雑詩

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   一 忠告のバラード  


良識からはずれ、性格もゆがみ、
自意識もなく、分別もなく、
愚の骨頂にいる、堕落した男たちよ、
無知と忘恩に満ちて、
己の生に刃向かって振る舞う、血迷った阿呆たち、
卑劣な心ゆえ、おぞましい死に身をゆだねることになる君たちは、
ああ!なぜ、処刑という恥辱へ導く
恐るべき反抗的な振る舞いを後悔しようとしないのか?
見よ、いかに多くの若者が死んでいったか、
他人の財産を侵害し、奪い取ろうとして。

それぞれ己の中の過ちを見るが良い!
復讐なぞ考えまい、忍耐強く耐えることだ、
反抗なぞ考えもしない有徳の人にも、
この世は牢獄であることはおれたちにもわかっている。
ぶっつたり、殴りつけたりするのは、浅はかなことだ、
盗んだり、奪ったり、掠奪したり、根拠なくひとを殺すのも、同様だ、
こうした行為に青春を過ごすやつは、
神をないがしろにし、真理から遠ざかり、
結局は、拳をよじって、激しく苦しむことになる、
他人の財産を侵害し、奪い取ろうとして。

他人をだまし、へつらい、裏切るために笑ってみせたり、
嘘をついて金を集めたり、偽ったり、信じてもいないのにそうだと言ったり、
おどけを言ってかついだり、だましたり、毒薬を作ったり、
罪を犯して生き、隣人を信用しないまま、不信のうちに眠る、
そんなことに、どんな価値があるというのだ?
だから、ちゃんと言っておこう、善へ向かう努力をしよう、
勇気を取り戻そう、神の中に慰めを見出そう、
一週間のうち安心できる日は一日だっておれたちにはないのだ、
おれたちの犯す過ちは親戚一族にはねかえってくる、
他人の財産を侵害し、奪い取ろうとして。

平安のうちに生きよう、不和を遠ざけよう、
若者も老人も、心を一つにしよう、
神の教えからしてもそうだし、使徒パウロも正当にも
「ローマ人への手紙」でこのことを伝えている。
おれたちには規律が必要だ、一定の地位と支えが。
これらのことを心にとめよう、永遠の救いたる神の港を手放さないようにしよう、
他人の財産を侵害し、奪い取ろうとして。

(注)このバラードの最後の詩節(バラードでは、「反歌」と呼ぶ)のルフランを除く各行の最初の文字はそれぞれ、V, I, L, L, O, N である。つまり、折句(フランス語では、アクロスティシュ)として、ヴィヨンの名がある。ヴィヨンが自らその名を詩に刻んでいるというわけである。その故にヴィヨン作品とされているが、誰か他のものが書いたとしても、その程度の小細工は可能であり、それだけの理由では根拠が薄いということもできる。もちろん、『遺言書』の「不良少年への教訓」(156節)に通ずるバラードで、ヴィヨン作と考えることも充分出来る。

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   二 ことわざのバラード  


地面を引っかき過ぎて、山羊は寝にくくなる、
水くみに行き過ぎると、壷は壊れる、
熱し過ぎると、鉄は赤くなる、
鍛え過ぎると、鉄も折れる、              4 
それなりに、人は誉められる、
離れていると、忘れられる、
悪さをしすぎれば、嫌われる、
クリスマス、クリスマスと叫んでいれば、その日が来る。 8 
 
おしゃべりが過ぎると、辻褄が合わなくなる、
評判が良いと、罪も赦される、
約束も度が過ぎると、守れない、
願い事すればするほど、成就する、           12 
貴重なものほど、求められる、
探せば探すほど、見つけられる、
よくあるものほど、買い手がつかない、
クリスマス、クリスマスと叫んでいれば、その日が来る。 16 
  
犬が好きだから、犬を飼う、
はやる歌こそ、みんな覚える、
食べずにいると、果物は腐る、
要塞は攻めれば、ついに陥落する、           20 
ぐずぐずすると、し損じる、
急いではことを、し損じる、
欲張ると、元も子も無くなる、
クリスマス、クリスマスと叫んでいれば、その日が来る。 24
  
からかい過ぎると、笑えなくなる、
浪費し過ぎると、下着もなくなる、
気前良すぎると、すべてをなくす、
「さあさあ、取りな」ということは、約束したも同然、  28 
神を愛するゆえ、教会を去る、
与え過ぎると、借金するはめに、
風向きが何度も変わって、北風に、
クリスマス、クリスマスと叫んでいれば、その日が来る。 32 
  
歌の選者よ、馬鹿げた生活を続ければ、そのうち賢くなる、
行き過ぎれば、後で戻ってくる、
懲らしめが続くと、立ち直ってくる、
クリスマス、クリスマスと叫んでいれば、その日が来る。 36

(注)ホイジンガは中世人の思考の形態の一つとしての結晶化をあげ、ことわざの重要性を指摘している。中世人ヴィヨンも、彼の詩作品において積極的にことわざを活用している。また、彼の詩の一節のいくつかは、その後ことわざになったりしている。この「ことわざのバラード」そのものは、ことわざを並べただけの文体練習、すなわち若書きの詩にすぎないとされている。しかし、最後の「返歌」(バラードは、各詩節のおわりに、同じ詩句<ルフラン>を置き、最後の詩節はそれまでの行数の半数の詩節になる詩形式である。最後の詩節を「反歌」envoi と呼ぶ)の「馬鹿げた生活を続ければ、そのうち賢くなる、行き過ぎれば、後で戻ってくる、懲らしめが続くと、立ち直ってくる」の中に、ヴィヨンの悔恨に満ちた生涯の一端を読みとろうとする見解もある。

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   三 軽口のバラード  


牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、
どんな人かは、着ているものでわかる、
天気が良いか悪いかもわかる、
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
樹脂を見れば木がわかる、
皆がみな同じであれば、よくわかる、
働き者か怠け者かもわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

襟を見れば、胴衣の値打ちがわかる、
法衣を見れば、修道僧の位がわかる、
従者を見れば、主人がわかる、
頭を覆っているものをみれば、どこの修道女かすぐわかる、
誰かが隠語を話してもちゃんとわかる、
道化を見れば、好物をどれほどもらっているかがわかる、
樽を見れば、どんな葡萄酒かがわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

馬と騾馬の違いもわかる、
馬の荷か騾馬の荷か、それもよくわかる、
ビエトリスであろうとベレであろうと、知ってる女はよくわかる、
どんな数でも計算用の珠を使って計算する仕方もわかる、
起きているか眠っているかもわかる、
ボヘミヤの異端、フス派の過ちもわかる、
ローマ法王の権威もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

詩会の選者よ、要するに何だってわかる、
血色のよい顔と青白い顔の区別もわかる、
すべてに終末をもたらす死もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

(注)よく使われるタイトルは、Ballade des menus propos で、直訳すると「些細(ささい)な話題」、「些細な事」のバラードである。ルフランの「何だってわかる、自分以外のことなら」は、パラドックスに満ちたヴィヨンの生涯を解くキーワードの一つとなっている。

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    四 逆説のバラード  


腹がへっているときぼどやる気が出る時はない、
敵に仕えることほど真の奉公はない、
干し草ほど美味しい食べものはない、
眠っている男ほど強力な見張りはいない、
残酷さほど寛大なものはない、
臆病者ほど安心できるものはいない、
否定するものほど忠誠心に満ちたものはいない、
恋におちた男ほど良識のあるものはいない。

悪所でもある蒸風呂屋ほど出産に適したところはない、
追放された人間ほど良き評判を得るものはいない、
げんこつをくらった時こそ大いに笑える、
借金の覚えがないと言い張るものには立派な評判がたつ、
おもねるものの中にこそ真実の愛がある、
不運との出会いほど幸せな出会いはない、
嘘の話しほど真実の陳述はない、
恋におちた男ほど良識のあるものはいない。

心配しながら生きることほど安らぐことはない、
「こん畜生」と敵意に満ちた言葉を吐くことほど相手を敬うやり方はない、
贋金をつくることほど自慢できることはない、
体中むくんでいる男ほど健康なやつはいない、
臆病な態度ほど大胆にして毅然たる態度はない、
怒り狂った男ほど良識のあるものはいない、
つっけんどんな女ほど優しい女はいない、
恋におちた男ほど良識のあるものはいない。

本当のことを言ってほしいかな?
病気の時ほど女と遊びたくなる時はない、
作り話ほど真実を告げるものはない、
騎士ぜんと勇敢に振る舞おうとする男ほど腰抜けなものはいない、
甘い音楽ほど不愉快な音はない、
恋におちた男ほど良識のあるものはいない。
(注)「逆説のバラード」(碩学ロニヨンがつけたタイトル)の「逆説」のフランス語はcontre-verite(アクサン省略)で、辞書的にいえば「 真実(事実)に反する主張、虚偽(の主張)」そして「 反語、逆説、皮肉」となる。この詩は反語に満ちたヴィヨン詩世界の原型を示す一つとなっている。

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    五 フランスの敵に対するバラード  


アルゴ船の隊長イアソンが金羊毛を探していたとき見たように、
火を吐く怪獣と出会うがよい、
エルサレムを襲ったナブゴドノゾールがそうされたように、
人間から獣に七年間も変えられているがよい、
美女ヘレーヌを奪ったトロイの人々のように、
災厄とおぞましい戦火と破壊を味わうがよい、
それとも、罰を受けた王タンタロスや地獄の女王プロセルピナと共に
地獄の沼に呑み込まれるがよい、
それとも、旧約聖書のヨブよりもさらに辛い苦しみをなめるがよい、
クレタ王ダイダロスの迷路の塔に閉じこめられるがよい、
フランス王国に災いあれと望むやからは。

五位鷺がそうすると言われているように、水底に頭を突っ込んで、
生簀(いけす)の中で四カ月間歌をうたっているがよい、
それとも、トルコの皇帝に現金で奴隷に売られ、
牡牛のようにくびきをつけられ働かされるがよい、
それとも、マグダラのマリアのように、三十年間も、
布切れも羊毛ひとつも身につけず暮らすがよい、
それとも、ナルシスのように溺れ死ぬがよい、
旧約聖書のアブサロムのように髪の毛で樹に吊るされるがよい、
イエスを売ったユダのように絶望の化身に追いつめられて首くくるがよい、
野心的な魔術師シモンのように自ら身を滅ぼすがよい、
フランス王国に災いあれと望むやからは。

オクタヴィアヌス皇帝の時代がまたやって来るがよい、そうなれば、
やつらは帝のように腹に財宝を流し込まれて死んでしまうのに、
聖ヴィクトールについて伝えられているように、風車小屋の臼に挽かれてしまえばよい、
鯨の体内に呑み込まれたヨナよりなお苦しく、
息もできず、海に呑み込まれるがよい、
それとも、太陽の神フェビュスの光から、富の女神ジュノーの財宝、
愛の神ヴィーナスの快楽から無縁の所に追い払われるがよい、
そして、アッシリアの王サルダナパール王がそうされたように、
軍神マルスの厳しい罰を受けるがよい、
フランス王国に災いあれと望むやからは。

歌の選者よ、やつらは海の神グラウクスの支配している森のような海に
風の神エオルスの下僕たちにより運び去られるがよい、
それとも、安らぎも希望も奪われるがよい、
なぜなら、やつらは希望だとかいった美徳を持つには値しないのだから、
フランス王国に災いあれと望むやからは。

(注)聖書、ギリシャ神話、歴史上の諸人物をとりあげており、ヴィヨンの博識を示している。ただし、若干間違いがあり、たとえば「マグダラのマリア」は「エジプトのマリア」の間違い。注の一部分を翻訳に取り入れてたので、今回はこまかい注はつけない。注に邪魔されずに大きく読んでほしい。

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 六 ロンドー  


ジュナン・ラヴニュ、
蒸風呂に行け、
そこに行ったら
ジュナン・ラヴニュ、       4  

裸で洗って、
湯船につかれ、
ジュナン・ラヴニュ、
蒸風呂に行け。          8 

(注)たわいない詩である。ラヴニュをl'Avenuと名前に使ったり、la venu(そこに行ったら)、lave nu(裸で洗う)というわけいうわけで、言葉遊びの詩となっている。ぼくも、はたしてかのヴィヨンがなぜこんなたわいもない詩を書いたのかと思わないでもない時期があった。この詩をはやばやと訳出したのは、最後にのせている「ラテン語混じりのバラード」と関わりがある。最近の権威あるヴィヨン版本のリシュネル=アンリ版は、この詩を省いて、代りに「ラテン語混じりのバラード」をのせている。それにならう版本も次々でている。
しかし、他の「雑詩」だって、決定的にヴィヨンのものとは言い切れないものもある。ヴィヨン(Villon)という文字が、折句(フランス語では、アクロスティシュという)におりこまれているだけの理由でヴィヨン詩とされているものもある。近代抒情詩の先駆的存在とされているヴィヨンが、たわむれにこんな詩を作っても良いのではないか。詩人(そして、人間)はそんなに一面的なものではないのだ。
ちなみに、蒸風呂(風呂屋)は、当時の悪所でもあった。

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  七 ブロア詩会のバラード    


泉のそばにいて、わたしは喉が渇いて死にそうだ、
身体は 火のように熱いが、歯をがたがた鳴らして震えている、
自分の国にいながら、遠い土地にいるようだ、
燃えさかる火のそばで、身を焦がしながら悪寒に身震いしている、
虫けらのように裸なのに、裁判長のように着飾っている、
泣きながら笑う、希望もないのに待つ、
悲しい絶望のなかに、慰めを見出す、
大いに楽しんでいるのに、楽しみはこれっぽっちもない、
権力はあるが、力も権勢もない、
大いに歓迎されながら、だれからも拒絶される。

わたしには不確かなことほど確実なものはない、
明白なもの以外に、曖昧なものはない、
確かなことしか疑わない、
偶発的なことから、わが学識を得る、
賭博で大儲けしながら、いつも金はない、
夜明けに、「よい晩でありますように」と挨拶する、
仰向けに寝ているのに、転ぶんじゃないかと心配になる、
財産はたっぷりあるのに、お金は全然ない、
遺産相続をあてにしながら、だれの相続人でもない、
大いに歓迎されながら、だれからも拒絶される。

何事にも関心を示さない、そのくせ金儲けには一途に努力する、
しかし儲けた金は自分のものだとは言い張らない、
わたしに一等好意的に話すやつこそ一番むかつく、
最も真実を告げるものこそ、うそばっかりついている、
真っ白な白鳥を真っ黒な烏だと
わたしに信じさせようというやからこそ、まことの友、
わたしに害を与えようというものこそ、わたしをなにかと助けようとしくれる、
嘘も真実も、今のわたしには、一つのこと、
何もかも覚えていながら、考えにまとめることが出来ない、
大いに歓迎されながら、だれからも拒絶される。

寛大なる大公よ、なにとぞご理解をしていただきたく、
わたしは、物わかりはなかなか良いが、分別も智恵もないと、
ひととは変わっていますが、皆には配慮をしていると。
これ以上何がいえましょう? そうです! 質草を取り戻したいだけです、
大いに歓迎されながら、だれからも拒絶される。

(注)リシュネル=アンリ 版は、「矛盾のバラード」という題を提案している。ヴィヨンが本当にブロアに滞在したことがあるとすれば、大公シャルル・ドルレアンの詩会の時作られた詩である。六行目の「泣きながらわたしは笑う」は、矛盾にみちた彼の生涯を要約するものとして、よく引用される。

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   八 マリ・ドルレアンへの書簡詩    

      [マリ・ドルレアン姫生誕祝賀の歌] 


        「すでに高き天より新しき世代降りて来給う」

 一

おお、天よりこの地へとつかわされた
栄光に満ちた受胎の結晶たる御子よ、
高貴なる王家の百合の紋章にふさわしいお子さま、
イエス様のかけがえのない贈り物よ、
神の恩寵に満ちたその名は、マリ、
憐憫の泉、恩寵の源、
わが眼には、喜びそして慰み、
あなたこそ、われらのために平安をうち立て、用意されるのです。

 二

富めるもの力あるものには、平安であり、
貧しきものには、生きる糧なのです、
邪悪なもの強欲なものには、敵対そのものです、
──原罪もなく──
清らかに身ごもられ、お生まれになった
われらには不可欠の御子の御生誕よ、
われらはそれにふさわしく言うことが出来ます、
永遠の神の崇高なる宝と。

 三

新しい聖母マリア、民の喜び、
善人の慰め、災いよりの避難場所、
優しき殿の最初にして唯一の娘御、
華々しき血をひき、
始祖クローヴィス王の直系のご出身、
あらゆる面で、栄えある聖母のお顔立ち、
平安を楽しみ与えるために、
天の高みにて創られ整えられたそのお顔立ち。

 四

神への愛と畏敬の念のうちに、
帝王のお妃の高貴な腹に宿されて、
貴賎貧富の区別なく、
至る所で、大いなる喜びをもって迎えられる姫よ、
反目する人たちを和解させるために、
そしてまた、囚われたものたちを解放するために、
その縛りの綱や鉄鎖から解き放つため、
神の愛によりこの世につかわされた姫よ。

 五

思慮深くないものどもは、
愚直のうちに育てられ、凝り固まって、
神の御意志を傷つけようとする、
無知に迷わされて、
やつらはあなたが男の御子であったならという、
だが、神の加護によってこそ、このような生誕になったのです、
わたしはこれこそ大いに利益にかなうことと思います、
その訳(わけ)は、神は最善のことをすべて行われるからです。

 六

詩篇の言葉を引用する、
「主よ、あなたの為されたことに、
われらは喜びを感じます」と、
善き前兆のもとに生まれられた、高貴な御子よ、
優しさそのものであるように運命づけられたお方よ、
天からの賜物の食べ物であるマナ、つまり神の贈り物、
善き行いのご褒美、
われらの過ちを許し給う方。

    [二重のバラード]  

ある書物で読んだことがある、
「お前の眼前でお前を誉めそやすものは、
敵と考えよ」とある、
しかしながら、それにもかかわらず、
心正しきものは、その心に、
大いなる善を感じたら、
あちこちでそれを示し、決して隠さなかった、
善は善だと言わねばならない。

洗者バプテスマの聖ヨハネは、そのように正直に振る舞った、
神の子羊たるイエスの到来を知らせたときに、
この行いには間違いはなかった、
それゆえ、その言葉は民衆の間に広まって行った、
聖ペテロの弟、聖アンデレは、それまで神やイエスについて何も知らなかったが、
この声によって神を誉め称えるようになり、
神の御子に仕えるようになった、
善は善だと言わねばならない。

姫、あなたはイエス・キリストによりこの世につかわされたのです、
それも、厳正なる法により追放されり、
運命の女神によって運命を狂わされた不幸な人々を
この世に呼び戻すためなのです、
そういうわけで、わたしがこれからどうなるかは良く分かっています、
わたしの命があるのも、神の、そしてあなたのお陰なのです、
あなたを懐妊された大公妃殿下に祝福あれ、
善は善だと言わねばならない。

ここに、わたしは言明する、
慈悲においてたくましく強力な
あなたの優しいご誕生がなければ、
わたしは死んでいる人間であったろう、
その誕生と慈愛が、死神が己の仲間として考えたものたちを、
生き返らせ、なぐさめるのです。
あなたがいらっしゃることでわたしは元気づけられます、
善は善だと言わねばならない。

ここに、わたしはあなたへの絶対の服従を誓います、
わたしの哀れな力をすべてつかって
そうせよと理性がわたしに勧めるのです、
今ではわたしの意気込みをくじく悲しみも、
そういった類の苦難もありません、
わたくしはあなたのものです、わたくし自身のものではありません、
正義と義務がわたしにそう言うように勧めるのです、
善は善だと言わねばならない。

おお、あなたこそ、広大なる恩寵と慈悲、
平安の到来、平安への入り口、
好意にみちた寛大さの宝庫、
われらの過ちを除き、ゆるしてくださいます、
姫を讃えることをやめるようなことがあれば、
わたしは恩知らずで、自分のことをはっきりと恩知らずだと言います、
そこで、次のルフランに立ち戻ります、
善は善だと言わねばならない。

姫君よ、わたしはあなたを誉め称えるます、
あなたなくしては、何の価値もないわたしなのですから、
あなたに、あなたすべてに、わたしをゆだねます、
善は善だと言わねばならない。

 七

あなたは神自らの御手による創作品、
いかなる人にも勝る称賛に値し、
あらゆる善と美徳をそなえておられるおかた、
──いわゆる偶然の所作といわれるものと同じように、
生来の美徳も、精神的な美徳もそなえておられる──
ルビーや紫ルビーにも勝る美点をお持ちのおかた、
ローマの文人政治家カトーが書いているように、
「子は父の足跡をたどる」。

 八

あなたは安全の港、人間わざと思えないほどの
沈着冷静な成熟した振る舞い、
わずかの歳にして、三十六歳と申しあげたいほど、
その振る舞いに幼児性はとんと見えない、
常日頃わたしはそう言っているが、
その発言を禁じるものをわたしは知らない、
これに関して、ことわざをいえば、
「賢明な母親に、賢明な子」。

 九

わたしの言ったことを要約する、
「すでに高き天より
新しき世代降りて来給う」
これは詩人ヴェルギリウスの言った言葉だ。
賢明なるカッサンドラ、美しいエコー、
堂々たるユディト、貞節なリュクレース、
高貴なディドーよ、わたしは、あなたたちの姿を、
わが唯一の貴婦人にして女主人のこの姫君のなかに見て取る。

 一〇

品位ある処女よ、神にいのります、
そのかたに長き良き生命をお与え下さいと、
──そして、あなたを愛する者に、
よけいな羨望の心がおこらないようにと!──
完全にして完成された貴婦人よ、
あなたにお仕えしたいのです、
そうです、神の御心のままに、命尽きるまで、
あなたの哀れなる学徒、フランソワは。

(注)正直言ってこの詩は、ヴィヨン詩の翻訳の中では言葉の案配のそれなりの面白さを除き、内容的には心躍る翻訳とはならなかった。ヴィヨンが大公シャルル・ドルレアンの宮廷にいたときの大公の姫の生誕を祝っての歌(二つの詩が一つにまとめられたと思われるが)だが、宮廷詩人の作品がしばしばそうであるように主君への「誉め」に徹してやや類型的になりかねない。ヴィヨンは宮廷詩人ではなかったのだが、なかでも「二重のバラード」には若干ヴィヨン詩らしさがあるとはいえ、全体としてやたらに長く、冗語も多い。ただ、時代を考えれば生きて行くためにはそうといってもいられず、この詩の製作が彼の生活に有効に働いたかどうかは別にして、これぐらいの詩は作れるヴィヨンでもあったのである。

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   九 仲間たちへの書簡詩    


哀れんでくれ、憐れんでくれよ、このおれを、
少なくとも、仲間のきみたちだけは! お願いだ、
地下牢の中に寝ているんだ、クリスマスに飾るひいらぎや、
  五月祭の木の下なんかじゃないんだぞ、
この流謫の地へ、神の許しを得たのか、
運命の女神がおれを送り込んだのだ、
ぴちぴちした若者を愛する娘たちよ、
プロの踊り手よ、宙返りを面白おかしくこなす軽業師よ、
投げ槍のように生き生きとした、針のように鋭い身のこなし、
鈴のように清らかな歌声をかなでる喉を持つきみたち、
この哀れなヴィヨンを、うっちゃっておく気かい。

自由に楽しげに歌う歌い手よ、
きみらは遊び好きで、陽気で、言うことなす事面白い、
贋金も本物の金も、金のないままあちこち移り歩く旅芸人よ、
少々粗忽な才人たちよ、
何をぐずぐずしている、その間にヴィヨンは死ぬよ、
レー、モテット、ロンドーなどを作る詩人よ、
おれが死んでから、温かいスープを作ってくれる算段かい、
おれの寝ているところは、稲妻も旋風も入ってこられない、
厚い壁で目隠しされているものな、
この哀れなヴィヨンを、うっちゃっておく気かい。

こんな惨めな状態にいるのを、見に来いよ、
四分の一税も十分の一税も免除されている乞食貴族よ、
皇帝にも、国王にも領土をもらわない、
ただ天国の神だけに仕えるきみたちよ、
おれには、肉食日の日曜日も火曜日も肉断ちの日ってわけさ、
おかげで歯が伸びるよ、熊手よりもね、
食べるのはお菓子じゃない、乾いたパンだ、
それからたっぷりはらわたに水を流し込む、
土の上にすわっている、テーブルもない、腰掛けもない、
この哀れなヴィヨンを、うっちゃっておく気かい。

老若いずれも問わないが、今まで名前をあげた殿方よ、
国王の印の押された赦免状を手にいれてくれよ、
パン籠でいいから乗せて、地下牢から引き上げてくれ、
豚だって、お互いにそうしあう、
一匹が鳴くと、集団で駆けつける、
この哀れなヴィヨンを、うっちゃっておく気かい。

(注)1461年の夏、マン・シュール・ロワールの地下牢にいた時に作られたと思われる。聖職の資格者でありながら、旅役者の仲間に身を投じたのが、投獄の理由ともいわれている。いずれにしろ、10月新国王ルイ11世のマン入城の際、恩赦によくし、出獄している。

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 十  大公への懇願の詩   


百合の紋章の王家の血をうけておられる
わが殿、恐れ多いわが大公殿下に、
殴打などいろいろ虐待をうけて、打撲傷おいながら
数々の苦難のため屈服させられたフランソワ・ヴィヨンが、
このつつましい書簡を送り、
なにがしかの寛大な貸与をお願いします。
なすべきことはあらゆる法廷にでても果たすつもりです、
返済についてはご心配無用です、
損失も損害もありません、
殿のご損はただ待つ時間だけなのです。

あなたの哀れなこの僕(しもべ)は、殿以外には
どの大公にも一銭の借金をもしていません、
殿が貸してくださった金六エキュは、
すでに食費としてつかってしまいました、
それらまとめてお支払いするのは、当然のことです、
問題なく早急に行います、
というのも、パテーの付近に団栗の森が見つかって、
その栗の実が売れたら、
遅滞も延期もなく、お支払いするからです、
殿のご損はただ待つ時間だけなのです。

生まれついての高利貸し、ロンバルディア人に
わたしの健康でも売れるなら、
とにかく危険をおかしてみようと思うほど、
金欠病に惑わされているのです。
胴衣にもお金はないし、ベルトにも吊るしていません、
神よ、主よ! どうしたこでしょう、硬貨に十字架が刻んでありますが、
十字架といえばわたしの目の前に全然現れてくれません、
路傍の木や石でできたの十字架以外は...  うそではありません、
しかし、ひとたび本物のお金に刻まれている十字架があらわれれば、
殿のご損はただ待つ時間だけなのです。

正しいことを喜ばれる百合の紋章の大公よ、
わたしの目的が達せられないとしたら、
わたしがどんな困った状態にたちいたるかをおわかり下さい、
分かっていただきたいのです、どうぞ、お助けください、
殿のご損はただ待つ時間だけなのです。

  手紙の裏に

行け、おれの手紙よ、飛んで行け、
たとえ足や舌がなくても、
堂々と弁舌をふるって説明してくれ、
金欠病がいかにおれを苦しめるかを。

(注)マンの北部のパテーには「団栗の森」はない。そして、「団栗」は売り物にならない。
従来は「ブルボン大公への懇願詩」という題がよく使われた。リシュネル=アンリは「大公」をシャルル・ドルレアンと考えている。ヴィヨンの放浪時代のことが分かっていない以上、どちらかと断定することは出来ない。どちらであってもいい。ヴィヨンがどちらにしろ大公に借金を懇願している詩で十分である。

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   十一 ヴィヨンとその心の論争詩  


何が聞こえてくるんだ?──〈おれだよ〉──誰だって?──〈おまえの心さ、
細い糸でやっとのことおまえとつながっている。
もう力もない、肉も骨も血もなくなったみたいだ、
隅っこにうずくまる哀れな犬っころみたいに、
おまえが、たった一人で、引っ込んでいるの見るとな〉
──なぜ、そんなことになったんだ?──〈おまえのめちゃくちゃの道楽のせいよ〉
──だから、何だって言うんだ──〈おれはおれで苦しいんだ〉
──勝手にさせてくれよ──〈なぜだよ?〉──おれだって考えて見るよ
──〈いつのこと?〉──がきでなくなったらね
──〈もう言いたくないよ〉──おれもこれ以上言わない、これで良いんだ

〈何考えてるの?〉──立派な男になることさ
──〈もう三十歳だぜ〉──騾馬も三十歳という、いろいろ難しくなる齢だ
──〈それでも、がきかい、子どもかい〉──そうでもない──〈じゃあ、
狂気に捕まえられているんだ〉──どこだと言うんだ、首根っ子かい?
──〈何もわかちゃいない〉──わかっているよ──〈何が?〉──牛乳の
中に蝿がいれば、蝿は黒くて、牛乳は白い、大違いさ
──〈それだけかい?〉──まだ、あれこれとつっかかりたいのか、
まだ足りないなら、初めからやり直しても良いよ
──〈もう言いたくないよ〉──おれもこれ以上言わない、これで良いんだ

──〈おれはおれで苦しいが、おまえだって、色々苦しいはずだ、
もし、おまえが哀れにも単なる無知な馬鹿だったら、
申し訳ないといった様子をみせるはずだが、
ところが、おまえは何の頓着もしない、美しかろうが醜かろうが同じ事だ、
それとも、おまえの頭、石ころよりも固いってことかい、
それともまた、悲惨な状態にいる方が、名誉を受けるより好きなのか、
おおげさな言い方だが、おれが推論した結果にいかに答えるんだ?〉
──死んでしまえば、そんなこと終りだ
──〈何てことだ! 何たる自己満足! さも賢こげな雄弁だ!
もう言いたくないよ〉──おれもこれ以上言わない、これで良いんだ

──〈この苦しみはどこから来る?〉──おれの不運からさ、
不吉で知られる土星がおれにちょっとした運命の荷物をしょわせたとき、
不吉のしるしもついでにしょいこんでしまったと思う──〈馬鹿げた言いぐさだ、
おまえは自分の運命の主人なのだ、それなのに下僕だと思っている!
ソロモンが、その書物に書いていることを見ろよ、
「賢者は、星とそのおよぼす力に勝る力を
持っている」と言っているのだ〉
──そんなこと何も信じないね、星の決めたままのおれさ
──〈何だって、そんなことを言う?〉──そうだ、これがわが信条さ
──〈もう言いたくないよ〉──おれもこれ以上言わない、これで良いんだ

──〈生きたいか?〉──神よ、生きる力を与えたまえ!
──〈おまえに必要なことは...〉──何が?──〈良心の呵責だ、
たえず読み続けることだ〉──何を読む?──〈書物を通じて智恵を学ぶんだ、
馬鹿者どもは放っておけ〉──それにはよく気をつけておこう
──〈頭にたたきこんでおくんだぞ〉──よくおぼえておくよ
──〈ぐずぐずするなよ、快楽にまた身をゆだねないようにな、
もう言いたくないよ〉──おれもこれ以上言わない、これで良いんだ

(注)〈 〉に入っているのが、ヴィヨンの心、つまり反省的なヴィヨンのせりふで、〈 〉に入っていないのが、ヴィヨンそのもの、矛盾丸抱えで生きているヴィヨンのせりふである。
「九 仲間たちにあてた書簡詩」と同じように、1461年の夏、マン・シュール・ロワールの地下牢にいた時に作られたと思われる。従来のタイトルは、 Le Debat du coeur et du corps de Villon,「ヴィヨンのこころとからだの論争詩」。ここでは、リシュネル=アンリ提唱の、Debat de Villon et son coeurを使っている。

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   十二 運命のバラード   


わたしはかつて学僧たちに運命と名付けられた女神である、
このわたしを、名も無き男ヴィヨンよ、
お前は、人殺し、破壊者と呼び、そう名付けた。
わたしは、お前より優れたものを、貧しさ故に、
つらい石膏窯の仕事に命を消耗させ、
石切場で石を掘らせるのだ、
お前が屈辱の中で生きているからといって、不平を言うことがあろうか?
お前一人だけではない、嘆くことはない。
わたしがかつてした行為について、よく見るがよい、
多くのすぐれた男たちがわたしのせいで、死んで、固くなっていった、
よくわかっていよう、彼らに比べれば、お前は汚らしい下僕にも劣る。
心を静めて、不平を言うのをやめよ、
わたしの忠告に従い、すべてを心から受け入れよ、ヴィヨンよ!

今からはるか昔のことだが、
わたしは偉大な王たちに少々むきになってつぶしにかかった、
トロイ最後の王、プリアモスとその全軍団を殺した、
櫓も城砦の塔も城壁も何の役にもたたなかった。
カルタゴの王、ハンニバルもわたしの打撃を避けることができたというのか?
カルタゴで死神に命じて滅ぼした、
また、ローマの将軍、アフリカのスキピオをも殺させた。
ユリウス・シーザーを元老院でその命を見捨てた、
エジプトで、ポンペイウスを破滅させた。
金羊毛をもとめて船出したイヤソンは、海の渦の中に溺れていった、
また、あるときは、ローマの都とローマ人たちを焼き滅ぼしたこともある。
わたしの忠告に従い、すべてを心から受け入れよ、ヴィヨンよ!

数々の殺戮を行い、果ては、天にのぼって、
昂(すばる)を間近に見ようとしたアレクサンダー大王も
わたしによって毒殺された。
メデスの王、アルファザールも戦場で、己の持つ軍旗の上に倒れ、
死んでいった。これもわたしの仕業だ、
このようにしてきた、これからもやり続けるだろう、
他の動機も理由もあるが、教えるわけにはいかない。
偶像崇拝者の将軍フォロフェルヌに呪いをかけ、その結果、
ユダヤの女傑ユディトが天幕の中で(しかも、眠っている間に)
短刀で首かききって殺した。
ダビデ王に逆らった息子のアブサロムは、如何に? 逃走の途中首吊りにした。
わたしの忠告に従い、すべてを心から受け入れよ、ヴィヨンよ!

だから、フランソワよ、わたしの言うことを良く聞け、
もし天国の神の同意なくして、何かをしようと思えば、
お前にも、また他の誰にも、ぼろ着さえ残らないようにする事もできる、
というのは、わたしは、一つの悪行には、その十倍にして返すことになるのだ。
わたしの忠告に従い、すべてを心から受け入れよ、ヴィヨンよ!

(注)「運命」、「運命の女神」は、ヴィヨンのみならず、中世人の大きなテーマである。気紛れな運命の女神に翻弄されるヴィヨンは、主著『遺言書』の中でも、たびたび運命の女神に言及する。運命の女神の唯一の弱点は、このバラードの「もし天国の神の同意なくして、何かをしようと思えば」にあるように、「神の同意なくしては」何もできないことになっている。一体、人々が運命の女神に翻弄されることを、神は同意しているのだろうか。「試練」という言葉を神は用意しているようだ。また、このバラードの登場人物の記述で、伝えられているエピソードと合致しない例があることも言っておく。

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  十三 四行詩    


おれの名はフランソワ、フランス人だ、この事はほんとに重いんだ。
ポントワーズの隣町のパリの生まれさ。
2メートルたらずの縄につりさげられて、
おれの首、尻の重さをたっぷり知ることになるんだよな。  4  

(注)冒頭は、直訳すれば「おれはフランソワだ」ということになる。フランソワは、当時の発音では、フランス人も意味している。詩一般についてもいえるのだが、ことにヴィヨンは言葉の重層的な意味を有効に使う。ここで重層性について述べると長くなるので、とりあえず「フランス人でなかったら、絞首刑になるはめにはならなかったかもしれないのに」ということにとどめておく。 また、「ポントワーズの隣町のパリ」も直訳すれば、「ポントワーズの近くのパリ」であり、大都市パリを小さな町ポントワーズの「近く」の町とした皮肉についても別の機会にふれたい。

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   十四 絞首罪人のバラード    


おれたちの死後も生き続ける人々よ、兄弟たちよ、
おれたちに、つらくあたらないでくれよ、
もしこの哀れなおれたちに憐れみの情をもってくれるなら、
神は、すぐきみたちにお慈悲を与えてくださるだろう。
ごらんの通り、おれたち、五人、六人と、ここにぶら下げられている、  5 
美食をむさぼったこの身体も、
とっくに、ぼろぼろになって、腐っている、
おれたちの骨はといえば、灰に、塵になるってわけさ。
おれたちのこの苦痛、だれもあざ笑わないでくれ、
神に祈ってほしいものだ、おれたちの罪が許されるように。  10 
きみたちを兄弟と呼んだからといって 恨まないでくれ、たとえ、人間の法の裁きで 殺されとしても...いずれにしろ、わかってるだろう、 人間ってものは、皆がみなかしこく振舞うものではないってことを。 おれたちは、とっくに死んでいるんだ、         15 だから、聖母マリアの息子さんにとりなしてくれよ、 恩寵が涸れることなく、 地獄の雷火からおれたちをまもっていただくように。 おれたちは死んでいるのだ、しつこく悩ませないでくれ、 神に祈ってほしいものだ、おれたちの罪が許されるように。  20
雨がおれたちを洗い濯ぐ、丸洗いする、 太陽は乾かし、焼き焦す。 かささぎや烏がおれたちの目をえぐり、 ひげや眉毛をむしり取る。 おれたちには気の休まるときがない、            25 風が変れば、あっちへぶーら、こっちへぶーら、 鳥の嘴のおかげで指貫より孔だらけになった身体は、 風の気の向くままに運ばれる。 だから、おれたちの仲間にだけはなるなよ、 神に祈ってほしいものだ、おれたちの罪が許されるように。  30
すべてを支配しておられるキリスト様、 おまもりください、地獄がおれたちを取り込まないように、 地獄とは、関わり無きようにしたいのです。 人々よ、嘲笑してる場合じゃないぞ、 神に祈ってほしいものだ、おれたちの罪が許されるように。  35
(注)ヴィヨンの代表的な詩の一つである。「ヴィヨンの墓碑銘」とも言われている。ちなみに、十六世紀の詩人、クレマン・マロは自らヴィヨン詩集を出版し(1537年)、このバラードを「ともに絞首刑になるのをまちながら、自分のため、そして仲間たちのためにヴィヨンが作ったバラード形式の墓碑銘」と名付けている。

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  十五 法廷への賛美と懇願の詩    


わが五官よ、目、耳、そして口、
鼻、また触覚よ、
わが四肢よ、また使わないとすれば非難されてもしかたない体の部分よ、
各自それなりに次のように言え、
「至高の法廷よ、ここにあるのもあなたのお陰です、
われらを破壊より救われました、
ただ、舌を使っただけではあなたへの充分な賛美は
表現できません、
そこで、われらは五官など体全体を使って話しかけます、至上の国王の愛娘たる法廷よ、
良き人たちの母、祝福された天使たちの姉妹よ。」

心臓よ、張り裂けよ、鉄の串に突き刺されるがよい、
すくなくとも、ユダヤの民の喉の渇きがいやされた
砂漠の褐色の岩より固くなるな、
涙を流せ、改悛をせよ、
やさしく溜息をつくつつましい心のように、
聖なる権威につながる法廷を誉め称えよ、
フランス人にとっての幸福、異邦人の慰め、
蒼天の高みにおいて創られた、
良き人たちの母、祝福された天使たちの姉妹よ。

そして、わが歯よ、動け、しゃべれ、
前に出でよ、オルガン、ラッパ、鐘よりも
力強く感謝を告げよ、
今は食べ物を噛むことには気をつかうな、
命を取り戻した肝臓、脾臓、肺よ、
場合によってはもう死んでいたかも知れぬことを考えろ、
そして、体よ、そうでなければ泥のなかに巣をつくる熊や豚よりも
さらに卑しい最悪なものになるぞ、
さらに悪くならない前に、法廷を賛美せよ、
良き人たちの母、祝福された天使たちの姉妹よ。

担当官殿、三日の猶予をお願いします、
出立のための金の用意をし、身内のものに別れをつげるために、
身内のものに頼らなくしては、お金もありません、ここでも銀行でも、
光輝に満ちた法廷よ、そうすることに同意すると言って下さい、わが懇願を拒否されずに、
良き人たちの母、祝福された天使たちの姉妹よ。

(注)「褐色の岩より固くなるな 」:モーゼが神のお告げにより岩を杖でたたき水をだした聖書の故事。
この詩は、1463年、死一等を免じられ、パリより十年間追放の刑をうけたころに書かれたと思われる。

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  上告のバラード (獄吏への問いかけ) (獄吏への問いかけ)  


どう思うかいおれの上告を、
獄吏のガルニエよ、おれの行いまともだったかい、馬鹿げていたかい?
けものだって、自分の皮は大事にするよ、
無理矢理に、力ずくで縛ろうとすると、
出来る限り振りほどこうとするものだ、
勝手気ままに、この死刑の判決が
おれに歌われてみろ、
おれはその時黙っていてよかったのかい?

もしおれが肉屋の血筋の出の
ユーグ・カペー王の子孫だったら、
この屠殺場で、布ごしの水をたっぷり飲まされる
水責めの刑にはあわなかったろうに、
この微妙な言い回しがわかるだろう、
ペテンにかけ不当にもこの勝手な刑を
おれに宣告しようというときに、
おれはその時黙っていてよかったのかい?

「上告する」とおれが言ったとき、
おれの頭にはそれなりの理屈が
あるはずはない思っていたのかい、
充分あったのだ、確かにそうだよ、
もっともその点はあまりあてにしてはいなかったがね、
公証人の前で、「絞首刑に処す」と
言われた時、断言するが、
おれはその時黙っていてよかったのかい?

ガルニエ殿! もし病気で口がきけなかったら、
昔に死んだクロテール王とおなじ死の世界へとっくに行ってただろう、
郊外でで直立している歩哨のように、真っ直ぐぶら下げられていただろうよ、
おれはその時黙っていてよかったのかい?

(注)「ユーグ・カペー」:カペー王朝の始祖。 肉屋の血筋とまことしやかに伝えられていた。
この詩は、前の詩と同じように、1463年、死一等を免じられ、パリより十年間追放の刑をうけたころに書かれたと思われる。

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   (六)ラテン語混じりのバラード    


この智恵に満ち満ちた書物の中では
「卓越した」、奥深い忠告があたえられている
男は「結婚生活では」、
われを忘れて、「行過ぎに身をまかさないことだ」と、
というのも、それはどんなものであれ                                5 
「男の分別」を「めちゃくちゃにする」。                     
それにしても、馬鹿者は打撃をくらうまでは「わかろうとはしない」。 

この教えで「たしかなことは」 「力強さと頑丈さ」を保つためには よけいなことは喋らず静かにしていることが「肝心だ」、     10 「不平」に耐え、聞き流すことだ、 「もし、女房が」《助けてよ》と「叫んでも」 わからない「振りをすることだ」、 それにしても、馬鹿者は打撃をくらうまでは「わかろうとはしない」。
サムソンより「強い多くの男たちが」              15 この攻撃に「破れていった」、 ヴィーナスの盾に「対しては」 一等強い男の棒も「たわんでしまう」。 [...........] 「いったい、何が」わからないのだ、              20          それにしても、馬鹿者は打撃をくらうまでは「わかろうとはしない」。
賢明なる歌会の主よ、「ここに読みとれます」、 「ずっと悪賢い手合」もあざむかれていったと、 泳ぎの上手なやからも、「溺れていった」と。 それにしても、馬鹿者は打撃をくらうまでは「わかろうとはしない」。 25


(注)リシュネル=アンリ版の題は、Ballade franco-latine で、訳すと「フランス語とラテン語のバラード」(つづめると、「仏 羅語のバラード」)になる。フランス語とラテン語を混ぜ合わせた「混淆体の詩」は当時よく作られた。「 」で囲まれた部分が、ラテン語である。ラテン語を使いながら、韻をきちんとふむためには、それなりの教養が必要で、インテリの遊びの詩としては格好の形式であった。
従来、この詩は「ヴィヨン全詩集」にのることは少なかった。かつて権威あったロニヨン=フーレ版にものってはいない。(現在出版されている日本の「ヴィヨン全詩集」にもない。)ただ、新しく権威ある版となったリシュネル=アンリ版は、従来の六番の「ロンドー」のかわりに、このバラードをのせている(1977年)。その後の版本もこれに習うことが多い。ちなみに、当代ヴィヨン研究の重鎮デュフルネは、1984年に出版された(1992年、文庫本になった)彼の版本において、『隠語のバラード』は六番まで採用しているが、『雑詩』では「ラテン語混じりのバラード」はとりあげてはいない。そして、六番の「ロンド-」を残し ている。
このバラードは、パリ国立図書館仏写本25458番に収録されている。この写本は、一時ヴィヨンがそのブロワの宮廷に滞在したことがあるとおもわれる大公シャルル・ドルレアン愛用の筆記帖である。
シャルル・ドルレアンの詩(「この智恵に満ち満ちた書物 」)に言及しながら、最近結婚したばかりのおめでたい廷臣のファデの詩を揶揄して書かれたものということになっている。

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○『雑詩』を含めヴィヨン詩のタイトルはもともとはない。その後の版本で便宜的に色々な時期につけられたものである。
○リシュネル=アンリ版にとりあげられて以来、最近のフランスの「ヴィヨン全詩集」にとりあげられることが多い「ラテン語混じりのバラード」も訳出するので、『雑詩』は従来の16編が、17編となる。「ラテン語混じりのバラード」はとりあえず、( )付の六番としておく。最終的には、番号を整理する。鈴木信太郎訳「われはフランソワ、残念也、無念也」で有名な「四行詩 」は、目下は『雑詩』の十三番目にあたる。

  (1996.9.18-12.30   (C) 佐々木敏光)



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