ヴィヨンとその世界(三)「ことわざ」



 民衆文化に深く根ざしたヴィヨンの詩、その作詩の要素のひとつにことわざの活用がある。そのひとつひとつについては、後ほどあらためて触れるが、ヴィヨンの代表作『遺言』からいくつかのことわざ、ことわざ的表現を挙げてみることから始めたい。

  人は必要にかられて 道を誤り
  飢えれば狼も森からでる     (『遺言』二十一節)

  去年の雪 今はいずこ      (『遺言』「昔日の美女たちのバラード」)

  風の吹くまま 運ばれて     (『遺言』「貴人を歌うバラード」)

  齢とった猿はいつもいやがられる
  顰めっ面をしても同じ事     (『遺言』四十五節)

  使用人を見れば主人がわかる   (『遺言』五十七節)

  とかく若者はくいたがる     (『遺言』一二九節)

  悪銭はしょせん身につかぬ    (『遺言』一五八節)

  どんなうまい歌でもそのうち飽きる(『遺言』一七〇節)

  賢い母には 賢い子       (『雑詩』「マリー・ドルレアンへの書簡詩」)

「ことわざのバラード」

 冒頭に引用したシャンピオンの言のように、ことわざはヴィヨン詩の中で大きな比重をしめる。いたるところに、ことわざやことわざ的言い回しが出てくる。そして、ヴィヨン詩には、『雑詩』の中の一つに、「ことわざのバラード」もあるのである。当時のことわざやことわざ的言い回しを利用したヴィヨンの初期の詩である。その詩は、かならずしもわかりやすいと言えないし、ヴィヨン詩を代表する『遺言』や『雑詩』の中の「絞首罪人のバーラード」のようなずっしりとした重みもない。ある意味では、詩の技巧の、いわゆるレトリックの練習的作品ともいえ、結局はことわざがしばしばそうであるように、わかりきったことを、彼流におもしろおかしく並べただけの軽い詩になっているとも言える。そうはいっても、細部をみてゆけば、ヴィヨンの生の断片も見える面もあるのである。矛盾に満ちた生を赤裸々に表現するヴィヨン詩の特徴を端的に表す「泣きながら笑う」という『雑詩』の「ブロワ詩会のバラード」の一節につながる詩にはなっている。
 まず、ここでは、この「ことわざのバラード」を自分なりに訳し、略注をつけてみることとする。

   ことわざのバラード(『雑詩』)

  地面を引っかき過ぎて、山羊は寝にくくなる
  水くみに行き過ぎると、壷は壊れる
  熱し過ぎると、鉄は赤くなる
  鍛え過ぎると、鉄も折れる
  それなりに、人は誉められる
  離れていると、忘れられる
  悪さをしすぎれば、嫌われる
  クリスマスと叫び続ければ、その日が来る

  おしゃべりが過ぎると、辻褄が合わなくなる
  評判が良いと、罪も赦される
  約束も度が過ぎると、守れない
  願い事すればするほど、成就する
  貴重なものほど、求められる
  探せば探すほど、見つけられる
  よくあるものほど、買い手がつかない
  クリスマスと叫び続ければ、その日が来る

  犬が好きだから、犬を飼う
  はやる歌こそ、みんな覚える
  食べずにいると、果物は腐る
  要塞は攻めれば、ついに陥落する
  ぐずぐずすると、し損じる
  急いでは、ことをし損じる
  欲張ると、元も子も無くなる
  クリスマスと叫び続ければ、その日が来る

  からかい過ぎると、笑えなくなる
  浪費し過ぎると、下着もなくなる
  気前良すぎると、すべてをなくす
  「さあさあ、取りな」ということは、約束したも同然
  神を愛するゆえ、教会を去る
  与え過ぎると、借金するはめに
  風向きが何度も変わって、北風に
  クリスマスと叫び続ければ、その日が来る

  歌の選者よ、馬鹿げた生活を続ければ、そのうち賢くなる
  行き過ぎれば、後で戻ってくる
  懲らしめが続くと、立ち直ってくる
  クリスマスと叫び続ければ、その日が来る

  Ballade des Proverbes ( Poesie Diverse II)

Tant grate chievre que mau gist ;
Tant va le pot a l'eaue qu'il brise;
Tant chauf'on le fer qu'il rougist,
Tant le maill'on qui qu'il se debrise ;
Tant vault l'omme comme on le prise,
Tant s'esloigne il qu'il n'en souvient,
Tant mauvais est qu'on le desprise ;
Tant crie l'on Noel qu'il vient.

Tant parl'on qu'on se contredit ;
Tant vault bon bruyt que grace acquise ;
Tant promest on qu'on se desdit ;
Tant pri'on que chose est acquise,
Tant plus est chere, et plus est quise,
Tant la quiert on qu'on y parvient,
Tant plus est commune, et mains requise ;
Tant crie l'on Noel qu'il vient.

Tant ayme on chien qu'on le nourrist ;
Tant court chanson qu'elle est aprise ;
Tant gard'on fruit qu'il se pourrist ;
Tant bat on place qu'elle prise ;
Tant tarde on que fault entriprise ;
Tant se haste on que mal advient ;
Tant embrasse on que chiet la prise ;
Tant crie l'on Noel qu'il vient.

Tant raille on que plus n'en rit ;
Tant despend on qu'on n'a chemise ;
Tant est on franc que tout s'il frit ;
Tant vault《tien》que chose promise ;
Tant ayme on Dieu qu'on suyt l'eglise;
Tant donne on qu'emprunter convient;
Tant tourne vent qu'il chiet en bise;
Tant crie l'on Noel qu'il vient.

Prince, tant vit fol qu'il s'avise,
Tant va il qu'apres il revient,
Tant le mate on qu'il se ravise ;
Tant crie l'on Noel qu'il vient.

  「ことわざのバラード」略注

「ことわざのバラード」=もともとこの詩には題名はない。ただ、「バラード」とだけ題名がついている写本はあるにはあるが。「ことわざのバラード」は詩句が ことわざやことわざ的言い回しの連続ということで、一八五四年、ヴィヨン研究者ジャコブ(P.-L. Jacob)がつけた題名である。
地面を引っかき過ぎて、山羊は寝にくくなる=モラウスキーの『十五世紀以前のフランスのことわざ』の2297番に、Tant grate chievre que mau git.というかたちで掲載されている。十二世紀のクレチアン・ド・トロワの『エレックとエニード』などにも、出てくる。ひとは自分のしたことに責任があるという意味である。
水くみに行き過ぎると、壷は壊れる=モラウスキーの『十五世紀以前のフランスのことわざ』の2302番に、Tant va li poz a l'avie qu'il brise. というかたちでてくる。日本の『広辞苑』にあたるともいえる『小ラルース辞典』のフランス の基本的な「ことわざ一覧」(一八二句掲載)にはTant va la cruche l'eau, qu'a la fin elle se brise. というかたちででてくる。
熱し過ぎると、鉄は赤くなる=ロベールの『ことわざ辞典』に、Tant chauffe-t-on le fer qu'il rougit. とほとんど同じ形で出てくる。ただ、そこではこのことわざの出典は、1610年のGruterの『詩華集』とある。また、ランリーの指摘に、フロワサール(1333 または 1337 - 1400) のある詩は「Tant grate chievre que mau gist. Et tant chaufe on fer qu'il rougist... というように始まっている」とある。
鍛え過ぎると、鉄も折れる=Il faut battre le fer pendant qu'il est chaud. 「鉄は熱いうちにうて」という、セネカに由来することわざのパロディーか。
 いずれにしても、このことわざに直接対応する当時のことわざはみつからない。
 以下、同じように、直接対応することわざが、見つからない場合は多々ある。その場合も、今では使われることのない当時のことわざやことわざ的言い回しを採用したり、ことわざのパロディーをヴィヨンが捏造したり、ことわざ以前の自明 の理をイロニーをこめて、ことさら逆説的に、ことわざ的に表現したりして、いわゆる、リシュネーとアンリがいう《ことわざ集的スタイル》で詩を作っていったと考えられる。この詩を「ことわざのバラード」とヴィヨン研究者・ジャコブが命名した所以である。
それなりに、人は誉められる=「それなりに、人はけなされる」といっても良い。いわゆる自明の理である。と同時に人生のイロニーを感じさせる詩句になっている。以下、注をつけていない詩句は、こういう自明の理にもとづくイロニー的、パロディー的な詩句が多い。
離れれば、忘れられる=現在でもよく使われる Loin des yeux, loin du coeur. 「去るもの日々に疎し」に通じることわざ的言い回し。
クリスマスと叫び続ければ、その日が来る=当時よく使われたことわざ。モラウスキーの『十五世紀以前のフランスのことわざ』の2291番にTant crye len Noel qu'i[l] vient. というかたちで出てくる。現在のポケット版ことわざ辞典、ドゥルノンの『フランスのことわざ辞典』には、On a tant crie on a tant chante Noel, qu' la fin il est venu. というかたちで掲載されており、意味として「熱心に望むことはついに実現する」という説明がついている。
 なお、クリスマスを意味する Noel は、キリスト生誕を祝っての喜びの叫びであるとともに、当時は国王などが町に入城する際にも、叫ばれた言葉である。
 バラードは各詩節の終りに、同じ詩句を配する。いわゆる、リフレイン=ルフランである。この詩句が、ルフランとなっている。
 もちろん、ファヴィエが、「不運のさなかにあって、哀れな学徒、ヴィヨンは希望の力を見出したのである」言うように、自伝的に読むことも可能なのである。
おしゃべりが過ぎると、辻褄が合わなくなる=Trop gratter cuit, trop nuit. 「掻きすぎれば痛み、しゃべりすぎると災いをまねく」と口の災いを説くことわざもある。
評判が良いと、罪も赦される=良い評判が大切であるということわざは、Bonne renommee vaut mieux que ceinture doree. 「良い評判は金のベルトより価値がある」という五世紀の法王レオ二世の発言に由来することわざなど多い。
約束も度が過ぎると、守れない=Chose promise, chose due. 「約束ははたされねばならぬ」ということわざと共に、Promettre et tenir sont deux. 「約束することとまもることは、別のこと」ということわざがある。
探せば探すほど、見つけられる=ことわざに Qui cherche trouve. 「探せば見つかる」がある。
犬が好きだから、犬を飼う=Chacun a son gout. 「蓼食う虫も好きずき(各人その好みに従って)」と同じ意味のことわざになっている。
食べずにいると、果物は腐る=Trop de preaution nuit. 「慎重すぎると、かえってだめになる」ということわざが思い出される。
要塞は攻めれば、ついに陥落する=女性を誘惑ことにも、通じる。
ぐずぐずすると、し損じる=L'occasion est chauve. 「好機は禿頭だ」ということわざがある。古来、好機、つまり運命の女神は前頭部にわずかな髪があるだけで、好機が来たときとっさにつかまないと、なかなか掴むことが出来ないといわれている。
急いでは、ことをし損じる=Qui se hate se fourvoie. 「急ぐと道を迷うことになる」ということわざがある。
欲張ると、元も子も無くなる=モラウスキーの『十五世紀以前のフランスのことわざ』の2175番に、Qui trop embrasse pou estaint. というかたちで掲載されている。現在よく使われていることわざに、Qui trop embrasse mal etreint. がある。モラウスキー掲載の中世のことわざとほとんど同じである。
神を愛するゆえ、教会を去る=suit は「(教会に)従う」と訳出できる。そのまま訳せば、「神を愛するゆえ、教会に従う」となる。そして、ayme (愛する)を逆説としてとり、「神に背き過ぎるゆえ、教会に従う」とも解釈できる。しかし、suit を F 版にあるように fuit (去る)と読みとれば、一段と逆説的 な(これもまたヴィヨン的な表現でもあるが)ものとして、解読できるのである。
 「教会に従う」にしろ、「教会を去る」にしろ、まず、教会より神への信仰が優先するという意味では、同じ事である。「教会に従う」といっても、「しかたなく」と肯定的にとれない場合もあるのである。当時の、教会の権威の失墜が背景にある。
風向きが何度も変わって、北風に=北風、つまり寒さをまともにあびるのは、貧乏人である。
歌の選者よ=バラードの最後の詩節はそれまでの詩節の半分の行数になる。それを反歌 envoi という。ここでは反歌は八行の半分、四行となっている。反歌の冒頭では歌会(詩会)のリーダー、Prince(選者)に呼びかけることになっている。
馬鹿げた生活を続ければ、そのうち賢くなる/行き過ぎれば、後で戻ってくる/懲らしめが続くと、立ち直ってくる=「この詩に、単なる技巧の練習を越えて、自伝的な色調を認めようとすることは間違ってはいない」と、デュフルネも認めているように、ことわざやことわざのパロディーでなりたっているこの詩に、ヴィヨンの生が反映しうることは、十分考えられる。もちろん、普遍的なことわざ的表現の中に己の生を韜晦しているわけであるが、あえて、自伝的な面の表現として、とりあげることも出来る。鈴木信太郎は、岩波文庫『ヴィヨン全詩集』の注で「この生活は、恐らくセルモアズを殺して後、パリを逐電して、「コキヤール党」(盗賊団)の仲間として、放浪した時のことでは、なかろうか?」とのべている。ただ、ランリーのように、己の「悔俊」に立ち戻った時期を想定すると、『遺言』の時期に重なるもっと後の作品となる。しかし、人間は完全な悔悟にい たることが無い場合でも、それなりの悔悟の思いを予感的にのべることもあり、作品の完成度など考えると、初期作品と思ってもいいわけである。自分の馬鹿げた生活はそれなりに自覚していたのである。
 また、ヴィヨンがシャルル・ドルレアンとの関係修復を意図して、一四五八年十一月、バンドームで書いたという、Pinkernell の仮説もある。それによると、「歌の選者よ」のPrinceが、シャルル・ドルレアンということになり、他の詩節 もその延長線で、それなりに説明できることになるが、ヴィヨン研究者の仮説遊 戯には好都合かもしれが、仮説以上のものではない。

 この「ことわざのバラード」は、かならずしもヴィヨン詩を代表するものではない。パローディ的な若書きの詩と言っていい。そうはいっても、ヴィヨン詩の特徴の一端、人生の矛盾をありのまま提示するといった面を示す詩となっていることは指摘していいことである。ポワリオンはいう。「ことわざを積み重ねた単なる練習的作品とも見える「ことわざのバラード」は、ついには他の作品にみられる思想と関わりのある時代の思想を想起させるにいたるのである。」そして、ヴィヨンは人類の、民衆の英知たることわざを意識し、やがて、それらを取り込みつつ『遺言』などの作品で結実させていくことになるのである。

ことわざによるヴィヨンの懊悩の生涯

 ヴィヨン詩を読んですぐ気づくのが、ことわざの偏在である。勿論これはヴィヨンに限ったことではなく、「後期中世においては、実にたくさんのことわざが流布していたのであって、これにはまったくおどろかされる。(...)文学とことわざの関係は深く、当時の詩人たちは、その詩作にあたって、ことわざをおおいに利用したのであった」というホイジンガの発言を待つまでもなく、中世文学にひろく認められる現象なのである。ヴィヨン詩においてはこの傾向は顕著である。個性とか個人的な創作にしがみつくのではなく、人間の経験的な英知(それはしばしば日常の生活に根ざした庶民的な知恵でもあるが)を積極的にとりいれ、活用しようという姿勢がそこにある。そのことにより、時代をこえた人間の共通な感情に根ざしたある種の普遍性を獲得することになるのである。そして、その普遍性の中に個性が輝くのである。古典というか、長く読み続けられてきた作品には、おおかれすくなかれそういった普遍的な表現が認められ、その一節がことわざ的に引用されたりする。そして、ヴィヨンは己の思想表現の重要な道具として、ことわざを積極的にえらびとっているのだ。
 もちろん、ある個人がどのようなことわざを援用するかによって、ある個人の自己を語ることになるといった面もある。「どんな友とつきあっているか言いなさい。あなたがどんな人であるかあてましょう」ということわざをもじって言うと、「どんなことわざが好きか言いなさい、あなたがどんな人であるかあてましょう」と言えるわけである。
 そして、ヴィヨン詩の中の、ことわざ、ことわざ的言い回しをつづるなら、ヴィヨンの生涯のある部分は再生出来るのである。もちろん、表現者はしばしばフィクションに己を韜晦するものであり、完全な再現になっているかどうかは、断定しきれないのはいうまでもない。ただ、「彼の作品のあちこちに配置さていることわざをつづるなら、なんの無理もなく彼の懊悩の生涯の忠実な要約をつくることができるであろう。」という、ジャック・ピノーの発言を以下で生かすことにしよう。ここではとりあえず代表作品の『遺言』をあつかうこととする。そして、『雑詩』から一つを。ただ、煩雑をさけるため、少なめに取捨選択をしている。

 (1)人は必要にかられて 道を誤り
  飢えれば狼も森からでる
  Necessite fait gens mesprendre.
  Et la faim saillir le loup du bois. (『遺言』二十一節)

 「飢えれば狼も森からでる」は、たとえば『小ラルース辞典』のフランスのことわざ一覧(一八二句掲載)にものっており、その他「ことわざ辞典」となづけられた諸々の本に、必ずといっていいほどのっているフランスの基本的なことわざである。『小ラルース辞典』の説明には、「必要に応じて、人は自分の好まないことをもせざるをえなくなる」とある。モラウスキーの『十五世紀以前のフランスのことわざ』の1000番に、La fains enchace le louf dou bois.というかたちで掲載されている。なお、N残essit n'a pas de loi. 「必要なときにには、法などは関係ない」ということわざもあり、十世紀の聖ベルナールも引用している基本的なことわざである。
 ヴィヨンは、自分をパンのかけらと水だけの牢獄に投獄した司教チボー・ドーシニーへの呪詛の言葉を投げかけることから『遺言』をはじめる。

  おれが三十歳の年だった
  ありとあらゆる屈辱飲まされたが
  全くの馬鹿になったわけでもなく、賢くなったわけでもない
    (『遺言』一節)

 自分の生涯を考えると、自分の能力を引き出してくれる人に出会わなかった。そういうチャンスに恵まれなかった。ヴィヨンはその例証として、アレキサンダー大王に出会い、その能力を引き出してもらったしがない海賊、ディオメデスの逸話を展開する。そのあとに、前述のことわざがくる。いずれにしろ、きびしい時代である。百年戦争の末期、ペスト、飢え、生きて行くのさえおぼつかない時代である。自分の甘えを棚にあげて、ヴィヨンは憤慨する。
 もちろん、青春時代という情念の嵐に流された、自分を反省しないわけではない。基本的なことわざに、Il faut que jeunesse se passe. 「青春は過ぎ去るものだ」といことわざがある。

  青春の時代がなつかしい (『遺言』二十二節)

  よく分かっている、狂いに狂った青春時代
  もっと勉強していたら
  分別正しく、生きていたら
  所帯も持てて、柔らかいベッドに寝ている
  なんてことだ、不良少年がするように
  おれは、学校をさぼった
  こんな言葉を書きながら
  心は、張り裂けそうになる (『遺言』二十六節)

 フランソワ・ヴィヨンは、一四三一年に生まれたことになっている。ジャンヌ・ダルクが火刑になった年である。もっとも、ヴィヨンという詩人がいたかどうか、疑わしいことでもある。たしかに、ヴィヨンが書いたと称せられる詩作品が残った。一四八九年、パリのルヴェ書房から、ヴィヨン作品集が刊行されたのである。ヴィヨン作品は評判を呼んだ。当時はヴィヨンの存在は疑われなかった。ただ、ヴィヨンは、ヴィヨン作品の中で、「われはフランソワ・ヴィヨン 学生なり」といっているだけであり、当時有名だった盗賊にして殺人者のヴィヨンを主人公にして、一連の作品を他の誰かが書いても、おかしくはないのである。十九世紀中頃から、ヴィヨンの戸籍探しが始まった。碩学の調査の結果、パリ大学文学修士でありながら、心ならずも、盗賊にして殺人者になってしまった男がいることが、わかった。ただ、その男が詩を書いたかどうかは、本当の意味では分かっていない。なにしろ、古い時代である。そんなことをいえば、古代や中世の時代の他の詩人や作家などの存在も怪しくなってくる。
 とりあえず、盗賊にして殺人者のヴィヨンがヴィヨン詩を書いたとして、臨まざるをえないわけである。
 ヴィヨンは、幼くして父をうしない、僧侶のギヨーム・ド・ヴィヨンの養子になったと考えられる。ギヨーム・ド・ヴィヨンは彼に、教育をほどこし、やがて、彼はパリ大学の学生となる。時代や友達や彼の性格のせいもあって、真面目な人物とはいえない存在になる。ちょっとしたことで、あやまって殺人を犯すことになる。その許しを赦免状というかたちで受け取ったとおもうと、しばらくして、ソルボンヌのある学寮に盗みに入る。仲間には「コキヤール党」という盗賊団のメンバーがいた。そして、追求を逃れるために、パリを離れて、長い放浪の旅にでる。その間「コキヤール党」とつきあっていたとも思われるが、そうでなかったかもしれない。
 そうこうしているうちに、よくわからない理由により、彼の言う「司教チボー・ドーシニー」のせいで、ロワール河河畔のマンで投獄されるのである。

 (2)青春時代を享受せよ

  ...
  若さは誤謬と無知にしか過ぎない
  Esjois toy, et ton adolescence

  ...
  Jeunesse et adolessance,
  Ne sont qu'abuz et ygnorance. (『遺言』二十七節)

 『遺言』の前半は、誤り多い青春時代を悔悟する詩の連続となっているが、そのなかに、これらのことわざ的な詩句がある。ともに、『伝道の書』によっている。『聖書』が、ことわざの宝庫になっているのはいうまでもないが、「若さは誤謬と無知にしか過ぎない」の部分はヴィヨンがかなり勝手に変更をしている。 Il faut que jeunesse se passe. 「若さは過ぎ去るもの」や Si jeunesse savait, si vieillesse pouvait. 「青春に分別があり、老年に力があれば」などのよくしられるていることわざに、対応する。
 この詩節のまえの詩節で、ヴィヨンは

  もちろん、おれが色恋にふけったのは本当だ
  これからも、喜んでやろうと思うが

 と、いいながら、物質的に不如意な状態では、それもかなわぬと言い、おどけてみせるのである。

 (3)ダンスは腹(パンス)がいっぱいになってから
  Dance vient de la pance.  (『遺言』二十六節)

 おどけとはいえ、ヴィヨンの生涯を考えると妙に哀しいことわざである。「楽しむのはたらふくくってからのこと」の意味で、「腹がへっては、戦にならぬ」に通じる。ヴィヨン得意の地口 (dance ダンス, pance パンス)を使っている。 Apres la panse, la danse. というかたちで、現代でもよく使われることわざである。そして、dance には、エロチックな意味もあり、ヴィヨンの世界によく使われるわいせつな意味を秘めたことわざにもなっている。そして、享楽の果てに、不如意な放浪生活に追い込まれたヴィヨンは、そううそぶくより他ないのである。
 そして、無軌道な青春時代を悔悟するヴィヨンは、自分の死を意識する。

 (4)どんなことが襲おうと、おれは恐れない
    死によって、すべてが終わる
  Car a la mort tout s'assouvit. (『遺言』二十八節)
 と、気丈にも「死によって、すべてが終わる」ということわざ的言い回しで、己の死を宣言したあと、友達のことに思いをはせる。

  いまどこにいるのだ
  昔よくつきあった、遊び人の仲間たちは
  歌もうまく、話し上手で
  やること言うこと、なんでも面白かった
  あるものは、死んで、冷たく
  なんの跡も残ってはいない (『遺言』二十九節)

 と、死の遍在を述べる詩句へとつながっていく。死の遍在は『遺言』前半の大きなテーマである。戦乱、ペストと、中世はとくにそんな時代であった。そして、時代を越えた、普遍的な死のテーマが展開されてゆく。

  よく分かっている、貧乏人も金持ちも
  賢いやつも馬鹿も、坊主も俗人も
  貴族も、庶民も、気前のいい奴もけちも
  背の高い奴も、低いのも、美人もぶすも
  ...
  どんな身分であろうが
  死は例外なく、さらってゆく (『遺言』三十九節)

 そして、すべての人間が苦しんで死ぬより他はないと述べたあと、あの有名な詩句をルフランにもつ「昔日の美女たちのバラード」になる。

 (5)去年の雪 今はいずこ
  Ou sont les neiges d'antant ? (『遺言』「昔日の美女たちのバラード」)

 すぐ消えて行く雪には、もともと人生の短さを象徴するものでもあるが、すでに消えてしまった「去年の雪」は、死んでいったもの、過ぎ去ったもの、ここではむなしく消え去った美女たち示すシンボルになっている。ことわざかといえば、必ずしもそうとはいえない。ヴィヨンの詩句で、人口に膾炙されたことわざ的言い回しと言ったほうがいいかもしれない。「名句辞典」などには必ず掲載されるが、ことわざ辞典では、たとえば、キタールの「ことわざ辞典」に、Parler des neiges d'antant 「去年の雪の話をする」とでてくるくるように、「去年の雪」だけが掲載される場合が多い。
 もちろん、ヴィヨンはこの詩句を通じて、己の生を見つめているのだ。
「昔日の美女たちのバラード」に続く、「古いフランス語によるバラード」も、内容的には異口同音のバラードだが、「ことわざ辞典」などに、よく登場する次の詩句をルフランに使用している。

 (6)風の吹くまま 運ばれて
  Autant en emporte ly vens.    (『遺言』「貴人を歌うバラード」)

 これは当時よく使われたことわざで、すでに十三世紀の詩人、アダン・ド・ラ・アールの『葉陰の劇』にもでてくる。人生の空しさを表すことわざである。たとえ、法王であろうが、王侯であろうが、すべての人は死に、塵となって風に運ばれてゆく。
 ヴィヨンの代表作である『雑詩』の「絞首罪人のバラード」にも、絞首刑を待つヴィヨンが、綱の先にぶら下げられて、風がふくまま揺れている死体を想像する箇所があり、その表現ともつながっている。古記録では、ヴィヨンは、その後死刑は減じられ、一四六三年、パリ地方から十年間の追放の刑になるのである。その後のヴィヨンは行方杳として知れずということで、あまり時をへずに亡くなったと思われる。いずれにしろ、放浪の詩人、ヴィヨンの生を象徴していることわざである。
 このことわざは、『小ラルース辞典』のフランスの「ことわざ一覧」にものっている。ただ、その解説では、他の現在の「ことわざ辞典」と同じように「信用の置けない、実現出来ない約束について言う」となっているが、人間の運命にかかわる、もっと大きな意味の広がりもたすことができるはずである。ちなみに、スカーレット・オハラの『風とともに去りぬ』Gone with the windo のフランス語訳は、Autant en emporte le vent. である。

 (7)いつも、老いたる猿は嫌われる
  顰めっ面をしただけで、いやがられる
  Tourjours viel cinge est desplaise.
  Moue ne fait qui deplaise. (『遺言』四十五節)

 「麒麟も老いては、駑馬に劣る」に相当する。類似の表現は、十六世紀のラブレーにも出てくる。
 「老いたる猿」と「顰めっ面」の組み合わせは、Ce n'est pas a vieux singe qu'on apprend a faire des grimaces. 「顰めっ面の仕方は、老いたる猿におそわるまでもない」と人間の悪知恵が生得のものであるという、ことわざがある。
 ヴィヨンは、これに続く「かつて、男であればだれでも体をほしがった美女が、年とってだれにも相手をされなくなった」と嘆く「兜屋小町の歌」におのれの行く末をダブらせるのである。

 (8)使用人を見れば主人がわかる
  Selon le clerc est deu le maistre. (『遺言』五十七節)

 遺言を始めようとするにあたって、それを書き留めるヴィヨンの書生のフラマンについてふれる詩節ででてくる。困窮状態のヴィヨンに、書生がついているはずはないが、ナンセンスな遺贈の品物をおくることにより、贈り先の人物を、風刺し、その集積のなかで、当時の社会の風刺、批判になっている『遺言』には、書生は構成上必要な人物かもしれない。一般的には、Tel maitre, tel valet. というかたちで使われることわざである。

 (9)犬、鷹、剣術、恋の道では
  楽しみ一つに 苦労千倍
  De chiens, d'oiseaux, d'armes, d'amours,
  Pour ung plaisir, milles doulours. (『遺言』六十四節)

 ヴィヨンの懊悩の生涯に恋愛は中心をしめる。例えば『形見』は、つれない女と関係を絶つには、逃げるしかない、パリを立ち去るににあたって、これこれのものを形見として与えると言って、おもしろおかしく色々な人物を風刺するのである。現実には、ナヴァール学院へ盗みにはいり、パリから逃走をせざるをえなくなったアリバイとして、『形見』を作った面もあるのだが、『遺言』の中に頻出する女に対する恨みつらみを考えると、その経験を赤裸々につづった面も否定できない。このことわざは、現在では Pour un plaisir [joie], mille douleurs. という表記で使われ、出典はヴィヨンということになる。

 (10)恋愛にかかわらぬものこそ幸いだ
  Bien eureux est qui rien n'y a ! (『遺言』「二重バラード」)

 (9)のあとに続く「二重バラード」にでてくる。そのバラードのルフランになっている。引用箇所だけを直訳すると、「そんなことに何も関わらぬものこそ幸いだ」ということになる。しかし、「人を狂わせる愛」がテーマになっているこのバラードでは、文脈上「恋愛にかかわらぬものこそ幸いだ」と訳すことになる。このバラードで学士・ヴィヨンは「...恋の道では/楽しみ一つに 苦労千倍」の具体的な例を、ギリシャ神話、聖書と古今の学識を発揮する。そして、このバラードの中で、自分を裏切り続けた女の名をあかす。カトリーヌ・ド・ヴォーセルという名である。
 直訳の「そんなことに何も関わらぬものこそ幸いだ」を生かすと、世俗のことに淡々とした、静謐な生活への至福への招待である。ただ、ヴィヨンはそんなことはできなかったであろう。恋愛を含めて「何かにかかわろう」としてのたうち回るのがヴィヨンの現実であり、そして一般人の現実である。

 (11)膀胱を提灯だと思わせていた
  Et rent vecies pour lanternes. (『遺言』六十七節)

 自分を騙していた女(前述のカトリーヌ・ド・ヴォーセルかもしれない。ヴィヨンが関わりを持った女性は他にもかんがえられるが)への、恨みを語る部分の中心にこのことわざ的言い回しはある。

  かつておれが 真心こめて
  愛した女、こいつのため
  どれほどの、悲しみと苦しみを味わい
  どれほど悩んできたか  (『遺言』六十五節)

  だが、おれを騙していたに過ぎない (『遺言』六十六節)

  おれをいつも騙して、こう言ってきた
  これはあれだと
  小麦粉を灰だと
  お偉方の帽子をただのフェルト帽だと
  古鉄を錫だと
  賽の目のぴんぞろを、みつぞろだと
  (いつもおれや他人を騙して
  膀胱を提灯だと思わせていた) (『遺言』六十七節)

 Prendre des vessies pour des lanternes 「膀胱を提灯だと思う」かたちで、現在の「ことわざ辞典」に普通にでてくる。これは、ローマ時代の詩人に由来することわざ的言い回しで、十四世紀には盛んにつかわれた。ばかばかしいことを信じるという意味である。引用のヴィヨンでは、ばかばかしいことを信じさせるという意味になる。
 ヴィヨン懊悩の生涯を表す詩句であるとともに、ヴィヨンがことわざをもって、自分の詩的表現の中心的道具として積極的に利用している例ともいえる。

 (12)わが手回し琴は腰掛けの下に仕舞おう
  Ma vielle ay mis soubz le banc (『遺言』七十節)

 ことわざ的な言い回しで、当時の旅の楽師の表現、「楽器をすてる」からきている。歓楽の生活を断念しようという意味である。己の死を意識する詩句が続く。

  死ぬものは一切を語る権利がある。 (『遺言』七十一節)

 (13)葡萄酒は多くの立派な家を滅ぼしてしまう
  Vin pert mainte bonne maison. (『遺言』九十七節)

 『遺言』は、ヴィヨンが自己の越し方を万感の思いで振り返ると共に、『形見』ですでにあらわれているように、ナンセンスな遺贈品を贈ることによって、当時の人びと、支配者層などを風刺する作品となっている。この、ことわざを含む詩節は、大酒のみのパリの選良の風刺となっている。

  一つ、パリの選良
  ドニ・エスラン殿には
  命かけてチュルジーの店から盗んだ
  オーニスの葡萄酒 十四樽を贈る
  飲みに飲んで、その果てに
  正気も理性もなくすなら
  樽に水を入れてやれ
  葡萄酒は多くの立派な家を滅ぼしてしまう (『遺言』九十八節)

 酒はしばしば人間を破壊に導くというよくあることわざを利用し、ヴィヨン特有のイロニーを表現している。とは言っても、酒と女の日々の果てに、自己破産したヴィヨンにもかえってくることわざでもある。

 (14)学あるやつが 常に上役にたつとは限らない
   Tousjours n'ont pas clers l'au dessus. (『遺言』一二八節)

 塩の売買などで大金持ちになった三人の男を子供扱いにして、学校へ行かせてやろうとからかう詩節にあらわれる。

  あんまり深い学問はやらせたくない
  学あるやつが 常に上役にたつとは限らない (『遺言』一二八節)

 学のないやつが大金持ちになり、パリ大学修士の学歴をもち、その作品に深い教養が遍在するヴィヨンが哀れな生涯を送ることになる逆説を述べているともいえる。

 (15)パリの女ほど口達者はいない
  Il n'est bon bec que de Paris. (『遺言』「パリ女のバラード」)

 ドビュッシーも作曲している有名な「パリ女のバラード」のルフランである。ヴィヨンの詩句がことわざになっている例である。いわゆる「ことわざ辞典」には、普通に引用されている。おんなたちのおやべりについては、 Trois femmes font une marche 「女三人よれば、市のにぎわい」といことわざがある。口達者なパリー女に翻弄されるヴィヨンの自画像は、作品のいたるところにでてくる。
 なお、Badaud de Paris 「ぱりの野次馬」と物見高いパリー衆のことをいったり、N'avoir que du bec と、bec を使った「無駄口をたたく」という表現も、「ことわざ辞典」に頻出する。

 (16)とかく若者はくいたがる (『遺言』一二九節)
  Car jeunesse est ung peu friande.

 食欲(好奇心)にまかせて、ひもじさを忘れるために、若者・ヴィヨンはずいぶん悪いことをした。

 (17)小者には、小銭
  A meune gent menue monnoye.    (『遺言』一五三節)

 当時よく使われていたことわざである。相手の身分に応じて振る舞えという意味になる。A petites gens, petite monnaie. ともいう。また、中世以来、現在でもよく使われることわざに、A petit saint, petite offrande. 「小さな聖者には、小さな供物」がある。慈善病院になにを贈って良いかわからない、と表面的には真面目な詩節である。一見貧しいものにはやさしいヴィヨンがここにある。ただ、中世はある意味では、きびしい社会である。弱者を弱者として、あざ笑う表現がよく出てくる。ヴィヨンのこの詩句には、同情を見せながら、弱者にけっこうきびしい、ある意味では己の同類にきびしいヴィヨンのある面が窺われる。

  一つ、慈善病院や 多くの貧乏な
  施療院には なにを贈って良いかわからない
  ここは、ふざけている場合じゃない
  貧乏人は、充分な苦しみをうけているのだ
  食べ残し物を あげてください
  前に、托鉢修道僧に鵞鳥を与えていたので
  せめて、残りの骨ぐらいは、この人々に贈りたい
  小者には、小銭

 ただ、托鉢修道僧、たとえば、フランシスコ派やドミニコ派などの修道僧は、Menus とも呼ばれていて、ヴィヨンの作品のいたるところにあらわれる托鉢修道僧に対する揶揄を考えれば、報われる事の少ない単に貧しいものへの思いを述べているだけではなく、托鉢修道僧たちは、小銭ならぬものを得ているという逆説的な表現になっているようにおもわれる。ヴィヨンのフランシスコ派やドミニコ派などの修道僧に対する憎しみは、養い親のメートル・ギヨーム・ド・ヴィヨンの所属していた教会が、反托鉢修道僧の立場にあったこともあるが、内部的には退廃的な生活を送りながら、偽善的な教えを説く、一部の托鉢修道僧に対する反発があったはずである。このことわざに、学僧になる資格を持ちながら、小銭にしか、いや、小銭にさえあまり縁のなかったヴィヨンの恨みの気持ちを読みとることもできるのである。

 (18)美少年どもよ、君たちの帽子を飾る
  一番綺麗な薔薇の花をもぎとられるぞ (『遺言』一五八節)

 これは「不良少年訓戒歌」の中に出てくる。「君たちの帽子を飾る一番綺麗な薔薇の花」は、ようするに頭である。首をはねられることになるというわけである。「不良少年訓戒歌」は、放蕩のやからに、そのような生活を送っていると、結局は処刑台にのぼることになると語りかける歌である。その例として、ヴィヨンがナヴァール学院に一緒に盗みに入ったコラン・ド・カイ'ーの名が挙げられている。盗賊団のコキヤール党員でもあったコラン・ド・カイユーとのつきあいや、コキヤール党の隠語を使った『隠語によるバラード』を残しているなどヴィヨンとコキヤール党の関係は、党員ではなかったとしても、関わり深いものがあったとおもわれる。コラン・ド・カイユーは一四六〇年絞首刑に処せられることになる。いずれにしても、ヴィヨンの若い時代が反映されていることわざである。perdre la plus belle rose de son chapeau 「帽子を飾る一番綺麗な薔薇の花をもぎとる」というかたちで、ことわざ的に使われる表現である。

 (19)悪銭は所詮身に付かぬ
     Jamais mal acquest ne proufficte. (『遺言』一五八節)

 (17)で触れた「不良少年訓戒歌」の最後の詩句である。いわゆる泥棒詩人のヴィヨンの苦い思い出が反映している。今では Bien mal acquis ne profite jamais. というかたちで基本的なことわざになっている。
 ちなみに、「不良少年訓戒歌」に続く「教訓のバラード」は、

  さて、得たお金はどこにゆくか
  すべては、酒場と女の所へ

と、「すべては、酒場と女の所へ」というルフランになっている。

 (20)どんなうまい歌でもそのうち飽きる
  De beau chanter s'ennuyt on bien (『遺言』一七〇節)

 モラウスキーの『十五世紀以前のフランスのことわざ』の170番に、De bel chanter s'anuie len. というかたちで掲載されている。
 歌い飽きたのか、生きるのに飽きたのか『遺言』の最後で、ヴィヨンは、黒葡萄酒(モリヨン)をぐいと一杯ひっかけ、『遺言』の世界とともに、この世からおさらばをするのである。一四六三年、死刑判決を減じられ、追放の刑に処せられたヴィヨンの行方は杳としてわからない。

 (21)賢い母には 賢い子
  De saigne mere saigne enfant. (『雑詩』「マリー・ドルレアンへの書簡詩」)

 『雑詩』から一つだけあげておく。大公シャルル・ドルレアンの娘マリー・ドルレアンが誕生したさいの祝賀の歌の中にでてくる。結局は、失敗することになるのだが、あわよくば禄をはもうとしたのか、大げさな、歯の浮くような詩句の連続といった歌である。詩人という独立した職業がない時代、王侯に仕えるのが生計をたてる手段の一つである。ナヴァール学寮への盗みのあと、ヴィヨンはフランス各地を放浪するが、シャルル・ドルレアンのブロワの宮廷にも顔をだしていたようで、

  泉のそばにいて、喉が渇いておれは死ぬ

  泣きながら笑う

 などの有名な詩句を含む「ブロワ詩会のバラード」とともに、この「マリー・ドルレアンへの書簡詩」の写本が残っている。この詩の終りに

 命尽きる日まで 心から
 奉公いたしたいと思います
 姫の哀れなる学徒、フランソワは

 と、フランソワ・ヴィヨンは、自分の名を記している。
 ただ、「賢い母には 賢い子」はことわざとしては、ある意味では平凡なことわざである。 Telle mere, telle fille. 「この母にして、この娘あり」や Tel pere, tel fils. 「この父にして、この息子あり」といまでも、普通に使われることわざであり、中世にもさかんに使われた。モラウスキーの『十五世紀以前のフランスのことわざ』には、それらと共に De pute mere pute fi(i)lle. 「ふしだらな母には、ふしだらな娘」といことわざも収録されている。
 しかし、平凡と言っても、決して浅いというわけではない。ことわざには長い間の庶民の経験・知恵の結晶という面もあり、このことわざも、深い経験に裏打ちされているのである。
 ヴィヨンの生涯にひきつけると、「賢い母に、愚かな息子」と、そしてまた「哀れな母に、哀れな息子」といわざるを得ないかも知れない。実際、モラウスキーの『十五世紀以前のフランスのことわざ』には、Mere pitieuse, fet fille teigneuse. 「憐れみぶかい母親は、意地悪な娘をつくる」がある。そしてまた、Pere doux et piteux fait les enfants malheureux et paresseurx. 「やさしい憐れみぶかい父親は子供らを不幸にし怠け者にする」と、子供をきびしく鍛えることを奨励することわざがある。ただ、ヴィヨンの母がどういう人であったかよくわかっていない以上は、そしてヴィヨンの生涯も本当の意味ではわかってない以上は、彼が残したといわれる作品をよすがとするしかないのである。
 『遺言』の遺贈品として、母へ「聖母マリアに祈るためのバラード」を贈る。

  一つ、わが哀れな母が おれのお陰で 数々の悲哀や
  辛い懊悩をなめた次第は 神さまもご存じなのだが
  その母が 聖母マリアにお祈りを
  ささげるために、バラードをおれは与える
  おれとても不幸がわが身をおそう時
  聖母の他には、わが肉体も魂も
  のがれ隠れる城がない、砦もない
  わが母とて同じ事、哀れな女よ (『遺言』八十九節)

 ヴィヨンが母になりかわって作った「聖母マリアに祈るためのバラード」では、母は自分のことを「何ひとつ 取るに足りない女」、「貧しい老婆」、「なにも存じておりませぬ。皆目文字が読めませぬ」と言い、聖母への加護を祈るのである。
 「マリー・ドルレアンへの書簡詩」の中で、「賢い母には 賢い子」と、ある意味では歯の浮くような詩句を書きながら、ヴィヨンは自分の母のことを思い出す余裕はあったのだろうか。

あらためてことわざとは

 ことわざは人生の真実を語る。ただし、断片的にしか語らない。もしそれが、人生のある真実を表現していても、それに反する真実も存在し、それもちゃんと用意されている。(たとえば、前の章の(18)にも関わる、「この父にしてこの子あり」ということわざに対して、「けちんぼ親父に放蕩息子」といった具合に。)人生は矛盾にみちている。そして、ことわざも、ひとつひとつは人生のある側面は表現しえても、全体となるとほとんど不可能である。片言による表現の運命がつきまとう。一人一人の人間がそれぞれの価値観をもっていると同じように、ことわざもそれぞれの価値観を表現している。その価値観を受け入れるかどうかは、そのひとのいきざまにかかわることである。ひとは、ある判断をしているつもりになっていることもある。そして、それは絶対正しい判断だと思ったりする。しかし、そう判断しないひともいる。その際、判断の基準として、ある思想が、問題になったりする。思想と言っても、それほど深遠なものでなく、ある簡単な言葉、キーワード、ことわざ的なものである場合が多い。逆説的に言えば、一見単純に見えることわざはそれほど深遠なものである。信条もある意味では、ことわざであり、どのような信条を持つか、どのようなことわざを是とするかによって、それぞれの属する陣営が分かれるのである。いろいろな意見がある。色々なことわざがある。肯定できないことわざがある。どのことわざを自己信条にとりいれるかによって、生き方も変わる。生き方がかわっていれば、とりいれることわざも違う。さまざまなことわざが、矛盾にみちた人生を表現する。そして、ヴィヨンは矛盾に満ちたおのれの生を表現するのに、自分の思想の表現にかなったことわざを大いに利用した。ヴィヨン詩にはことわざが大きな役割をはたしているのである。そして、ヴィヨンの用いた八音綴の詩形式は、日本の七・五調もそうであるように、ことわざの表現に適していたことを忘れてはならない。いいかえると、ピノーの言うように「ヴィヨンがことわざをもって自分の思想の最も忠実な表現と見ただけではなく、また作詩上の道具と見て、極めて重要視したことはあきらかである」のである。

 最後に、ことわざの定義や、ヴィヨン詩のことわざに関する発言などを、いくつかあげてみることにする。

 「ことわざは民衆の経験の成果である。しかも、あらゆる時代の良識が短い形式として表現されている。」(リヴァロール)
 「ことわざとは、一般に隠喩的な形をとる、簡明な表現で、これにより、民衆の英知がその人生経験を表白する。」(ジャック・ピノー)
 「ことわざの《研究》は十六世紀にはじまる。それ以前の中世の人々はそのことわざを《生きていた》のである。」(ジャック・ピノー)
 「人生の出来事のひとつひとつを、道徳範例のかたちに示したい、判断は、これをひとつのセンテンスにまとめ、なにか手ごたえのある、うむをいわさぬものに仕上げたいという気持ち、手みじかにいえば、思考の結晶化を願う心理のプロセスは、そのもっとも普遍にして自然な表現を、ことわざに見いだす。ことわざは中世人の思考にあって、たいへん生き生きとした機能をはたしていた。」(ホイジンガ『中世の秋』)
 「ヴィヨンの独創性はことわざの中にあるのではない。ことわざを選び、しかるべき場所に置き、それにしかるべき意味を与え、それにより、人生全体を表現したことにある。」(シチリアノ)
 「ヴィヨンの創造的な活動は、しばしば、ことわざやことわざ的いいまわしから出発し、展開していくのである」(デュフルネ)

 後書き

 ヴィヨン詩にあらわれる重要なことわざを説明する中で、ヴィヨン詩の特徴を浮き彫りにしようとした。ヴィヨン詩の中のことわざすべてを列挙し、分類することからうまれるものもあるであろうが、ここではその方法をとらなかった。「ヴィヨンとその世界」という一連の論の中で、ここでは「ことわざ」に焦点をあてることによりヴィヨン詩の魅力をえがいてみたいと思ったのである。

 参考文献

 参照したヴィヨンのテキストについては、それぞれの注釈は貴重であるとはいえ、数多いので、ここでは煩雑になることを避けすべてはあげない。ただ、現在のヴィヨン・テキストの基準となっているRychner et Henry 版(本論の引用もこの版による)と、入手が容易で読みやすく、注も参考になる四著と、合計五つだけあげておく。

 Rychener et Henry : Testament Villon, Le Lais Villon et les Poemes varies, Index , Droz, 1974,1977,1985 5vols
 Lanly, Andre : Francois Villon oeuvres, Honore Champion, 1974
 Thiry, Claude : Francois Villon Poesies completes, Le Livre de Poche "Lettres gothiques", 1991
 Lanly, Andr : Villon : oeuvres Texte et traduction, Honore Champion, 1991
 Dufournet, Jean : Francois Villon Po市ies, Flammarion, 1992

 ことわざに関するものでは、Larousse などの大小のフランス語辞書やフランス語百科事典を除いて、主に利用した本は次の通りである。

 Quitard, P.-M. : Dictionnaire des proverbes, 1842 (Slatkine reprints, 1968)
 Morawski, J. : Proverbes francais anterieurs au XVe siecle, Champion (CFMA), 1925
 Hassell, J. W. : Middle French Proverbs, Sentences, and Proverbal Phrases, Ponctifical Institute of Mediaeval Studies, 1982
 Rat, M. : Dictionnaire des Locutions francaises, Larousse, 1957  Duneton, C. : La puce a l'oreille, Anthologie des expressions populaires avec leur origine, Editions Stock, 1978
 Dictionnaire de Proverbes et dictons, Robert, 1986
 Maloux, M. : Dictionnaire des proverbes sentences et maximes, Larousse,1988
 Dournon, Le dictionnaire des proverbes et dictons de France, Hachette, Le Livre de Poche, 1986
 Pineaux, J. : Rroverbes et Dictons francais, P.U.F.,1956
 (邦訳 田辺貞之助訳、『フランスのことわざ』、白水社《文庫クセジュ》、1957)
 Guiraud,P : Les Locutions francaises, P.U.F.,1961
 (邦訳 窪川・三宅共訳、『フランスの成句』、白水社《文庫クセジュ》、1962)
 田辺貞之助編、『フランス故事ことわざ辞典』、白水社、1977
 渡辺・田中共編、『フランス語ことわざ辞典』、白水社、1977
 渡辺・田中共編、『フランスことわざ名言辞典』、白水社、1995
 堀田・奥平・植田共著『フランスことわざ歳時記』、教養文庫、1983

 その他ヴィヨン詩関係など、参照にした文献については煩雑をさけ、本文で直接言及したものだけに限って、引用順にあげておく。

 Champion, P. : Francois Villon Sa vie et son temps, Champion, 1913
 Favier, J. : Francois Villon, Fayard, 1982
 鈴木信太郎訳、『ヴィヨン全詩集』、岩波文庫
 Pinkernell, G. : Une nouvelle date dans la vie et dans l'マuvre de Francois Villon : Le 8 octobre 1485 , Romania, 415. 1983.
 Poirion, D. : Litterature francaise Le Moyen Age II 1300-1480, Arthaud, 1971
 ホイジンガ、堀越訳、『中世の秋』、中央公論社
 Sicilliano, I. : Francois Villon et les themes poetiques du Moyen Age, Paris, Colin, 1934 (1967)
 Dufournet, J. : Nouvelles Recherches sur Villon, Editions Honore Champion, 1980


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 初出「静岡大学教育学部紀要」1997.3

 なお、上記論文はフロッピーによる紀要原稿提出時のテキストの再生である。校正時に若干変更を加えている。その点は今後訂正したい。また、フランス語が文字化けしないように、アクサンを省いている。

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