富士山麓住い(エセ−)
                    佐々木敏光   富士山麓に住むことになろうとは、若い時には想像さえしなかった。本州の西端山口県宇部市で生ま れ育った。中高時代などにはよく宇部市最高峰の霜降山にのぼった。最高峰といっても二百五十米の高 さであった。  二十歳をこえて初めて富士山を見た。大学は京都で、フランス文学を専攻した。就職試験で初めて東 京にいった。新幹線での行きも帰りも富士は見えなかった。出版社での一年目の慰安旅行は、静岡、伊 豆であった。静岡駅までは富士は見えなかった。久能のイチゴ狩りのあと、バスで伊豆長岡に向かった。  富士山を見た。両翼を広げ、ゆったりと座っていた。白い雪が輝いていた。スローモーションのよう にバスは走り、長い裾をこえるのに随分時間がかったように思えた。  出版の仕事が嫌いだったわけではない。変化を求め会社をやめ、京都に戻り大学院に入った。流れの 中で、静岡大学に赴任することになった。他大学の話もあったが、静岡で正解だったと思っている。  静岡市小鹿の宿舎から大学への行き帰りは自転車を使った。田圃の中で富士によく出会った。夏の遠 富士はボタ山の様に見えた。が、その後の富士登山や山麓への定住により夏富士の豊かさを実感するよ うになった。  三十代半ばフランスに滞在したことが俳句と富士住いに関係している。日本文化の重要性を改めて感 じ、日本に帰って始めたのは短歌であった。熊野や奈良等おとずれ短歌を作った。短歌は大げさな表現 になりがちで嫌気がさしてきた。単純簡潔で力強い俳句を選ぶことにした。藤田湘子の「鷹」に所属し やがて同人になった。一方、女房の方はフランスの民宿の庭での食事やお茶の楽しさに魅了され、家を たてるならそれ相応の広さの庭のあることを考える様になっていた。  土地探しの中で広さと価格と環境を考え、富士宮市の朝霧高原の一角の森の中を決めた。定年後は定 住することになった。富士との生活の開始である。事情があり「鷹」はやめたが、今では富士を中心に 俳句を作っている。様々な富士に出会い、多様性のある句を作るように心がけている。最近句集『富士・ まぼろしの鷹』(邑書林)を出版した。  若い時には想像しなかった事である。小説でなく俳句を作っている。東京や関西でなく富士山麓住い である。今ではそれで良しと思う。富士の様々な表情に更に触れたいと思っているこの頃である。                             (元「鷹」同人、静岡大学名誉教授)            −−−−−俳誌『宇宙 第七十七号』掲載(2012年10月)−−−−−




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