佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓(第二期)』十月号(隔月刊)


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 <第一期>終刊となりました。第二期として2018年二月に『富士山麓(第二期)』再出発しました。 なお、個人誌『富士山麓』(第一期)発表の句をまとめて、 続 佐々木敏光句集『富士山麓・晩年』(邑書林) を出版しました。タイトルは「晩年や前途洋洋大枯野」に由来します。   ☆第二期について☆ ○『富士山麓(第二期)』のテーマは「(続佐々木敏光句集以降の)「百八句」へ向けて」となります。 ○更新は原則的には隔月刊とします。                             ○とりあえず「「百八句」へ」と称して、冒頭に適宜句をあげていきますが、決定稿ではありません。      ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆    俳句個人誌『富士山麓』<第二期>十月号(隔月) ****「百八句」へ**************     天高し背筋正して富士の山        (2018年十月号)     富士の闇知りつくしたる清水汲む     我が庭を巡回中の鬼ヤンマ     青嵐木々は腕ふり歌ふかな        (2018年八月号)     ああ太宰水中深く泳ぐかな     緑陰や大地に座り読む老子        (2018年六月号)  ****《目次》****************     2018年  十月号(新刊)  八月号  六月号  四月号  二月号       ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ **** 十月号 (2018年) **** (2018.10.2.発行) ****** 天高し背筋正して富士の山 富士の闇知りつくしたる清水汲む 違反切符切られてゐたり鰯雲 万緑やわが肺臓の濃緑に 靴紐をむすぶ舗道や秋の草 犬かきをしてゐる亀や堀の秋 釣りあげし鱒の力や青嵐 金木犀大樹に風や立眩む 紅葉谷眼下巨大な黒揚羽 光輪やうろこ雲ゆく望の月 幻想の友を待ちゐる花野かな 秋の野へ秋の丘よりすべり台 声あはせ小鳥の来たり森の家 夏草や埋もれて宗匠俳句の碑 無と有とあひむつみゐる秋の暮 秋の夜の脳の闇ゆく夜汽車かな 夏帽子ころがる合戦跡地かな 滝の音川霧となり流れゆく 月のぼる山の端小さき声をあぐ 夏帽子脱がずそのまま考へる 我が庭を巡回中の鬼ヤンマ ぼうふらの水ぶちまけり炎天下 秋の朝小綬鶏一家の散歩かな 秋の夜や貨物列車の遠汽笛 秋の森穴あり飛びこみ考へる 震災忌後期高齢者にわれなれり 透明の闇輝ける熟柿かな 秋の夜や針のすすまぬ大時計 寝転んで足の指間の秋の富士 四方にゐる獣の見えぬ秋の山 棚雲のたなびく秋の富士の山 たなびける雲幾筋や秋の富士 富士の秋さまよふ後期高齢者 脳髄が秋の夜空となりにけり 平凡な日々天空の銀河かな まつ白い眠りの国の秋の暮 関東や空の奥処に鳴く雲雀 西日浴び古代ローマの詩集かな 妖怪の闇を隠して秋山河 銃音のきこゆる秋の別荘地 滝の音きこえてみえず時鳥 図書館の迷路出でけり鰯雲 富士見えず初冠雪と言ふテレビ 走るたびまいたる落葉またちれり 秘密あり秋青空のわが脳(なづき) 大風に乗りてトンボの迅き飛行 休校の孫の笑顔や台風裡 わが庭の落葉道化師肩へ舞ふ 落葉踏み林の鼓動感じをる 若芒きらりと刃光らせて 初秋や薄の刃われに向く 欠伸して人を恋ふなり夜の秋 秋天の空気をすべるトンビかな 迷宮の落葉の道をあの世まで そのあたりトンボ飛び交ふ空の辻 片隅や世界見てゐる笑い茸 幻想の友が手をふる枯野かな 息を吐き息吸ひ秋に入りにけり 白き帆が秋の海ゆく頬に風 秋の森和敬清寂空の青 初秋や六根清浄ひびく森 秋草の真中腰据え考へる 秋の雨しづかな水面穿ち消ゆ 秋愁の心運びて富士見あぐ 黒き幹支へる緑黄変す 虫取りの役は任すよ女郎蜘蛛 気がつけばわが足吸へる秋の蚊よ 尻の黄の輝く蜘蛛をころさずに 初秋や河口濁りて沖青し すでになし波寄す白浜あの秋の 台風の来る静けさを庭の木々    ☆ 死に体で浮かぶプールや雲の湧く 浜熱砂海賊船の錆錨 夏帽子ぬぎつつ笑みて詐欺師かな 夏草の茂りのなかに置く身体 滝の前百の蝶々湧き上がる 枯野ゆく男歌へる第九かな 単純な生はよきかな雪の富士 あやまちを繰り返しさう去年今年 賢者たる人を尋ねて枯野かな ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  夏は結構いそがしかった。この数日はパソコンがパンクして、発行日も遅れ、やや疲れぎみ。  後期高齢者になったこれからは、すくなくとも実作を中心としての生活にしぼって、ホームページは 個人誌以外の項目の更新は、控えておきたい。(唐突的に更新したくなる場合は除いて。)  最近芭蕉が色々思われる。昔から気になっていたぼくに訴えかける芭蕉の短文を二つだけ、ひいてみ る。引用は、復本一郎さんの『新・俳人名言集』(春秋社)、芭蕉の二つの名言全文と復本さんの解説 の文の一部を勝手に引用する。  俳諧は無分別なるに高みあり。    (芭蕉は「理屈」を嫌ったので,いきおい「無分別」を称揚することになるのであるが、実作者 にとって「無分別」とは、そう簡単なことではない。)  点者すべきよりは乞食(こつじき)をせよ。    (人の作品に批評を加える暇があったら、「乞食行脚」をして、鍛錬に励めよというのであ る。)  個人雑誌発行者の手前味噌的な引用になったかもしれないが、心して受け入れたい言葉である。     目次へ **** 八月号 (2018年) **** (2018.7.31.発行) ****** 万緑や一鳥雌を求め鳴く 緑陰や古武士のごとき一墓石 ピヨンピヨンとうさぎ跳びして烏の子 五月雨や湧玉池の澄みわたる 三光鳥ひと月鳴けど姿見ず 爽やかに青田の波や空の富士 緑陰の社や柏手孫のため ベランダに我待つ靴や夏の朝 森といふ大き緑の日傘かな 森の奥鈴のごとくに泉鳴る 青嵐木々は腕ふり歌ふかな 荒梅雨やさびしき歩道橋渡る 万緑はわが肺臓や深呼吸 白雲に黒き台形夏の富士 草原の輝きの空夏の富士 せせらぎや空に炎帝君臨す 鳰二羽の浮きて顔見て鳴きあへり かなかなの振動受けてわが脳(なづき) 愛鷹や背後口開け夏の富士 山百合の見下ろしてゐる関所かな 万緑や箱根の湖は力増し 異国語の飛び交ふ避暑地バスの中 片影や老いたる人ら犬散歩 夏の真夜玄関ベルがなつてゐる 苔として積もる時間や杉並木 万緑や真白きてふの白く舞ふ 熱血や炎天の地のさざめごと 青嵐森の命の鼓動かな からつぽの頭をさらす夏山河 しづかさや杭の先なる赤とんぼ 姿勢良く鵯の水飲む泉かな 陽炎の底から湧きし女かな クチナシの香に漂える我が家かな 億年の化石としてけふも炎天下 山羊二頭角突きあへる雲の峰 黒揚羽滝の空にて濃紫 水落ちる夏の光ををりこんで 片影をゆくまぼろしの人の影 ああ太宰水中深く泳ぐかな 真中の水の円へと滝落下 鴉群る巨大寺院の夏の庭 荒梅雨やノアの箱舟さまよへり 若き日のほのかな野望雉の声 瓦礫野やしづかに満てる草の花 湧水の砂の円舞よ永遠にあれ 白百合や影輝ける黒揚羽 夏草や百年たちし傘屋跡 炎帝は大きな薔薇の蕊見据ゑ 葛の葉の焼ける山道登りゆく 滝へ下り涼しさここにきはまれり 滝飛沫我らが体貫通す 白紫陽花赤く浮きたる夕べかな 画眉鳥の水浴まこと憎らしき わが足をからめとらんと山帰来 炎天の大地に点として渇く 頭蓋なる脳にびつしり黴の花 炎天や無言の牛と野を渡る 水に映ゆ紫陽花しづかに光初む わが庭を巡回中の鬼ヤンマ 下闇や熱き孤独をもてあます 夏落葉かぶりてゐたる無聊かな さすらひの途上の富士山登山かな 黒々と緑深まる夏の昼 俳句界バベルの塔か富士登山 万緑やその下闇の奥に死は 涼風やしづかに舞える白き紙 蝉しぐれ足下を水は軽やかに 草原の輝く空の夏の富士 雲間より神の光の夏野かな カーテンの背後万緑揺れてゐる 人くぐる茅の輪くぐりをわれもまた 新涼や老いの心に燃ゆるもの 水蜘蛛で銀河を渡る忍者かな 万緑やちいさな家にわれらすむ 寺町に檸檬買いたる昔かな 忘れ物手渡し夏は終りけり 夏草に埋もれてゐたり火消壺 夏草の荒野さまよふ蟻二匹 涼風へ魂と脳あづけをく 集中力失速鳴く蝉見つからず ほうたるの消えて現れ闇に消ゆ この我が熱中症にかかるとは 蜩の大波小波森を超え わたくしの影がつまづく月夜かな ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  あらためて俳句の基本を、そして自分なりの俳句を創造的にと考えてやっているつもりだが、なかな か焦点が定まらない。まだまだまだである。あれこれやっていく中で出会いを待つしかないのかもしれ ない。  さて遅ればせながら、『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)という本が読書界の 一部で話題になっていることを知った。さっそく図書館で借りた。  本書は「世界は存在しない」という衝撃的なことばで話題をよんだ。要するに「世界は数多くある」 というわけで、各人が各人の目で世界をみているだけで、「「世界」と呼べるひとつの「全体」はない」 ということらしい。いってしまえば、そう驚くことではない。そこから全体をどうみていくかが、問題 になるのだが、饒舌な文をたどっても、結局はよくわからない。  俳句についていうと、それぞれの俳句観はありうるが、これといった「ひとつの絶対な俳句世界」は 存在しないということになるのだろうか。勿論、五七五、季語、切字といった俳句について俳句の先生 が自信をもって語る基本はありうる。だが実際はこれらを超えた俳句の世界もありうるのだ。かつて現 代俳句協会から有季定型派の俳人が分離するかたちで俳人協会が設立された。その後虚子の「花鳥諷 詠」の理念継承のもとに日本伝統俳句協会も設立された。  ぼくも「鷹」で同人になったとき、俳人協会か現代俳句協会の会員へ推薦する連絡をうけた。「鷹」 はベテランでは現代俳句協会が多かったが、若手を中心に俳人協会への加入者がおおくなっていた。ど ちらかを選ぶべきか、党派の苦手なぼくは、結局会員への推薦は受けなかった。  もっとも、これといった「ひとつの絶対な俳句世界」は存在しないと言いきってそれで解決できるも のではない。自分なりの句をつくる困難に毎日直面している。日本の「極めて短い詩」と言っても、具 体的な解決策にはならないだろう。句作を通じ自分で考える他ない。    目次へ **** 六月号 (2018年) **** (2018.6.12.発行) ****** 春の水集ふや田園交響曲 逆さ富士頂上あたり蝌蚪元気 古墳なる小山や青葉若葉萌ゆ 旧縁の神童に会ふ花野かな 革命や桜のはなの思はれて 草莽や風に散りゆく桜花 雉鳴くや菜の花畑の上を富士 青空に大き富士ある土筆かな 菜の花の水平線や富士の峰 茶の若葉輝く空や富士の山 春の夜や浮寝をしつつ登る富士 舞ひあがり雪ふるごとく桜花 信仰の道信心の春の蝶 鶯の「ナイスツーミートユー」と鳴く 諦念や若木にからむ絞め殺し 廃村の洞大きく桜かな 雉の声四方に響く春田かな 百千鳥一鳥われを呼びをるか もつれあい滝の空へと蝶二頭 滝の上に若葉輝く空を富士 春月の光たよりに鍵穴を アルバイト葵祭を演ず興 藤棚や手荒な蜂を横目にて ビル街の奥の舗道の春の草 蠅叩き手元逃れし蠅ほめる 総身に桜浴びゐる妊婦かな スランプや小さき菫しやがみ見る ハルジオン茎折りのぞく春の景 薔薇の苗薔薇の写真がかけてある たつぷりと春日を浴びて庭はあり 草に寝て雲雀の昇天応援す 翡翠の水を突き刺す翠かな 滝落ちて途中の岩は上りゆく 万緑や円天井を蝶昇天 くさめして春大空の隅(すみ)揺する わが庭の花粉まみれの車かな 片影を影が行くなり弱法師か 新緑の輝くベランダ読書かな 大群のうごめきお玉杓子かな 柿若葉眩しや背後富士眩し そこにゐる透明人間初夏の風 春日浴びつくして亀は動き出す はるかなりあの初夏の風の色 新緑や忍者のごとく黒揚羽 花粉掃き座るベンチや空の富士 新緑や空の海ゆくくじら雲 ソーラーライト手元にもちて螢見に 花の苗植ゑる耳へと三光鳥 富士山の雪渓見つむ大暑かな 木下闇抜けて輝く富士の峰 荒梅雨の屋上駐車場満車 人生は浮沈の世界背で泳ぐ 新緑や付喪神住む藁農家 野茨や冨士見ゆ教会廃墟へと 万緑や売り物件の続く里 富士映す棚田の今は植田へと 水たうたう山田錦の植田へと 時鳥萱新調の旧庄屋 筒鳥の音(ね)が脳髄に響くのだ 新緑のかなたの海に目を休む 島のごと伊豆を浮かべて春の海 万緑や瞳のごとき一湖あり 大揺れの小揺れの薔薇や薔薇の苑 水浴を終えて山雀(やまがら)水をのむ 荒梅雨の雨の尖りて打つ水田 梅雨晴や水田の光の畔歩む    五月二十三日 キスの日と告げるラジオや若葉風 万緑や円天井を光の子 初夏の光に満てる街あゆむ 夏青空ぼくの大脳浮かびをる 体内へ雪降る初夏の目覚めかな 草露が飛びついてくる夏の朝 ベランダや四肢伸ばしをる夏の猫 富士襲う雲の龍なり口開けて 薔薇園や香りの中の笑顔かな 三婆(さんばば)の薔薇の香りに哄笑す 足踏みのかたまりすすむ運動会 地球に生(あ)れそこに死にゆく朝寝かな 横泳ぎしてゐる鱒に死は巣くふ 人を待つ車内冷房兜太読む 夏の街わが影右へ曲りけり 二百年桜や石斛咲きにけり 罌粟咲きて杉菜の原を可愛くす ベツドよりわが魂飛べり星空へ 現住所遠しと思ふ銀河かな 認知機能検査安堵や夏の雲 諸鳥に眠りの扉あけられて 下闇や木漏れ日あふるるあの方へ 雪渓の光を受けて薔薇の花 まつとうな道をはづれて新世界 富士見ゆる雨やわらかき薔薇の苑 万緑やいづくか秘密ねむつてる 一葉も動かぬ夏の朝の森 かき氷富士山頂にかけてみん 羽根はえて異界に飛び立つ余り苗 青鷺の喉(のんど)をおつる鱒なりき 夏の朝くらげのごとく空に月 軽鴨の子らチヨコマカと初夏の川   ねころんで 夏の朝ベッドと別のぼく森を 夏の森富士を越えゆくジエツト音 夏の朝一花美し一行詩 夢の世や張り子の虎の頬つつく 真実は霧の彼方のその向かう 谷深く真澄の泉湧きにけり 郭公の耳底に響く朝の床 加古里子求め図書館梅雨晴間 春山路まよひて異郷それなりの 初夏の日の波紋の美しき湖面かな 更衣表皮の変化すすこしづつ 夏の庭一草一木輝けり 地に臥してこころ緑にとけてゆく 梅雨晴や庭の草刈る残す花 森の朝百千鳥の歌ふりかかる 夏祭ゼニガメ買ひて飼ふつもり 緑陰や大地に座り読む老子 炎天下むくどり闘ふ雌のため 深酒の夜はしらじらと大銀河 歯の浮ける君の賛辞や桐一葉 ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  ここのところ句作にややマンネリの感じもしないではないが、耐えることだ。一方、変化への兆しが、 ただよいはじめている感じもあるが、まだまだまだだ。漠然としている。  大学にはいったころ、三冊の本がぼくに強烈な印象を与えた。  パッペンハイム「近代人の疎外」(岩波新書)、コリン・ウィルソン「アウトサイダー」、そして、 福永光司「荘子」。  「近代人の疎外」は政治などの堕落を思うたび浮かびあがってはくるが、「アウトサイダー」は はるか昔の思い出のようになっている。今だに引きずっているのは、荘子だ。  その後今でも、その世界につながる書物、たとえば禅、老荘の書をなどは読んでいる。フランス文学 では、モンテーニュに通底するところがある。  荘子の書の中で、特に印象的な場面は「混沌」の章だった。初心に帰るためにも、現代語訳を引用し て、この後書きを終えよう。  「南海の神を◇(シュク 漢字)といい、北海の神を忽(コツ)という。中央の神を渾沌(コントン)とい う。◇と忽があるとき、渾沌の治める土地で逢うことになった。渾沌は彼らをとても良くもてなした。 ◇と忽は渾沌の徳にお礼をしようと相談して、語り合った。「人間には皆七つの穴がある。それにより 感覚し、食べ、息をするのだ。しかしこの者にだけはそれがない。試しに渾沌の体に穴を開けてあげよ う」と。一日に一つの穴を開け、七日目に渾沌は死んでしまった。」     【◇(シュク)は目下漢字表示が困難。】    目次へ **** 四月号 (2018年) **** (2018.4.5. 発行) ****** 桜山老樹の花の蕊の燦 白き桜わが家をめぐり浮く夕べ 窓枠の内は日本画桜の夜   地球はいつか絶滅すると 絶滅は桜吹雪をあびてから 胸の上春の星ある地球かな 順番を待ちて餌をとる春の鳥 キリストはいつものお顔カーニバル   四十雀は普段遠慮がちだ 山雀に挑む四十雀繁殖期 さへづりや父母のなければわれもなし 春天や浮かびて富士の白き雪 山肌は空の色なり春の富士 梅の香や天の高みを富士の山 林尽き切岸よりの春の景 若葉着け大樹の洞の深き闇 風狂や春の落葉は踊り舞ふ 邯鄲の夢のさめたる桜かな ぼんぼんと昔時計の春の夜 四方より来餌(えさ)競い合ふ春の鳥 春の朝湖の沖ゆく一人鴨 美しき虚空の遊ぶ春の野辺 春の蝶枯山水の山河こゆ 水草のビロード揺らす春の水 水音の高まるあぜ道春をゆく 遠景やときどき落ちる夏みかん 春の朝森より満ちて来たるもの 亀一族つどいて春日あびてゐる 決意してぶらぶら歩く春の野辺 照葉樹かがやく春の朝日浴び 森の空春の小鳥が降つてくる 春風や笹藪神経ふるはせて 小綬鶏の家族の散歩春そぞろ 新築の縄文住宅春の風 カモシカはテラスの下や春の雨 桜散る谷の底ゆく修羅の列 黒土やしづかに眠る落椿 わが影がくる春昼の森の道 大空に春の富士ある脂肪かな 芽吹きたる春の枝枝鳥舞へり 老年や心の皺に散る桜 眼据ゑ勘助坂の椿かな 笹たちのミニマル楽のひびく春 春の森つぶてのごとく小鳥たち 正面に春の朝日やわが林 腰だまし耕す春の黒き土 光満つ春の畑に鍬おろす 春風やビル街なればビル風に 巨大なる器を俯せて春の富士 春の闇われらそれぞれ島宇宙 春を待つ剪定薔薇の棘たちも 半島と島を浮かべて春の海 白糸の端の風流小滝かな 落花する春の水なりわが眼下 命山命の土筆伸びゐたり 沖よりのひかりを浴びてシヤボン玉 春憂ひベランダの椅子そのために わが涅槃春のベツドの上にかな 春の風森に生まれて吹き来る 曇天や真紅の椿重く散る 菜の花の中に富士立つ安堵かな わが庭を一日照らして春夕日 紅梅と白梅ともる靄の中 春雨や欺瞞の議事堂傲然と 春雨や官邸にらむ一警官 めまとひや国会議事堂見えず居る   皇居 堀 水面を拝するごとき桜かな   池袋 初夏のサンゴ揺れゐる妖艶に   代々木上原 春雨や天に消へゆくミナレツト ビル風や風筋沿ひに散る桜 春の土手ゼンマイ平凡繁栄す 春の野や天より雅歌の降り来る 世代とは受苦の歴史や春の風 断崖を桜おちゆく気楽さよ 春の日や総じて笑みの羅漢たち 春眠や長き眠りのリハーサル 清明や歩幅広げて歩みゆく 春風やさざ波たてて逆さ富士 春の空富士をうかべて「いい感じ」   今度は檜だ 気楽にも花粉飛びこむわが眼 近づけば小綬鶏飛び立つ桜かな 定住や流浪の時空とぶ桜 正面に真白き富士や春の風 春の鷹富士の高みを荘厳す 豊かなる春のひかりを浴びるのみ さへづりの耳底にひびく朝寝かな 久方の春の日ゆつたりあびるかな 春天へ心の道の伸びゆける 芽吹く木々明るき日浴び輝けり 無人駅春日のなかにおりたちぬ 生命の大地を踏んで春の人 春山路春の空気が転がり来 躍動や春の小川のその光   養鱒場 幾千の鱒稚魚ピチピチ春の池 夕闇やわが家を囲む桜花 答え無き世界生きるや星月夜 霊魂ののぼりて月となりにけり ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  隔月刊ということで、二か月ぶりの刊行です。体調をふくめいろいろな意味で調子はまだまだとしか 言いようがないですが、少しずつ精進を積み重ねるより他はない。  劣化の時代である。AIをはじめ新技術はどんどん進んでいるようにみえるが、人間自体の劣化は、政 治などの劣化を含め歯止めがきかない。新技術にしてもはたして、人間の真の幸福に役立つのかと思わ ざるを得ない。  自分を棚上げして言うと、俳句の世界も、劣化の時代なのだろうか。  いずれにしても、無数の有名無名の俳人があらわれ、無限に近い句がつくられ、やがて大きな闇にの みこまれていく。  『俳諧問答』に芭蕉が凡兆に言ったという次の言葉あり。「一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作 者なり。十句に及ばん人は名人なり。」  そういった余計なことにはとらわれず、とにかく「この今」を生きてそれぞれ自分なりに作句してい くことだ。  フランスのモンテーニュは隠居中のつれづれ(というには、あまりにも宗教的戦乱に満ちた時代であっ たが)、読書の忘備録的なところから書きはじめ、やがて大部になる「エセー」を出版したが、その中 に次の言葉を残している。  「たとえだれひとり私を読んでくれるものがいなくても、暇な時間をたっぷり使って、これほど有益 で、これほど愉しい思索を続けたことが時間を無駄にしたことになるのだろうか。」                        (モンテーニュ『エセー』IIー18)    目次へ **** 二月号 (2018年) **** (2018.2.8. 発行) ******   白糸の滝 千本の糸に彩なす虹の弓 敗戦日そのとき一歳半のわれ   カルメン幻想 血の薔薇が富士蒼天を荘厳す 捨て猫についてゆくのは烏の子 森の奥阿頼耶識燃ゆ秋の暮 五大なる闇より浮かぶ望の月 栗剥きて指も剥いたる仔細かな 枝豆は宇宙空間旅行中 樹海抜け樹海見下ろす霞かな 薄野のけもの道なりわれ進む 後悔の無い生皆無星月夜 吐いて吸ひ呼吸しづかに今朝の秋 それぞれはそれぞれ正し秋の暮 身の内を銀河通過す生きてゐる ほどほどに生きていつしか秋の暮 日を食らひ熟れゆく干し柿童子かな 迷い子のまま歳取れり秋の暮 その答すでに納得除夜の鐘 悟りとは悟れぬ自覚秋の暮 神死せりニーチエも死せり大銀河 その角をまがれば光満つ枯野 てふてふを追ふて渡るや雪の原 夢の世を夢へと戻る蒲団かな 寒林に透けて花火や遠記憶 冬晴や三日の留守の雨戸閉づ 風に雪飛ばされ黒き富士の嶺 幽明や大地より湧く冬の靄 立冬の輝く海や峠こゆ 去年今年罪作りな人罪作る 長き夜や宇宙へわが脳たたせんと シヤツター街曲がり真冬の冥途道 ラプソデイーインブルーの街落葉舞ふ 冬日浴ぶ斜面広大巨大墓地 騎士団長雪の峠に凍結す わが体わが宇宙なり冬銀河 予想より多き家ある枯木道 犬はなす枯野の果てのそのはてへ 寒月の蕊降るごとき光かな 人日や機械のごとくたちあがる 初日さす森は神殿木漏れ日の 冬薔薇真青な海に白い舟 栗鼠狙う冬の猫なり森の黙 冬の日や定住の森漂泊す 枯れ枝を飛び立つ小鳥万華鏡 滝落下うたるる岩は浮揚する 長き夜の飛行機音は耳に消ゆ 初日あび総身かがやく枯木かな 響きたる雪解の水や鱒育つ わが胸のか黒き湖を泳ぐ白鳥 好き好きの蓼の花なり滅びるか どんど火に奇あり怪あり富士の空 落葉踏み軽きリズムのなかをゆく アフリカの大陸形の春の雲 天と人敬愛すべし福寿草              この腰が痛く候ふ四方拝 冬の庭亡き人すわる白き椅子 走馬燈俳人つぎつぎ回るかな 激浪や湾の向こうの雪の富士 真直ぐな道の終りの春旋風 目の前の冬芽の尖り目に迫る   近所の田貫湖 懐に六つの湖や雪の富士 脱走や暗黒宇宙月あかり 銀河より大き流れに流されて 永遠の眠り待ちゐる星月夜 人生やみんな齢とる秋の暮 息を吐きマインドフルネス除夜の鐘 コーヒー店師走の闇の中を浮く 雲裂けてアルプス思ゆ雪の富士 厳寒の坂の上にて光る海 雪の日や諸鳥来訪あたたかし ロボツトや地球ににたる星の冬 山茶花か椿か眼前首の落つ 凍て滝へすべらぬやうに歩をすすむ つらら落つ頭頂撫でれば髑髏かな 枯野にて炎あがるをまつてゐる 枯蓮の水にうつれる富士の空 この森を眠りにいざなふ牡丹雪 雪の夜のマツチに踊る世界かな 白き雪白き山河に降り積もる 枝の雪つぎつぎ雪崩れ森こだま 雪の深さ何度もはかる無聊かな やはらかき雪の肌なり目で撫でる 寒気来る雪のはなびらちらしつつ 拍手なく終る人生冬花火 頼るにはあやうき記憶雪の道 その芽こそチューリツプなり予言する 山道の道の初めは狂い花 機首あげて富士の初日へ突入す 木に座り天使見てゐる雪の原 雪として白き地球におりたちぬ なんとなくすすむ手酌や春近し 森の奥春の女神の歌ふこゑ 雪はつか残れる庭の春日かな 寒月や枯木の影を踏めば鳴る 信じないものら行きかう冬の街   青年時代、京都 おけら火の懐に燃ゆ老年期 鮟鱇の胃の腑なかなかかみきれず        こころざし 熱燗や適度に熱き志 雪つもり太古の山河となりにけり 太古より言の葉雪とふりつもる 母の涙雪降るときは思ひ出す ふる雪や暗き宇宙へ雪がふる 細雪降るしづけさの中にゐる 絶滅は寒月光を浴びてから 大枯野地下ゆく水のこだまかな 冗舌の雪がしづかに降つてゐる 死によりて閉ざす眼や初山河 初富士の空荘厳の鷹一羽 新年と思はぬ小鳥へ初餌かな 初夢のブラツクホールに入るとこ お正月オストアンデルほお張れり 寒の水ヒネルトジヤーのいさぎよさ ジヨーカーの含み笑いの三日かな 枯芝に杭を打ちゐて春用意 骨壺のことり音立つ春隣り 豆撒くをついつい忘れ老夫婦 青空にみたされている春の脳 この森の奥は王国小鳥くる 本当かどうかは不明春を待つ モグラ穴連なる春の丘のぼる 春日浴び古いピアノが歌ひ出す 春空へわれの流離のはじまるか 飛びさうな春の鶏なり屋根へ飛ぶ   さへずり 鳴き声をきけば春なり四十雀 上流へ横一列の春の鴨  ☆☆☆☆☆ 後記 ☆☆☆☆☆  去年の八月号の休刊、いま<第二期>の刊行です。  今回は季が入り交じっていますが、自由な時間、自由につくったせいと思ってください。  総復習として、今まで学んだ俳人の句をよみなおしたりしました。芭蕉のどうしようもない大きさを あらためて感じた時期でもありました。  今回あらためて、すでに<第一期>でも引用していますが、気をひきしめるため、次の現代の二俳人 からあらためて引用しておきます。それだけがすべてではありませんが、ぼくの基本姿勢の一部として います。   飯島晴子  「こうして三十年間の句業の跡である作品を調べてみると、作法を決めたくないのが私の作法で   あるという観を呈している。しかしどの句も、その時の私自身に対してせい一杯忠実につくってき   たつもりである。そのうちに、俳句は事前に予定すると成功し難いという厄介なこともわかってき   た。    作法は選ばず、結局私がこだわるのは言葉だけである。俳句という特殊な詩形にのせて、言葉を   詩の言葉としていかに機能よくはたらかせるかという興味である。    俳句の場で、言葉、言葉というと、こころを軽視しているととられる。だが作品をなすにはまず   何らかの意味でのこころが在り、最後に又何らかのこころが出ていなければならないのは当然であ   る。」          (『飯島晴子読本』富士見書房)     田中裕明  「俳句は詩です。詩は言葉でつくります」  「詩はむりなくわかることが大切だと思います」  「俳句という詩は、ほんのささやかな営みですが、セオリーを身につけて、そしてセオリーを忘れる   ことが大切です」(『田中裕明全集』の栞にある宇多喜代子さんのメモから)    目次へ   **** 奥付 ***********

   佐々木敏光・俳句個人誌『富士山麓(第二期)』(隔月刊)  創刊  2012.8.31.  第二期再開 2018.2.  発行所 富士山麓舎 (富士宮市内野 1838-3 佐々木方)  メール st09st0143(アットマーク)live.jp  *********************  ご感想、ご意見ありましたら、上記メールによろしくお願いいたします。  *********************                             目次へ