行」に影響を与えることになった。  「十月号」としては「十月号予告号」掲載5句と出発前に用意していたものをとりあえず掲載するこ とにした。気持ちを新たに、フランスでの句などを含む「十一月号」へとすすみたいと思う。  *****「十月号」**********    (「十月号予告号」に掲載の5句)     海底に沈んだ都市の秋の暮     偉さうな俳句理論家遠花火     悪あがきするのも大儀秋の暮     天上に大輪と咲く今日の月     脳髄の銀河を銀河鉄道よ  (9月21日以前に用意していた他の句、若干)     天井に魑魅魍魎の夜長かな       強風の日     啄木鳥のあそびし木なり倒れけり     見上げ居る大ひまはりは見下げ居る     秋風にふかるるままの散歩かな             あうら     カルガモの泳ぎの足裏水の秋     鬼門には富士のおはせり萩の花     わが庭に集ひて遊ぶあかねかな     秋雨のはねて踊るやバルコニー     文化の日歌う「ふるさと」名歌なり           ☆     勘違ひしつつ枯野に深入りす       どうも金子兜太の蝮(まむし)の句がじやまをする。         なお蕪村に次の句あり。「蝮(うはばみ)の鼾(いびき)も合歓(ねむ)の葉陰哉」     冬眠の癌細胞の寝息かな       後ろ手に賢治のごとく冬の畦                             目次へ  **** 九月号 (一周年、2013年) **** (2013.8.31. 発行) ******

    少年の心の闇の星月夜     しづかなり霧のごと湧く虫の声     火祭や朝から胸に燃ゆるもの     目の玉を秋空に投げ地を黙視       朝霧高原の一角に住む     十重二十重霧にまかれて我家かな     わが行く手立ちあがりけり秋の風     妻悲鳴深夜の虫とり物語     秋の森深し振り向く阿修羅王     空と海釣瓶落しが撹拌す       暗所に置いた籠     甲虫一寸先の闇に死す     闇深しわが脳天へ流れ星     はり     鉤の鱒渾身あらがふ力かな     遺伝子をあやつる男胡桃割る     初秋や風透明に臍こゆる     それぞれにゆれつ富士見る吾亦紅     視力検査輪つかの奥の秋の暮     えいやつと虫生きてゐる誘蛾灯      満月に占領されてわが闇は         いなご       蝗の原を横断す     蝗分け蝗の王や曠野ゆく     妖怪は常にお隣秋の暮       なんだらう     森の奥笑ひ声満つ夜長かな       西瓜割     この西瓜一撃ごときはびくとせず       カーブ曲りそこねる     自転車がゆつくり落下谷紅葉     蟷螂は図鑑通りと子の瞳       庭で食わんと西瓜を切る     雀蜂我等の西瓜強奪す       浅間神社 御神火祭     火祭や業火ののぼる神田川     火祭や衆はのけぞり炎へと     火祭や中天赤き星こたふ            戦死者がとなりの部屋にひかへゐる        ☆     山の子は滝の岩場を猿のごと     対岸にキヤンプの灯ある散歩かな     殺虫剤仰山撒きぬ夏終る       浅間神社 おばさんたち     氷売るテントに集ひ油売る     たつぷりと水飲み泳ぎおぼえしか     丁寧に山彦応ふ閑古鳥     夏の森食物連鎖真つ盛り     水中を目開け泳げばカンブリア     緑陰やロダン複製「考へる」     若葉道乙女の裸像躍動す     はつきりと流星一つ生れ消ゆ     目鼻なきふくべは垂れて肥りゆく     森住まひ里の花火の大こだま     糞の主どの夏鳥か洗車する     蜻蛉生れ羽根の乾くを待つ時間       画面には映らない背後の広島、長崎を思ひつつ(類句は覚悟、日記としての句)     原爆忌テレビと共に黙祷す         ☆     トイレより手のでる昔冬の夜         ☆     老集ふ「愛の丘」なり春の芝       山村暮鳥の詩「風景」 暗唱     「いちめんのなのはな」「なのはな」なほ続く       路上の事件 犯人は車     狐の子唐突な死を眠つてる         ☆     大あくびついでに宇宙飲みこまん     挨拶が飛び交ふ愛の不在かな   ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  去年8月31日に九月号を発行してから、一年になる。記念号とは大袈裟だが、一応「一周年記念号」 というわけだ。  とりあえず、五年間はやろうと思って始めた「個人誌」である。あと四年であるがどうにか乗り切り たいものだ。  作句継続の手段として「だめもと」ではじめたわけだが、気分は、十月号の「後記」で書いた     ほとんど読まれることのないはずのWeb上の無名な「個人誌」ということで、一応公開はして     いるが、リアルに橋關ホ(かん<間>せき)の次の句が思われる。      人知れずもの書きためる雪の底 といった状態である。  作句にあたっては、持続するため、そして発想を自分なりに豊かにするために、まず心を楽にすると いうか、とにかく自由に作句するように心掛けている。  すでに以前「後記」でふれた二つの作句姿勢を思う。  一つは、田中裕明の発言。『田中裕明全集』の栞にある宇多喜代子さんのメモにある。    「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」    「詩はむりなくわかることが大切だと思います」    「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そしてセオリーを忘   れることが大切です」  もう一つは、飯島晴子    「こうして三十年間の句業の跡である作品を調べてみると、作法を決めたくないのが私の作法で   あるという観を呈している。しかしどの句も、その時の私自身に対してせい一杯忠実につくってき   たつもりである。そのうちに、俳句は事前に予定すると成功し難いという厄介なこともわかってき   た。    作法は選ばず、結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にのせて、言葉を   詩の言葉としていかに機能よくはたらかせるかという興味である。    俳句の場で、言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。だが作品をなすにはまず   何らかの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなければならないのは当然であ   る。」          (『飯島晴子読本』富士見書房)  俳論はかならずしも嫌いではない。貴重な俳論も多く恩恵を受けているが余計な理屈は「遊び」の無 い機械やハンドルのように詩を窮屈なものにさせることになる。  この「個人誌」には「プリミティブな句」そして「けったいな句」も残したいと思う。 五月号の「後 記」に藤田湘子の「愚昧論」に触れる文をのせた。その「愚昧論」を逸脱しているかもしれないが、広 い意味で「愚昧」に通じる句も残したい。俳句の豊かさをひろげるためにも。俳句の多様性のためにも。  前途は長い。すべては進行中である。「今」である。寿命が簡単にはつきないことを祈る。  とはいえ、深刻にならないことだ。「遊びをせんとや生れけむ」。                             目次へ  **** 八月号 (2013年) **** (2013.7.30. 発行) ******

    炎天やギロチン空に隠されて     三光鳥三日鳴きしが去りにけり     富士ととも生きる今生雪解富士     青田波沖に小島のごとき富士     梅雨の窓亡者のごとく人立てり     炎天や森の地下ゆく水の音     巴里祭庭の合歓の木咲き匂ふ     茅の輪出で忘れし願を思ひだす     地に触れつ雨の下とぶ燕かな     富士見えず雨のアジサイロードかな     郭公や森の大きな時計鳴る     蜘蛛の巣の花と咲きたる森を行く     滝壺の冷え魂におよびけり     合歓の花幸せ家族のキヤンプかな     かなかなの叫び切なし夕暮は     ちよび髭の仕切る祭もたけなはに       鎌倉五句     鎌倉の若宮大路の炎暑かな                   筋肉や人力車夫の汗美しき       大仏の胎内に入る     大仏の背中の窓の夏日かな     炎天や頼朝像は耐へてゐる     源氏山若葉に透けて古都と海     雷鳴や青く明るき北の空       湧玉池 禊ぎガールズ     清水にて顔をきよめてよき乙女     ススキなのそれともチガヤ屋根高し     亀浮べまどろむ沼や夏の森     合歓の花褪せたる空の薄曇り     蓮の花写すレンズを蓮に向け     路地暗しはてに輝く新樹かな     黒揚羽黒き影ひき闇に入る     天体や人滅ぶとも夏の星     夏草は踏まれて元気元気なり     白髪は白と燃え立つ青嵐     狂ひ鳴くうぐひす正体画眉鳥と        ☆     蝶二頭もつれあひつつ昇天す       富士十里木峠 自動車を運転して越ゆ     大いなる霧に入りたり五里霧中     つるんでる蜻蛉ばかりの空の青       富士山麓     湧水はいつもこんこん雪が降る          運命は微笑みゐたり福笑ひ     ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆     俳句上達のコツ、そんなものはない。    「詩」がうまれるとき、詩には方法はない。    悪戦苦闘しているときに自分の我が崩れる。    「我」が崩れたときに詩が生まれる。    「我」がもっと大きなものに破られる、その瞬間に詩が生まれる。     (「俳句界 News」の「書斎訪問(大峯あきら代表 インタビュー)」より)  最近最も興味深かった「俳句界 News」の「書斎訪問(大峯あきら代表 インタビュー)」の中の言 葉である。youtubeの映像で、大峯あきらさんがインタビューを受け語っているのである。薦めたい。  大峯さんには会ったことはないが、気になる俳人の一人で、一年前には「シリーズ自句自解 ベスト 100 大峯あきら」(ふらんす堂)を購入している。  また、すでに大峯あきらさんの句は「現代俳句抄」で「虫の夜の星空に浮く地球かな」などを採用し ている。  画面をみるときさくな感じの人で、対面しているように親しみ深くみることができた。  色々考えさせるすぐれたインタビュー映像である。    また、河野裕子の短歌「美しく齢とりたいと言う人をアホかと思ひ寝るまへも思ふ」に突然触れたり しておもしろい。  引用すればきりがない。  なにより、youtubeの映像を実際見ていただくのが最良だ。  インタビューの前編、後編それぞれは、  「大峯あきら 前編」  「大峯あきら 後編」  「俳句界 News」といった全般的なページは、次のページから  「俳句界 News」  なお、このインタビューはつぎのような発言で終わる。    わたしたちの人生はみな想定外    想定外のものによって生かされている      わたしたちは無限の中にいる  *************************** (老婆心:初心者は「俳句上達のコツ、そんなものはない。」では進みようがない。     「芭蕉から現代までのいい句を読み、特に大切と思える句を暗記する事」といっておく。)                               目次へ  **** 七月号 (2013年) **** (2013.6.30. 発行) ******

    万緑にただよふごとく坐りをり           まなこ     やわらかな牛の眼や若葉風     片かげのベンチ領して鴉かな     王国や夏草茂る脳の襞     万緑や猛禽一羽旋回す     梅雨晴間森の円天大きな眼              なつむぐら     この道の果ては絶壁夏葎       富士世界遺産決定、花火上る        (あらゆるものには光と影がある。マイナスが増えないやう祈る)     雄大に富士浮きいづる花火かな     毎日が芝居で今夜夏芝居     内視鏡体腔さまよふ夏の昼     スカートが嫌ひで祭はつぴ好き       富士大沢崩     崩れゆく山は生きもの夏に入る     雉鳴ける藪の空なる富士の山     湧水や流れに抗し通し鴨     呼吸する真夏の森と息合はし     万緑や小鳥は歌ひ蝶は舞ふ     自転車で湖畔の風切る夏の朝     夏葎蛇尋常に出でて消ゆ     冷たいとはしやぐ園児の清水かな       老人力     堂々と財布忘るる祭かな       森の中に住む     窓開けて森林浴や風涼し     あぢさゐの闇にのまれてゆく時刻     大空を白き雲ゆく昼寝かな     鹿の子の角あるごとく頭突する     夏草や一両だけの電車来る     やまぼうし白き可憐な帽子たち     孤独だと思へば孤独夏祭     命とは溢るるものや雲の峰     渋滞や輝く海とサーフアーと     命令の洗濯干しぬ梅雨晴間         ☆     小鳥の巣襲ひし蛇を惨殺す     己が身を流して遊ぶ鴨の子よ     朧月宇宙開闢の場を思ふ     朝露の輝き満てり富士裾野     体内にレツト・イツト・ビー秋の暮     夢に見る底なし沼の秋の暮          ☆       寺山修司引用     理性とは二流の狂気大枯野             よそ       骸骨のうへを粧ひて花見かな (鬼貫)     マントルの上を粧ひて地球かな     マントルの上を粧ひて花見かな     ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  まずは「好奇心」。  これは出発点であり、一種の呪文であるが、この言葉だけで句ができるわけではない。どんなに小さ なものでも好奇心に関わる物や事との具体的な出会いが必要だ。  いつごろからか、「多様性」ということばも使っている。もちろんこの言葉も使えば句ができるわけ ではない。  結社のくびきのない現在、「多様性」は大事にしたいと思う。多様性は国際理解講座に所属していた とき講義やゼミでよくキーワードとして使った言葉である。(多様性の容認は国際理解の基礎、もちろ ん個の確立があっての多様性の容認である)無理な多様性はともかく、自然な多様性は俳句においても 大事にしたいものだ。  一句、一句は小さい世界だ。だが、その一つ一つにそれなりの何かがあり、それらが集まればと勝手 に多様性を思っている。  好奇心を出発点に、さまざまなものを核に句をつくる。勿論多様性をことさら目指すわけでもないが、 結果的に多様性にみちた句のあつまりができればと思う。  「好奇心」「多様性」そういった言葉や掛け声だけで句ができるわけではない。  が、大切にしたい言葉である。  まずは「好奇心」。  これは一種の呪文であり、この言葉だけで句ができるわけではない。「多様性」もまたしかり。  日々の実作が問題になる。                             目次へ  **** 六月号 (2013年) **** (2013.5.29. 発行) ******

    太陽の闇ふりそそぐ炎天下       宇部市・少年時代     廃鉱や夏ゆふぐれのハーモニカ     万緑や淋しき首を窓に置く     円い虹つぎつぎ生れシヤボン玉     修司忌や真鯉は空を大あばれ     夢のごと生流れゆく銀河かな       富士朝霧高原。蚊や虻よけに体を覆うため泥濘(ぬかるみ)に牛たちが座り込んでいる。       蚊虻(ぶんばう)は「蚊(か)と虻(あぶ)」。「つまらないもの」の意味もある。     泥濘や牛蚊虻に油断すな     鯉空に大き息する五月かな     日を浴びてわが森輝く夏の朝     カフカ忌やあのカフカ論どこにある     勤勉な男薪割る炎天下     万緑や子馬のシツポよく動く     万緑やゴルフボールが空を飛ぶ     万緑へむかひ気合をいれにけり     万緑や老いたる大樹幼き木     万緑や縄文人の影奥に     万緑の一角揺れて友来たる     緑陰や切株仏のごとく立つ       ほんの冗談、冗談     子供の日肩たたき券など孫へ     流鏑馬を昨日終えたる馬場の寂            風強き夜     いづこより流され螢わが庭へ     養魚場鱒の子狙う猫の夏     廃校の太き棟木や夏燕     豪邸と思ひつ覗く夏座敷     緑陰や驚かさんと人を待つ     緑陰や間違つた人驚かす     鈴蘭の小さな鈴に耳澄ます     若葉山爆撃の音届きけり     哀しみは胸にありけり片かげり     生き死にのことはるかなり遠花火     勝ち負けは歴史の表大昼寝          ☆       孫愛理、富士山麓のわが家へ     笑顔して愛理は駆ける富士の春       愛犬の死(残された日々、十数日後昇天)     生肉を楽しく食べて逝きにけり     大地よりぐんぐん春は芽吹くかな     通るたび鴉脅迫樹上の巣     黙礼す名も無き春の野の草に     良く来たねマルハナバチよこの花へ     鳶が舞ふ子雁見守る二羽の雁     二階より老子下り来る秋の暮     露無限露に宿れる富士の嶺                     おのが子にかしづくわが娘草の花     湖底にて淡く目覚り霧の朝     大宇宙ゆつくりまぜる者の影     ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  「俳句は遊びだと思っている。余技という意味ではない。いってみれば、その他一切は余技であ る。」と川崎展宏はいっている。俳句に対する大いなる覚悟と共に余裕に満ちた言葉だ。  話は違うが、俳句は自由に作りたい。自由と言っても勝手放題にではない。おのずから俳句としての 自分なりの内なるたがはあるが、ひとことでは言いにくい。  すでにふれている田中裕明の発現に通じるものといっていい。    田中裕明の発言を思い出す。『田中裕明全集』の栞にある宇多喜代子さんのメモにある。   「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」   「詩はむりなくわかることが大切だと思います」   「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そしてセオリーを忘れ    ることが大切です」   セオリーとは五七五であり、季語であり、切字であり、俳句のリズムである。   そして作る時にはセオリーを意識しすぎない、セオリーに引き摺られない、自由に詩を作るために。  俳句とはこうでなければならぬという頑迷な文に出会うと、伝統派であれ前衛派であれうんざりして くる。(伝統派は俳句を固定化しようとするその頑迷さにおいて、前衛派は自己の自由観を絶対視し、 固定化して他に押しつけようとする別の頑迷さにおいて)  ニーチェは「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。」と言っているが、自分 の解釈に拘泥し過ぎる人には疲れる。  ここでは、富澤赤黄男の文、「クロノスの舌」の一部を引用しておく。    詩は本質的に『曖昧』なものである。『曖昧』について理解できない俳人に   限って、つねに『説得』だけをやらうとする。    根源論も俳人論も、無季俳句論、社会性論議も、僕には無用である。僕はただ、   ひとりの人間が、憤りの果てから、虚妄の座から、涙を流し、哀歓を越えて、つひ   にひろびろとした大気の中で思い切り呼吸をすることが出来ればと、それのみを悲   願するだけだ。  後者の文の「僕はただ、(…) それのみ悲願とするだけだ。」の箇所は、時代の背景もありやや重く、 現在のぼくにはややおおげさすぎるセリフに思える。もうすこし力をぬいた姿勢を今のぼくはとりたい。 もちろん表現を試みようとするものとしては、それなりに、表現し、解放したい何かが身の内に静かに 渦まいていることはいうまでもない。  最後に、「詩情を保つには、大胆な発想をもって、人目をきにせず、びくびくしないこと。」という 空海の『文鏡秘府論』の一部を唐突に引用して終りとする。                             目次へ  **** 五月号 (2013年) **** (2013.4.30. 発行) ******

    襲はれて正当防衛春の夢     煩悩や犬の墓掘る桜樹下     草原のたてがみ優し春の風     ねそべりて高き梢の囀りを          如是我聞朧月夜をさまよへと     おぼろ月眠れぬわれのありにけり     蜂の巣に注意の札や蜂出入り     春の道あるいてゆけば富士がある     塞翁が馬駆けてゐる春の野辺     駆け寄りて見あぐる桜大樹かな     合歓の木のまだ目の覚めず若葉山     間違つた道教えけり春の辻     伴奏は天の音楽春を行く     若葉なる木の間さまよふ眼かな     もののけの跋扈する闇山桜     ホースより意気揚々と春の水     豪華なる落花浴びをり恐縮す     わが遺体送るごとくに春送る     ふらここにかけて翁は富士凝視     ビツグバーンもしか昨夜か今朝の春          石ばしる垂水流れて春の川     柿若葉青春はるか宙にあり     春川を沿ひゆきゆけば日暮かな     二階より若葉の海に目を浸す     菜の花の大海原や富士浮遊     吹かれきて我家の蝶となりにけり     聞こえ来る春の怒濤や森の奥       余震     チユーリツプ揺れてゐるのは地球かな     合はぬネジ合ふか合はない春の暮     山桜孤独に弱い人の群     よぼよぼのぼくの後行くぼくの春     いつか死す体を春の闇に置く     若葉せる林の奥のまぶしさよ     夢の世や春の山脈はてしなく     桜蕊花弁はいまもさまよへり     ああ桜散るよこのわれ日本人     春の空ふわりと浮かびわが心     春の闇黒く輝く黒き星        たま     春の闇魂とびこみし響きかな     竹の子はロケツト宙へ発射する     登呂の野や名もなき春草ひろごれり      囀りに躍るがごとき梢かな     行く雲や一人の春を遊びけり     長風呂や永き囀り聞き終わる     人間は百年でよし山桜     喜びの桜は白く湧きあがる     遮断機や背後のどかな春の景     雀の子雀の影もて飛び歩く     春の闇大樹の上の強き星     春の山徘徊老人呼ぶこだま     囀りにとりまかれてゐる命かな          ☆     歳とれば見ゆることあり鳥雲に     ぼけ     木瓜咲けり老年いよよ佳境へと     そこ彼岸こちら此岸の卯波かな       死は未定     大空に雲行くある日永眠す     永遠の命さまよふ五月晴       富士宮 湧玉池(湧水)      梅花藻や水きるごとく泳ぐごと     真理など無しと思へど日雷     炎天や森はしづかに呼吸する      旋回す星よ銀河よわが心     血の如く地にしたたれる紅葉かな     深秋の五彩の森の迷路かな       釣瓶落し     充血の秋のまなこは落下せり     絶叫の妻の寝言や冬の真夜     冬の日や目覚めてからも生き続く     大いなる森の円天鷹が舞ふ     青空の果てはありけりわが寿命     ぐい飲みの待ちかねてゐる新酒かな     ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  『老子』はともかく、『孟子』を直接読んでいるわけではない。が、ある本に『孟子』が引用されて いた。  一部だけ収録する。  「志を得ざれば独り其の道を行ふ。(『孟子』)」  「独り」が印象的であったが、このことにはあんまり深入りはしない。ぼくは  「志を得ざれば独り其の道に遊ぶ。」と改作してみた。  俳句に遊ぶ。一芸に遊ぶ。独りで遊ぶ。           ☆  ☆  愚昧論。  藤田湘子は「愚昧論ノート」で、虚子のいわゆる「小諸時代」の作品について「夥しい駄句の群がたっ た一握りの佳句を支えている」と書いている。要するにこじんまりした余計なことにとらわれず、大き くふるまった虚子への再評価であり、「カッコいいもの、見栄えのするもの、美しいもの、高いもの、 遙かなものをいつも求めつづけてきた」己を捨て、愚昧というより大きな豊かさを秘めた自己への変身 がテーマになっているのである。    愚昧といっても、あたりまえのことだが、単なる愚昧ではない。こまかいことにとらわれないこと。 句作が問題になっている以上、小さな命の世界を見つめるのは大切だ。自分なりに何かに何かを感じ、 何かに気づき、表現しようといったことは当然である。しかし、表現においては「ちっちゃい」はから いにとらわれない、小賢しくまとめようとしない。だめな部分をも包含しつつ、もっとおおきなものに ゆだねるといったゆうゆうとした無頓着な態度をということになると思う。俳の心でもある。  愚昧論といってもこれといった定まった一つの方法論があるわけではない。あるレベルにあると思っ ているものが、愚者になるのは難しい。愚者をふるまってもむなしい。(人間みなどこか愚者であると もいえるがそんな問題でもない。学生時代よく読んでいたいた本に『ばかについて ―― 知能の高い 馬鹿、知能の正常な馬鹿、知能の低い馬鹿』っていうのがあったっけ。)ともかく、小賢しいことはや め、「ちっちゃな」ことにとらわれず、拘泥せず。といっても人間である以上瞬間的にあれこれとらわ れるのは仕方ない。ただ、それらに引きずられ、ひきまわされ、小さな俳句をさらに小さくすることな く、たとえ小さな世界であろうが、大きく生き、大きく表現することである。ある種の愚昧が、自分の 器を越えた世界を作りだしうるのである。  小賢しいはからいを捨てる。こじんまりとまとまらない。こじんまりした詩形にこじんまりまとまっ てもしかたない。    小さな俳句という詩形には愚昧論の大きさがよく似合う。                             目次へ  **** 四月号 (2013年) ***** (2013.3.30. 発行) ******

    風船が家出て空へ飛んでゆく     完熟す我家をかこむ杉の花     しみじみと我はありけり春の暮     大空の窓を覗きて春来たる     白木蓮空の青さを吸つてゐる     竹藪や春の翁として我は     ゆつたりと春の雲ゆくベンチかな     春の野の光りの波を泳ぎけり       柿田川 二句           こびと     舞ひ遊ぶ砂の小人ら春湧水     春の水川の中にも湧き出でて     静かなる時間の帯を桜散る     朝寝には妻にかなはぬ今日日かな       遠目には     菜の花か茎立なのかわからない     春の丘ころがりおつる子供らよ     梅散るや目白の影の見え隠れ     あけび蔓引つ張る春の裾を引く     しら露へ紅をさしたる桜かな     桜散る桜まみれの鉄路かな     風に散る夜桜闇へ銀河へと     晩年やいま美しく桜散る     桃源か桃咲き犬鳴く里に入る     東京は物色あふれ春の暮     青空へ春の鯨がジヤンプする       上野公園     夜桜や汽車出発の時きたる     たゆたへる春の山河となりにけり     春の園兎の巨像動かざる     運命は睥睨しをり春の空     頭突きする春の子ヤギよまた頭突く     牛蛙かへるの声で鳴きにけり     とき     鴇色の春の夕べとなりにけり     野良猫の春のまどろみ許しおく              きた     春の野の風花活けに来りけり     くれなゐ     紅の心の闇よ春の暮     滝壺の空切り刻む燕かな           こむら     春耕やその夜腓の返りけり     春の暮大きな月を拝しけり     春の日の空気のつつむわが家かな     春昼や檻のゴリラの大いびき     空海のことば氷解春の雷         此のやうな末世を桜だらけかな(一茶)     満開の花にただよふ我らかな     うぐひすの初音幼き森を行く     いくさの場ととのひにけり牛蛙     春月や想ひ光速超えゆけり        ☆     寒晴や富士北岳と響きあふ          かはせみ     翡翠の色のはじけて水の音      ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  「これでいいのだ。」   ぼくがよくふざけて使う言葉。  「これでいいのだ。」  バカボンのパパの口癖、 赤塚不二夫自伝的エッセイの題でもある。  二三カ月前知ったのだが、赤塚不二夫の元奥さんは、赤塚のはちゃめちゃ生活に、ときどき 「これでいいのか。」と言っていたとのこと。これはおもしろい。  この元夫婦のそれぞれの発言には色んな意味で豊かなものがある。  また「どうにもならない」ことがあるのが現実世界であり、それなりに有効である。  絶望するのもいいが、絶望しきってしまったらそれでおしまいだ。そういう場合はしかたない、とり あえず「これでいいのだ」で行こう。  自らに課しているこの個人誌の締切日には、「これでいいのか」といった推敲にかかわる忸怩たる思 いを振り払い「これでいいのだ」と言い切ることになる。                             目次へ  **** 三月号 (2013年) ***** (2013.2.28. 発行) ******

    春や春自然の手品師花たちは        きりぎし     春風や切岸に座し見る天下     脳髄に赤き火が這ふ野焼かな       箱庭的     春の池龍神として蛇泳ぐ     春一番心の中の幾山河     立春の光流るる裏の川     立春や弓をはなれて矢は的へ     春眠とおもひつつゐる布団かな     玄室に春の闇ある古墳かな     星座さす人差し指に春の風     大木の揺るる愉悦よ春一番       天守閣なし     春城址抜け来て上天振り返る     春の鬱踏切の音軽やかに     陽炎やここらに掘らん落し穴     春の水富士山麓にみなぎれり        くぐつ     春の宵傀儡の遊ぶ古屋敷     日当たりを選びて歩む余寒かな       般若心経     何も無し一切皆空春爛漫     それぞれの生き様遥か春の空     古傷のまた懐かしき春来たる     窪地には藁屋を蔵し春の山     ゆつくりと壊れる心春の闇       朝霧高原 ハンググライダー     飛ぶ人の色のあふれて春の空     信長は面白怖し椿落つ       静岡市 洞慶院     梅に来て梅を見ている無聊かな        うづら     春山道鶉一行お渡りぞ     水草の泳ぎ速しや春の水         ☆     人生は残り少なし福笑ひ            あすなろう     寒夕焼裏側暗き翌檜     寒林や真赤な大き陽がのぼる     真つ赤なる嘘吐く人へ若葉風     とぼとぼとしつこく歩む秋の暮     影濃ゆし月光の庭輝けり     愛憎や怒濤のごとく夏の雲     逢坂や蝉の鳴く音の地底より     裏町の迷路消えたりビルの秋     幻想が枯木の枝にゆれている     脳の闇迷路の奥の流れ星     サーフインは知らず寒波を乗り切らん     山肌の傷の処女雪輝けり     水脈ひいて子鴨消えゆく雪の朝     白きもの白きすそひき雪に消ゆ       老人病院     ひつぎ     棺出づ雪の富士見ゆ裏出口      ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  子供の頃よく聞いていた。「一月はいぬ、二月は逃げる、三月は去る」今もやっぱり二月は逃げる。 とりあえず今、あと二日あればと思わないでもない。  古稀が近い、九月である。やがてくる古稀、あっというまに去ってしまっているであろう。  日頃思っていること。    肩に力をいれず、詩である以上多少のシュールを。    心を静め、湧きあがってくる言葉を、横切る言葉を、つかみとろう。    短い詩形でしか表現できないものを。しかも、生き生きと生きているものを。    俳句は片言隻語、言い切る力が力を生む。    結果自然成。勝にこだわらない自然流を。  「佐々木敏光句集『富士・まぼろしの鷹』」を出してから半年をこえた。「あとがき」の最終部分を 再録し、思いを新たにしたい。  「唐突だが、この句集の句を選定し終えようとしている時、声が響いてきた。「言霊、その力を」。 はたしてこの句集がほんのわずかでも「その」恩恵を受けているかどうかは自問しても詮無いことであ る。  唐突の続きだが「天地有情」「山川草木悉皆成仏」「遊びをせんとや生まれけむ」「存在はコトバで ある」などといった響きも重なって聞こえてくることになった。しかし俳句は理論・理屈ではない。何 よりも「見つめ、感じ、気づく」ことである。そして詩である以上、破格を含め「調べ・リズムを大切 に」することである。これらは永遠のテーマでもある。」                             目次へ  **** 二月号 (2013年) ***** (2013.1.31. 発行) ******

    新世界ここにひらけよ初景色     初春の輝く海へ富士下る     死は未踏初日豊かにのぼりけり     カツプ酒初日の海に注ぎけり     初電車富士の方からやってくる           我あるは父母のお陰よ姫始       亡き愛犬と同犬種     初売や夏より売れずこの子犬     人日やゴミ処理場の濃き煙       七十歳へ     胸熱く冬てふ生に入りにけり       富士宮市 田貫湖     「真鴨真鴨真鴨ばかり」と叫ぶ子よ     冬の夜ややさしい妻の夢を見る     正義てふ功名心や薬食     五七五につかまれてをり去年今年     匂なき石鹸香る除夜の風呂     人日や山道行けば鳥の影     つぐみ     鶫チヨコチヨコと冬田を渡りけり     晴れ晴れと第九歌へる寒九かな     えうへん     耀変の天や寒月星と富士     冬の川冬の音たて流れをり     神経図空を縁どる枯木道     寝ころんで天下を思ふ冬の底       雪晴     雪景色富士は見おろしゐたるかな     雪の朝知らない人がまた転ぶ     落葉舞ふ道の果なる別れかな     夢の世や雪の炎をあげて富士       山麓      風痛し富士山頂は雪煙                 いだ     裸木の大きな腕よ富士抱く     枯芝をかける子犬と落葉かな     冬の庭春待つ我をのせている     音も無く楽湧きいづる冬泉     枯芝に長き影曳き立つ女     寒林や第九のリズムもて歩む     寒月光夜の女王然と富士     寒満月真白き翼ひろげ富士                かまいたち     人間といふやつかいなもの鎌鼬     立札に侵入禁止大枯野     野仏と富士山立てる冬田かな               しゅうれん     剣ケ峰そへ雪肌の収斂す     冬の田をキジの家族の散歩かな     川の音桜冬芽に響きけり        しづ こだま     雪晴や垂りの谺楽をなす       ☆     春風や風となりたきわが体     うそ     鷽たちよ桜芽食うはほどほどに         晩年は晩秋か     晩秋や青空仰ぐ雲が行く     月光が我家の芝に遊びゐる     富士ひとつ月もひとつの良夜かな      ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  「俳句界」2013年1月号、金子兜太の「五七調最短定型の力を知れ」は、毀誉褒貶の俳句生活を送っ てきた金子の発言の基調には常にありながら、ある意味では一つの権威になってしまた彼の最終のレジュ メの「一言」のようにも思える。最後といっても「五七調最短定型こそ屈強の形式で、俳諧と称せられ るすべて、約束としての季題(季語)も、この定型あってのもの」とおおいに元気なものである。  「五七調最短定型の力を知れ」、つまり「俳句の力を知れ」、「俳句の力を信じろ」とぼくもあらた めて自分に向って言いたい。   最近よく思うことは、「守破離」である。伝統的武道の言葉である。  「守」は、師についてその流儀を習い、その流儀を守って励むこと、  「破」は、師の流儀を極めた後に自らの特性に合うように修行し、自らの境地を見つけることをいう。  「離」は、自己の研究の段階を通過し、何物にもとらわれない、独自の境地を拓くことをいう。  結社は「守」の世界からはじまる。少数の例外をのぞき、結社に甘んじてそこから出られないことに なる。(俳句はお稽古の世界の面もあり、しかたがないとも言える。また、日常の中に自分で感じたこ とを自分なりに表現するのは楽しいことである。)一方、そこから抜け出ないようにはからう主宰者も いる。みずから好んでその「守」という安全圏に閉じこもろうとする会員も多い。また、結社を離れた からといって、「破」「離」の世界に入れる保証はどこにもない。悩ましいところである。ぼくは結社 を出たが、悩ましいことだと手をこまねいているわけにはいかない。自分なりに「破」「離」を生きる よりほかない。結果は天にまかすのみ。うまくいかなくて当たり前の覚悟である。  もう一度、加藤郁乎の句を引用しておく。    虚名より無名ゆたかに梅の花    時代より一歩先んじ蚊帳の外    俳諧は愚図々々言はず秋の暮  そして    ゆくゆくはわが名も消えて春の暮   藤田湘子                             目次へ  **** 一月号 (2013年) ***** (2012.12.31. 発行) ******

    冬つとめて神の言葉がテレビより     冬銀河宙に溶け込むわが体     鞠のごと鳩歩みゐる今朝の冬     裏町の芒枯れたる散歩かな     エビセンを食べつつ渡りきる枯野     煤けたるトンネル抜けて大枯野     寒清水心の底の底へ沁む     寒林や園児らの声弾み来る       富士宮市 浅間大社        うれ  へいげい     木の梢に鵜の睥睨す大晦日     ぐんぐんとヂヂイになるぞ年の餅     鷹おそふ烏の群れや富士眞白     富士颪流されまいと鷹本気     冬の沼おぼろなるものたちのぼる     近づけば鴨は静かに岸離る     里に冴ゆ戦死者の墓碑富士無言       富士宮市 猪之頭      枯園の背後山葵のみどりかな     枯枝や新芽朝日に輝ける     冬の夜や闇は傷開けないてゐる     木枯や朝日を浴びて森の家        ☆     天高し綱わたる人落ちる人       菊花展     受賞せる菊の背後の富士の山           ☆     短詩形本来直球桜散る       妻、富士の雪形に亡き愛犬プリを見つける     雪形にプリの微笑み花の雲        ☆      流れゆく時代時流よ風車     雲海の下はわが里富士登る       轟々たる滝の上        まなこ     滝壷へ眼とともにわれ落下       富士宮市 陣馬の滝     滝の辺の湧水くみぬその真清水を        ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  俳論を声高にいうのは好きではない。  好きな俳論はいくつかあるが、その一つに飯島晴子の「わたしの俳句作法」がある。  「こうして三十年間の句業の跡である作品を調べてみると、作法を決めたくないのが私の作法である という観を呈している。しかしどの句も、その時の私自身に対してせい一杯忠実につくってきたつもり である。そのうちに、俳句は事前に予定すると成功し難いという厄介なこともわかってきた。  作法は選ばず、結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にのせて、言葉を詩の 言葉としていかに機能よくはたらかせるかという興味である。  俳句の場で、言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。だが作品をなすにはまず何ら かの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなければならないのは当然である。」 (『飯島晴子読本』富士見書房)  そうはいっても「基礎的な勉強」は必要である。「多作多捨」という言葉があるが、「俳句という特 殊な詩形」にはそういった作業がどうしても必要であり、波多野爽波のいう「多読多憶」(記憶の憶) (『再読 波多野爽波』(邑書林)参考)という言葉も大切にしたいと思う。それが自分の作った句へ の判断の目を養う。  飯田龍太は「選」についていう。  「没になった作品でも一年ぐらいは保存しておいてほしい。  一年たって自分の落選した作品をもう一度見直したとき、一年前に作ったときの自然の風物、ないし は自分の身辺の考えが、まざまざと甦ってくる作品は、その人にとっては大事であり、同時にその人の 作品だと思う。  俳句というものは、本来自分が自分に教えるものだ。あるいは自分が自分に教えられるものだ。教え る自分をつくるには歳月が必要。また俳句以外の要素も必要です。栄養を持った別の自分の眼、あるい は心というもの−−これこそは自分を高める最大のものではないかと思う。  《 講談社学術文庫 『俳句入門三十三講』 127〜129ページ 》 」                             目次へ  **** 十二月号 (2012年) **** (2012.11.30. 発行) ******

    晩年や坂の上なる吊し柿     毒殺や富士五合目のトリカブト     もみぢ しゆ      紅葉の朱燃ゆるまで見る堕落かな       おも        池の面炎燃え立つ紅葉かな     夢の世にかく美しき紅葉かな       甲府(「没後五十年 飯田蛇笏展」)へ      雪の剣八つかざして八ケ岳       林の中の家         もみぢもみぢ     青空と紅葉黄葉の目覚めかな     七五三神の池なる離れ鴨     白壁に己が影行く冬日かな     冬の真夜目覚め余生を幻視する         ☆     桃の花ヂヂイ稼業も佳境なり     春風の息吹の中に生きかへる         ☆     紅葉谷風美しく抜けてゆく     紅葉谷亡き母抜けてゆきにけり         ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆   田中裕明の発言を思い出す。『田中裕明全集』の栞にある宇多喜代子さんのメモにある。  「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」  「詩はむりなくわかることが大切だと思います」  「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そしてセオリーを忘れる ことが大切です」  セオリーとは五七五であり、季語であり、切字であり、俳句のリズムである。 そして作る時にはセオリーを意識しすぎない、セオリーに引き摺られない、自由に詩を作るために。  自由といったが、草柳大蔵訳『セネカ わが死生観』(「賢者の不動心について」)を使わさせても らう。  「本当の自由とは、中傷など気にもとめず、わが心を喜びの湧き出る唯一の源泉とし、さまざまなこ とに思い煩わされない精神を持つことである。」  なお、「わが心を喜びの湧き出る唯一の源泉とし」は、「喜び」だけでなくもっと広く「わが心から 湧き出るもの」を表現するよう心がけるべきである。もちろん、湧き出るといっても、それはしばしば 「もの」に触れ、「こと」にふれ「湧き出る」ものであり、かならずしも抽象的なものだけではない。                             目次へ  **** 十一月号 (2012年) **** (2012.10.31. 発行) ******

    月影や幼いぼくがついてくる     月光の軽き重さを肩に受け     満月の森の静けさ死後のごと     目の前に蓑虫揺るる余生かな     月の出やぐんぐんのぼるわが心     虫の音の波に漂ふわが頭蓋     黒米の稲穂かがやく散歩かな     天高し愚者と賢者ら天仰ぐ     秋天へ沈黙一つ投げあげる     秋晴や遠富士碧く雲の上     草の花裏道いつか迷路にと         五合目     天高し富士裾野より射撃音     五合目やフジアザミの綿毛(わた)吹いてみる         順番は運(運は決まっているわけではない。結果的なものだ。)     銀漢や人順番に死んでゆく     白髪を銀河の風になびかせる         ☆     歳晩や鼻歌いつか第九へと     去年今年このジレンマを生き続く      ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  俳句個人誌『富士山麓』の「創刊の辞」ともいえる文の中で、「現在結社や団体に属していないこと もあり、芭蕉の最晩年の句の「この道やゆく人なしに秋の暮」の思いがせまってくるが、とにかく「こ の道」をゆくしかない」と書いたが、俳句を作る作業は一人としても、俳句そのものが文化の一端をに なっている以上、伝統を含め全くの孤立ということはありえない。俳書がある。さまざまな句集、俳句 論、商業俳句雑誌、ウエブサイト等々読みながら、対話する。過去の俳人、現代の俳人の句や俳論と心 の中で対話する。毎日出会う自然、物、事たちと対話する。  おまけに街の俳句教室を覗くようにテレビの俳句番組も見ている。  ときどき女房に句をみせる。「今までのと同じパターンじゃない」など、厳しい NO の返事をもらっ てしまう。  自分なりの俳句を作る。とにかく評価を離れて、自分なりの句をつくる。俳壇的云々ではなく、俳句 の豊かな世界につながりながら、あまり気張ることもなく淡々と自分なりの句を作る。ただそれだけだ。                             目次へ  **** 十月号 (2012年) ***** (2012.9.30. 発行) ******

    三日月の雲切り裂きて進むかな     満月や庭恍惚と発光す          おほかみの絶えし山脈月に吠ゆ     天高し不運それぞれさまざまに       ごめんねと詫びてつぶすよ女郎蜘蛛     鳥ゐない鳥籠無敵秋の風        ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆    ほとんど読まれることのないはずのWeb上の無名な「個人誌」ということで、一応公開はしてい るが、リアルに橋關ホ(かんせき、かんは間の旧字)の次の句が思われる。  人知れずもの書きためる雪の底  異端的な立ち位置にいるつもりはないが、結社や団体に属さないぼくとしては、加藤郁乎の次の句は、 ぼくの今の立場を若干代弁してくれる。  虚名より無名ゆたかに梅の花  時代より一歩先んじ蚊帳の外  俳諧は愚図々々言はず秋の暮  なお、静岡新聞の天声人語にあたる「大自在」に『富士・まぼろしの鷹』を推薦する文がでている。

                            目次へ  **** 九月号 (2012年) ***** (2012.8.31. 発行) ******

    ひぐらしよ森の名残の耳鳴りよ        川施餓鬼(川供養) (富士宮市内野)      川施餓鬼闇(やみ)水(みづ)炎(ほのほ)溶け合うて     大いなる闇の爆発大花火        名月やシテとして富士舞ひ始む          手筒花火・揚げ手 (富士宮市原 文殊堂)     火の粉浴び満面笑みの男かな      信号の赤燃え上がる残暑かな      ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆   活字メディア、web メディアに掲載された佐々木敏光句集『富士・まぼろしの鷹』の句     立ち上がり尺取虫となりにけり         (2012.7.17. 読売新聞朝刊 長谷川櫂「四季」)     鶏舎なる首六百の暑さかな         (2012.7.23. 清水哲男「新・増殖する俳句歳時記」)     秋風や屋上にある潦(にはたづみ)         (2012.8.20. ウラハイ=裏「週刊俳句」 相子智恵「月曜日の一句」)

  **** 奥付 ***********

   佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓』(第一期)(月刊・web 版)  創刊  2012.8.31.  発行日 タイトル月の前月の月末  発行人 富士宮市内野 1838-3 、佐々木敏光  (富士山麓舎)  メール st09st0143(アットマーク)live.jp  *********************  ご感想、ご意見ありましたら、よろしくお願いいたします。  *********************                             目次へ