『まぼろしの鷹』(『春の空気』 改題)



      一九八四年

    まぼろしの鷹か凍湖の宙に消ゆ
  
    牡蠣殻の山をこえきて牡蠣を食ふ

    踏切をことなくこえて落椿

    年越の伊良湖骨山浪無限

    山眠る伊豆も見ゆるぞ冬怒濤

    雪山に火焚けば雪の香りけり

    自転車に春の空気を入れてみる

    牛の眼に青き血脈夏の河

    向日葵やインド旅行記買ひにでる

      インド ブツダ・ガヤ 成道の木 
    菩提樹の病葉一葉掌にうけぬ

    秋の雨盲導犬に美女添へり

    一位の実赤し甘しと飛騨の旅

    猿山へ運動会の鬨の声

    紅葉狩教師もつとも酔ひにけり
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      一九八五年

    階段の暗闇をおり木枯へ                 

    年惜しむ登呂に畦あり畦あゆむ              

    はればれと飛行機雲の三日かな

    山葵田の水をうましと飲みたるよ

    蕗の薹持ちて音楽会にあり

    菜の花や廃村闇に沈みゆく

    沢がにをかかげもつ子と峠こゆ

    首長き女五月の坂おり来

    藤村の墓の青梅大きかり

    荒梅雨の牛舎びつしり牛の鼻

    大学の闇の深さよ青葉木莵

    鰺刺の寂しき沼を刺しにけり

    ひぐらしの林なかなかぬけきれず

    芋嵐バイクの女沖を見る

    深爪に血のにじみたる無月かな

    忘れをり髪にさしたるコスモスを

    草の実をつけ教壇にどもりをり

    ベランダのつひの一鉢紅葉づれり

    立冬の夕日浴びたる牛の尻

    枇杷の花妻にあくびをうつしけり
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      一九八六年

    鮟鱇の口の無念をまねてみる

    わび電話妻に入れさす師走かな

    しやつくりをつつしみてをる淑気かな

    御降りや黒光りして登呂の屋根

    さざ波のまだいとけなき二月かな

    鳥雲に道ふさぎをるシヨベルカー             

    狂言師遅れ着きたり春の雪                

    亀鳴くや紙にて切りし指の先               

    四月馬鹿水平線に巨船消ゆ

    まぶた閉ぢ落花あびゐる女かな

    自転車をとめて見てゐる夕牡丹

    炎天の崖の上から会釈さる

    甲斐駒のつきささりたる代田かな

    早乙女の腰を見てゐる烏かな

    遠花火呆けし母を訪ふべきや

    玄関のブザーなりたる大暑かな

    鉄橋を兄とわたりし祭かな

    広島の町見ゆる島泳ぐかな

    まつすぐに壺にさしたるすすきかな

    深酒の夜長人とぞなりにけり

    なきがらを島へ運ぶや草の花

    秋風や屋上にある潦

    東京の凸凹の空鳥渡る
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      一九八七年         

    冬菊を壺に挿す指吸ひたしよ

    月光の坂のぼりゆく黒マント

    己が糞駝鳥くらひし寒さかな

    春焚火沖に向きたる顔ばかり

    遠足の二手よりくる峠かな

    二日酔してメーデーの最後尾

    羽衣の松の海より黒揚羽

    ほととぎす信濃も北の朝の湯に

    荒梅雨のしづくまとひて教壇へ

    握飯立つて食ふなり大夏野

    炎天となりゆく朝日昇りけり               

    曲家の撫でて秋蚕の頭かな
  
    流れゆく薄つと立つ河童淵                

    広島のまつかな釣瓶落しかな

    天高し無頼詩人のぞつきぼん

    酒うまし今宵は月の上るべし

    青萱に切られ不惑の腕かな

    踏切の一寸手前のざくろかな
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      一九八八年 

          
    海までの一本道に時雨けり   

    教授会半ばのわれの大くさめ

    うそ寒の五合の酒となりにけり

    芭蕉忌やちひさくなりし服ばかり

    人の嘘責め過ぎにけりふぐと汁

    藁屋根に湯気たちのぼる負喧かな

    をけら火を回しすぎたる手首かな 

    ふつふつと焦り心や氷柱折る   

    ともづなを投げて終りぬ春の航  

    凧あがる無人島とぞ思ひしが

    母の日とわからぬ母の笑顔かな

    フランスの闇フランスの蛍追ふ

    小諸なる町かたぶけて銀河かな

    青胡桃握る力を吸はれけり

    明日講ずヴイヨン詩集や黴の花

    サングラスはづし見てゐる山河かな

    親も子も戦争知らずカンナ燃ゆ

    用なくてのぼる踏台秋の暮

    美しき茸の径となりにけり

    身に泌むやインク消しにて消す文字も

    毛衣や巴里女の胸の量
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      一九八九年

    河豚食ふて展望塔にのぼるかな

    フランス語吃りてゐたる暖炉かな

    初御空おとぼけ花火あがるかな

    大枯野ヘリコプターを吐き出せり

    安吾忌ややや過ごしたる迎酒

    鳶の輪の下に怒濤や紅椿

    囀や塔のごとくに天狗杉

    春田なりわが足形を深く差す

    雨の日は雨の中ゆく遍路かな

    聖五月ピアノのそばに目覚めけり

    うねりつつ雨はきたりぬ羽抜鶏          

    日盛の瓦の上の雀かな           

    黴びにけりわが臍の緒も脳髄も             

    Tシヤツに豊胸透ける夕立かな

    雷の夜エツフエル塔のひびくかな

    向日葵の畑の中に何狂ふ

    時差ぼけのとどのつまりの夜なべかな

    岩山の頂光る墓参かな

    背中痒し痒し満月のぼりけり

    遲参せり金木犀の香る中

    天高し研究室の昼の酒

    堰落つる真白き水と秋惜む

    顔見世や用なくわたる四条橋

    次男なる気易さにをりふぐと汁

    小春日やだらだら坂に倦んでゐる
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      一九九〇年

    モツアルト聞こゆる露地のしぐれかな

    富士へ鷹駿河日和と申すべし

    葱きざむ音ワープロをたたく音

    海よりの光の中や土筆摘む                

    蛸焼や明石にのぼる春の月               

    メーデーに行かず波頭を見て飽かず

    護摩焚ける炎と春を惜しみけり

    門柱に蝉の脱け殻休暇果つ

    汗のシヤツ研究室の椅子に投ぐ

    廃線の駅の広場の秋祭             

    豊の秋餌欲る家鴨したがへて 

    稲妻や丹塗剥げたる太柱

    とりあへず落葉プールへ着水す   

    踏む落葉海の響きの天城越え

    あつさりと割れし胡桃を咎めけり

    身に入むや降圧剤の赤き粒

    博学の酒徒と喰らふや零余子飯
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      一九九一年

    わが癖を子の大仰に初笑

    からつぽの俺の頭よ懐手

    人の死よ濡れて落ち葉の切通

    啓蟄の螺旋階段のぼりけり

    春の夜やとろりとろりと喉へ酒

    一の滝二の滝春のこだまかな

    鳥帰る少年院の格子窓

    校庭の空のプールや卒業歌

    大朝寝できぬ齢となりしかな

    自転車で突つ込む春の嵐かな

    夕牡丹しづかに蕊へ誘はるる

    正面に都庁そびゆる暑さかな

    炎天を来て清々し蛇笏の書

    また迎ふ二百十日の誕生日

    竹筒に銭落つ響き零余子買ふ

    川海苔や水美しく流れをり

    大声で学生しかる寒さかな

    時雨忌や近江の湖の狐雨
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      一九九二年

    家康の像と負喧の翁かな

    利休忌の椿豪奢に落ちにけり

    チユウリツプ地底明るくなりをるか

    石牢のそばに摘みきし菫かな              

    酒盛のもうたけなはの夕立かな             

    夏の河からすは死魚の目を穿つ

    蚊をうちて研究室の裸かな         

    鶏舎なる首六百の暑さかな     

    自転車を止められてゐる祭かな

    蛍火よはるか昔の汽車の灯よ

    豊年や蔵書を売りて本を買ふ

    秋風や遊びたりない顔ばかり

    震災忌背後の街を振り返る

    休暇果つ怠け心は生き生きと

    銀漢や黒塊として富士の山

    廃村や桜大樹の狂ひ咲

    風邪ごころ遅刻学生許しをく
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      一九九三年

    枯木など振り向かずゐし昔かな

    壮年の旅半ばかな懐手

    木枯や空のプールの底を犬

    奈良盆地晴れ渡りけり寒牡丹

    学生は口論すべし懐手

    白梅や牛飼ひ人の廃業す

    もののふの長門を若布漂へり

    ゆつくりと日永のあぐらほどきけり

    遥かなるもの胸にあり四月馬鹿

    花の塵風に流して遊びけり

    臍の上風渡るなり夏座敷

    髪赤く染めし少女の茶摘かな

    鶏鳴のやぶれかぶれや梅雨深し

    雲の峰管につながれ母生くる

    夏草やふるさとの墓地迷路なす             

    パソコンに遊ばれてゐる夜なべかな

    天高し赤信号を黙殺す           

    この丘の薄の揺れをいつまでも

    荒魂を鎮めてゐたる新酒かな    

    凶作に無縁の秋の祭かな   

    北風や胸の炎はとろとろと

    記憶力怪しき時を時雨かな
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      一九九四年

    文弱の我ら高ぶるおでん酒

    凍鶴よ不覚の涙ゆるされよ

    浮世絵のごとく初富士初御空

    虎落笛天に輝くわれの星

    真つ白きマストの断てり冬の富士

    近道のいつか遠道春の暮

    春昼の頭蓋の中の独語かな

    春の雷かうぐわん二つしかとあり

    はげまして脅し三月終りけり

    鳥雲に鳥の目となり大和見る

    若駒のけちらしてゐる空気かな

    登呂の田の蝌蚪の姿に生まれけり

    青蛙飛び込み田植終りけり

    薔薇の棘何かを忘れてはゐずや

    牡丹のこを女王とぞ見定めつ

    つんどくの本崩れたる極暑かな

    炎天に出で根性の定まりぬ

    あさがほの紫かをる一之町

    星月夜終着駅に目覚めけり               

    いとけなき薄の揺れや今朝の秋            

    東海道いまいつせいの落葉かな
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      一九九五年

    侘助や好色の性つつがなし

    お神楽のまぐわひ空に日と月と

    大胆に生きよ冬木の芽へ独語

    棺桶に父ゐる不思議龍天に

    カーニバル君の乳房は揺れに揺れ

    お水取背後豊かな奈良の闇

    亀鳴くや名も無き父の骨納め

    花冷えや都大路を喪服きて

    薫風や人面石は眼閉ぢ

    青嵐モンロー消えて三十年

    なけなしの遺産争ひ雲の峰

    鹿の眼に風筋映る大和かな

    志賀直哉旧居閉館夜の鹿

    夕方は木犀の香にとりまかれ

    閨房の章に入りたる夜学かな

    全山の薄揺れゐる力かな

    秋風やわが胸底の眼なし魚

    新道の果ては枯野や入りゆける
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      一九九六年

    寒燈や牛舎の牛は目を細め         

    歳晩やぎつくり腰をたまはりぬ    

    胸はつか見せて焚火の乙女かな

    着ぶくれて大東京に紛れこむ

    斑鳩の巣立鳥なり日輪へ

    放浪の心は老いず西行忌

    ひとひらの落花に乗せし心かな

    雨粒の輝く薔薇切りにけり

    青年の腋くろぐろと夏に入る

    草いきれ少年のわれ遁走す

    カンナ燃ゆ昔の駅に降りたちぬ

    緑陰へ入りてうれしき眼かな

    両立の難きを思へ露の玉

    銀河恋ふ虫もあるべし虫時雨

    眼もて歩く古地図や望の月

    しびとばな動かず列車動きけり

    たつぷりと酒あるけふの夜長かな

    裏道が好き裏道の菊畑
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      一九九七年

    落葉美(は)し終の住処をここと決む

    氷山が俺の頭に頑とゐる

    積り行く落葉と空を行く雲と

    本すぐに紛るる書斎山眠る

    懐手妻には妻の懐手

    風花やフランスパンを横抱へ

    猫の恋律儀な教師律儀顔

    鶏の絶叫春のちぎれ雲

    購ひし土地の隣の竹の秋

    新幹線桜吹雪に突入す

    朧夜や妻の隠せし酒いづこ

    臍見せて少女の闊歩花菖蒲

    大滝のしぶき霊気と浴びゐたり

    紫陽花や傘干されある気象台

    充実のひと日終りぬ遠花火

    老鴬や川となりたる山の道

    力抜き亀浮いてゐる厄日かな

    どこまでも行きたし稲の波の中

    われ男なんぢ女の良夜かな

    天高し屋上にある駐車場

    秋風や高き梢に女の子

    秋晴や鈍行にての三時間
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      一九九八年

    落葉踏む明るき楽を踏むごとく

    凍蝶に硝子のごとき空気かな

    日脚伸ぶ怠け心のほつほつと

    ちつぽけと自分を言ふな帰り花

    椎茸の種駒打ちぬ春の雨

    クラクシヨン強くならすな春の野ぞ

    舞ひ上がり富士荘厳の落花かな

    永遠に途上なりけり藤は実に

    花みかん駿河に老いてゆくも良し

    雷鳴の遠巻く夜の散歩かな

    風死せり富士山麓にくも殺す

    豪邸に兄住んでゐし帰省かな

    秋の暮考へすぎないやうにする

    わが休暇明日果つる日の帰り花

    湧き出づる真面目心よ今朝の秋

    山女美(は)しきよらの塩をふりて焼く
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      一九九九年

    冬晴へ放り投げたき心かな

    細胞の死は刻々と虎落笛

    後輩を叱り過ぎたるくさめかな

    躁鬱のいづれまことや去年今年

    ゆつくりと光の帯を落葉かな

    瞑目をしをる冬木と独断す

    決断を終へたる朝鳥雲に

    山の子は挨拶上手桜咲く

    連翹やきのふの怒り懐しき

    せつせつと苔も運びて鳥の恋
    
    脳髄のどこか黴びてか陽気なり

    とらへたり双眼鏡に郭公を

    勤勉な野盗虫かな潰しおく

    荒梅雨の影鬱然と巨船なり

    蛍待つ理屈の虫を押えつつ

    立ち上がり尺取虫となりにけり

    かなかなや森の奥へと夏は去る

    蜻蛉とぶ真つ正面にモンブラン

    かなかなに鳴かれてゐたる帰国かな
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      二〇〇〇年

    頬杖の右手のしびれ秋の暮

    後悔のぐわんと居座る夜長かな

    現し身のほいと大根抜きにけり

    生き生きと欲生れ来し焚火かな

    清らかな声寒泉の底ひより

    貴婦人と名付けし紅葉大樹かな

    はればれと風渡りけり初雀

    胸底のさびしき鬼へ豆をまく

    四方に鳴きどこにもゐないうぐひすよ

    チユーリツプ明治の館残れかし

    直線は美(は)しきものかな初つばめ

    朴の花遠景なべて消えにけり
    
    ひた生きる声張り満てり山若葉
 
    前衛の旗手の本なり曝しけり

    正面に黒き富士立つ噴井かな

    郭公や甲斐に旧り行くワイン蔵

    山鳩の鳴く音淋しや蝉の殻

    ごろり寝てふぐり淋しも夏館

    汽車おりて祭の中を抜けにけり
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      二〇〇一年

    秋の暮そこらあたりをひとめぐり

    冬晴の七里を歩き眠るかな

    冬眠の蛇の鼓動の響く夜か

    神木の杉の末(うら)より初鴉

    わが行く手暗し明るし雪の原

    古ひひな本家あつさりほろびけり

    はればれと桃の花あり遠き富士

    胸底に森あり春の雪ふれり

    全身に受く渾身のさへづりを

    わがかけし巣箱親鳥入るところ
   
    茅の輪なる円き空気をぬけにけり

    葉桜の空日輪を愛すかな

    易々と決めし大事や合歓の花
    
    公園の隅の砂場の秋の暮

    脳髄にちさき灯火秋の暮

    狂ひ鳴く虫ありせつになつかしく

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        二〇〇二年

    声かけて行くや花野の花たちへ
 
    薄原地下こんこんと水行くか

    落葉ふみ落葉の音の中にゐる

    はなやぎぬ心の隅の帰り花

    真輝く雪の富士なり反省す

    変装のかなはぬマスクはづしけり

    あつさりと解けし謎かな冴返る

    小鳥らも巣かけ戦ふ春来たる

    たましひの桜吹雪となりにけり

    乱舞せる砂やはらかき泉かな  

    戸袋は鳥の巣ひとつ蔵しをり

    夏の夜や口笛吹いて星を呼ぶ

    鳴く虫に浄められゆく身体かな

    白き花白く浮き出づ秋の暮

    虫の音へ裏階段をおりてゆく
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        二〇〇三年


    初詣木の花さくや姫さまへ

    冬ざれのかそけき音のなかにゐる

    雪原のただよふ時ぞ夕ぐれは

    春風の行方見てゐる独座かな

    ぜんまいののの字のまなこひらきけり
                           目次へ

        一九八四年以前


    蜘蛛の糸虹をはらみつゆんわりと
 
    春風の中でさけべば鵯の声

    春月やふらここ一つゆれはじむ
     
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          二〇〇二年十二月・静岡
          改定増補 二〇一一年三月・富士宮

            〈 俳句雑誌「鷹」1984-2003 掲載句より
              及び「俳句研究」1984以前 より〉(C)


          佐々木敏光:1943年生れ。元「鷹」同人
    
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