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『ヴィヨンとその世界─ヴィヨンという「美しい牡」(芥川龍之介)がいた─』

(第六章 太宰治『ヴィヨンの妻』)   発売中です。(2,730 円)  書店でご注文お願いします。 ISBN番号(ISBN 978-4-8060-3059-1) または、沖積舎 101ー0051 東京都千代田区神田神保町1ー32  TEL 03-3291-5891 FAX 03-3295-4730 に、直接のご注文をお願いします。  なお古書として、「アマゾン」および「日本の古本屋」でも入手できます。 「日本の古本屋」は、大部分の加盟古書店が、メールで申し込むと、現物を郵便振り替え用紙同封で送ってきます。便利です。  「日本の古本屋」では、「ヴィヨン」より「佐々木敏光」の方が検索は容易です。

発売中、沖積舎刊『ヴィヨンとその世界  ─ヴィヨンという「美しい牡」(芥川龍之介)がいた─』 (第六章 ヴィヨンの妻)                       佐々木敏光   よくわかっている、あの狂おしい青春時代に、   勉強していたら、   行い正しくふるまっていたら  (ヴィヨン『遺言書』二六)   が、フランソワ・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい 牡」を発見した。   絞罪を待つてゐるフランソワ・ヴィヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度 もヴィヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉体的エネルギイはか う云ふことを許す訣(わけ)はなかつた。かれはだんだん衰へて行つた。           (芥川龍之介『或阿呆の一生』)   ヴィヨン(フランソワ)【Francois Villon】[一四三一?〜一四六三?] 一連のヴィ ヨン詩の登場人物。同時に作者とも想定される伝説的詩人。フランス文学史におけるフラン ス中世最大の詩人。中世末期パリの生れ、近代詩の先駆的存在でもある。パリ大学に学んで 高い学識を持ちながら、殺人,窃盗などを犯して,逃走,放浪,投獄の生涯を送った。最後 は殺傷事件にまきこまれ絞首刑の宣告をうけたがあやうく免れ、1463年パリから十年間追放 の刑をうけ、以後消息不明。多彩な形式の詩集『形見分け』『遺言書』、その他随時書き溜 めた『雑詩』などがある。作品のいたる所に韜晦・皮肉・嘲笑・哄笑が炸裂、と共に無頼に 満ちた青春への苦い自嘲や悔恨、死を前にしての厳粛な諦念や祈願が深い思いを伝える。 ただし、古記録にある殺人,窃盗などを犯したヴィヨンが、一連のヴィヨン詩の作者かど うかは本当のところはわかっていない。                (Francois =文字化けをさけるため、c は英字のまま) 目次   ヴィヨン詩抄(序に代えて)   第一章  ヴィヨン小伝   第二章  『聖母マリアに祈るためのバラード』   第三章  ことわざ   第四章  死の舞踏   第五章  絞首台   第六章  太宰治『ヴィヨンの妻』    補遺   『隠語によるバラード』   参考文献・註   終わりに  ヴィヨン詩抄(序に代えて) 『形見分け』   時は今、一四五六年   おれはフランソワ・ヴィヨン、学生だ   顎をちゃんと引き、手綱をきちんと引締めて   心乱さず考えてみよう   自分のやったことは自分で考えなくては(一)   今言ったまさにこの年   クリスマスのころ、もの皆死んだような季節   狼は食う物もなく、風を喰らって生きている   人間は家に引きこもって   氷霧を避け、残り火にあたっている   その時、一つの考えが浮んできた   おれの心をめちゃめちゃにしていた   あの恋愛の牢獄をぶちやぶってやろうと(二)   優しい瞳、愛くるしい笑顔に   惚れてしまった   腹の底に染みいるまでにね   ところが、まやかしの甘さだった   とんだくわせもの [...]   (四)   あの女のわがまま放題からこの身をまもるためには   最善の方法は、思うにこの地から出ていくことだ   さらば! おれはアンジェへ行く  (六)   さて、出発をしなくちゃあならない、   帰りがどうなるかわからないが、   (このおれにも弱い所がないわけじゃない、   鋼鉄や錫でできている身体でもない、   人間の生は不確かで   死んでしまったらどうしようもない)   ──とにかく、おれは遠い国へ旅立つ──   そういうわけで、この形見分けを作成する。 (八)   この『形見分け』前述の日付に   その名も高きヴィヨンによって書かれた、   その男、いちじくもなつめ椰子も食わず、   パン焼き窯の掃除棒のようにひからびて色黒、   天幕も、大きいのも小さいのも   仲間にやってしまったので持っていない、   小銭がわずか残るばかり、   それも間もなくなくなってしまうだろう。 (四〇)          (以下省略)   第一章  ヴィヨン小伝  きびしい時代だった。現代ヨーロッパ人にとっても、異境としかいいようのない中世、そ の末期であった。英仏百年戦争の末期でもある。ルアンでは、ジャンヌダルクが火刑に処せ られた。冬、凍ったセーヌ河を渡って飢えた狼が、パリに侵入した。  ホイジンガが『中世の秋』で「十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想 が重くのしかぶさり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。「死を思え(メメント・モ リ)」の叫びが、生のあらゆる局面に、とぎれることなくひびきわたっていた。」といって いる時代だった。庶民たちも、振幅の激しい喜怒哀楽を生きていた。  果してヴィヨンは当時のパリのそしてパリ以外のどこをさまよっていたか、依然謎である 。そして今でもいずこかをさまよっているのか。  なにしろ古い古い時代だ。かつて十九、二十世紀の碩学たちが、古文書の山の中から、ヴ ィヨンに関係するとおぼしき書類、すなわちパリ大学や裁判記録など古記録を見つけだし、 残されているヴィヨン詩と言われる詩作品と突き合わせ、ヴィヨンの生涯を再構成してくれ た。ありがたことだ。しかし、そもそもその犯罪を犯した古記録の男自身がその詩をかいた 本人かどうかは今でも相変わらずわかっていないのである。なにしろ六百年前の中世末期の ことである。あれこれと憶測はできるが、果たして本当にそうであるのかとなると何の根拠 もないことになってしまうのである。当時すでに犯罪人として有名であったヴィヨンを主人 公にして、誰かが一人で、あるいは数人で合作した、いわゆる他の人になる創作というのも 十分考えられるのである。ただ、殺人や窃盗を犯したヴィヨンという詩人がいて、彼がいわ ゆるヴィヨン詩をのこしたのだという、従来の考え方も打ち捨てるにはあまりに魅力的であ りすぎる。そうであればこそ、「おれたちの仲間にだけはなるなよ」というヴィヨンの悲痛 な思いをのせたヴィヨン詩の輝きも増そうというものである。詩の力もそこにある。テキス トの真実性、信頼性など問うていけば問題も出てくる。現在のテキストは校訂的には不十分 であるにしろ、それなりに魂に訴えかけるものがあり、ここでは、よけいな推論を働かせず に、たとえ間違っているにしろ、過渡期の現象(時代は常に過渡期である)として、簡潔に その「小伝」をかいてみたい。ヴィヨンは常に伝説的なものをまとっていて、詳細に書くと なると、見てきたような嘘を言うことにもなりかねない。簡潔に心掛けるつもりである。年 譜的に仕上げることとする。  まず、「ヴィヨン略年譜」の前に「ヴィヨン最略年譜」をかかげる。 (一)「ヴィヨン最略年譜」 ヴィヨン詩の中で、ヴィヨンが語る。  「おれの名はフランソワ、フランス人だ、この事はほんとに重いんだ   ポントワーズの隣町のパリの生まれさ」(『雑詩』「四行詩」)  「時は今、一四五六年   おれはフランソワ・ヴィヨン、学生だ」(『形見分け』)  「今言ったまさにこの年   クリスマスのころ、もの皆死んだような季節」  「あの女のわがまま放題からこの身をまもるためには   最善の方法は、思うにこの地から出ていくことだ   さらば! おれはアンジェへ行く」 (『形見分け』)  「おれが三十歳の年だった  ありとあらゆる屈辱を飲まされたが  そのためにまったくの馬鹿にも、とりわけ賢くなったわけでもない」 という詩句で『遺言書』ははじまる。  「おれは一四六一年に、これを書いた、  まさにその時、王が オルレアン近くのマンに入城され、  恩赦をもって、あのマンの厳しい牢獄から、おれを救って下さり、  命を取り戻して下さったのだ」(『遺言書』)  「一四五六年、パリからアンジェへの旅立ちの時、  おれは『形見分け』の中で、形見をわけた」(『遺言書』) と『形見分け』についての言及がなされる。  「ごらんの通り、おれたち、五人、六人と、ここにぶら下げられている、   [...]    神に祈ってほしいものだ、おれたちの罪が許されるように。」                  (『雑詩』「絞首罪人のバラード」) が、彼の最後の言葉だろうか。ただ、詩を残すには厳しすぎる状況だ。  それとも、主著『遺言書』の  「鐘が鳴るのが聞こえたら、   ヴィヨンの葬式だ、来てくれよ」(『遺言書』「結びのバラード」) なのだろうか。    (二)「ヴィヨン略年譜」          (以下省略)   第二章  『聖母マリアに祈るためのバラード』          (以下省略)  第六章  太宰治『ヴィヨンの妻』         どこへ行かうといふあてもなく、駅のはうに歩いて行つて、駅の前の露     店で飴を買ひ、坊やにしやぶらせて、それから、ふと思ひついて吉祥寺ま     での切符を買つて電車に乗り吊皮にぶらさがつて何気なく電車の天井にぶ     らさがつてゐるポスターを見ますと、夫の名が出てゐました。それは雑誌     の広告で、夫はその雑誌に「フランソワ・ヴィヨン」といふ題の長い論文     を発表してゐる様子でした。私はそのフランソワ・ヴィヨンといふ題と夫     の名前を見つめてゐるうちに、なぜだかわかりませぬけれども、とてもつ     らい涙がわいて出て、ポスターが霞んで見えなくなりました。                        (太宰治『ヴィヨンの妻』)         (中略)   「むかし、フランソワ・ヴイヨンといふ、巴里生まれの気の小さい、弱い男が、「あ あ、残念! あの狂ほしい青春の頃に、我もし学にいそしみ、風習のよろしき社会にこの 身を寄せてゐたならば、いま頃は家も持ち得て快き寝床もあらうに。ばからしい。悪童の 如く学び舎(や)を叛き去つた。いまそのことを思ひ出す時、わが胸は、張り裂けるばか りの思ひがする!」と、地団駄踏んで、その遺言書に記してあつたやうだが、私も、いま は、その痛切な嘆きには一も二も無く共鳴したい。」                        (太宰治『乞食学生』)          (以下省略)  補遺   『隠語によるバラード』   パリをはなれ放浪中のヴィヨンがはたして、当時ディジョンを中心として活動していた盗 賊団「コキヤール党」のメンバーであったかどうかなどは不明である。一説では、彼等のた めに彼等の隠語を使って『隠語によるバラード』を書いたということになっているが、偽作 の疑いもあり、本当のところはわからない。しかし、『隠語によるバラード』は、「ヴィヨ ン詩」の語彙と共通点もあり、ヴィヨン作品を理解するには重要な素材である。         (中略)    細川哲士氏は『平凡社大百科事典』 (一九八五年初版) の「ビヨン」の項目の中で、 「《隠語によるバラード》の総合的解読を試みたP・ギロー(一九六八 発表)説くところ によれば、作品は三重の意味層からなっており、1。お上と悶着をおこすなりわいのこと、 2。仲間のあいだの博打のこと、 3。男性間の愛のこと、これらのことが同時に読み取れる ようにできているという。しかし、余人にはこの説の当否を論じられないほど、この詩はま ったく歯の立たない謎の作品である。」と書いておられる。         (以下省略)  沖積舎 101ー0051 東京都千代田区神田神保町1ー32 TEL 03-3291-5891 FAX 03-3295-4730 ************ 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より) 佐々木/敏光 1943年、山口県宇部市生れ。京都大学文学部(フランス語・フランス文学科)卒。白水社編集部勤務。 京都大学大学院博士課程中退。静岡大学教育学部教授。元・鷹俳句会(藤田湘子主宰)同人 (本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです) ************* 沖積舎刊 佐々木敏光 『ヴィヨンとその世界 ─ヴィヨンという「美しい牡」(芥川龍之介)がいた─』 (第六章 太宰治『ヴィヨンの妻』) ************

静岡大学教育学部研究報告「ヴィヨンとその世界(九) 「太宰治、そして『ヴィヨンの妻』」」(佐々木敏光)の誤植とお詫び

  


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(2008.2 開設)

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佐々木敏光 著

ヴィヨンとその世界

 ─ヴィヨンという「美しい牡」(芥川龍之介)がいた─』

ヴィヨン詩抄、第六章 太宰治『ヴィヨンの妻』

(沖積舎)




基本語彙=佐々木敏光、俳句、ヴィヨン、フランス詩、フランス文学、ヴィヨンの妻、芥川龍之介、或阿呆の一生
、フランス文学、モンテーニュ『エセー』(随想録)、東洋の知恵、智恵、老子、荘子、禅、論語、人生論、生き方
佐々木敏光、俳句、ヴィヨン、フランス詩、フランス文学、ヴィヨンの妻、芥川龍之介、或阿呆の一生
、フランス文学、モンテーニュ『エセー』(随想録)、東洋の知恵、智恵、老子、荘子、禅、論語、人生論、生き方