静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇 59, 53-70, 2008(発行2009)  

    モンテーニュと文化相対主義
       −−『エセー』 第1巻31章と第3巻6章を中心に−−    Montaigne et le relativisme culturel                              佐々木敏光
    もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神である。                (『エセー』第3巻3章、以下「III−3」のように表記する。)     わたしは人間だ、人間のことで、何ひとつわたしに無関係なものはない。          (テレンチウス−−モンテーニュの書斎の天上の梁に刻まれた文章のひとつ) (1)文化相対主義  地球が実に狭くなったグローバリズムの現代、いろいろな意味において共生が語られることが多い。 国際問題、環境問題などを含め、広い意味での共生なくして人間の未来はないと思える。さて、共生に 関わり、良く使われる語彙に文化相対主義がある。それぞれの文化にはそれぞれの価値が有り、優劣を 比較できるものではないという視点である。余計な優劣の比較からは摩擦しか生まれない。もちろん単 純な相対主義は自民族中心主義、自文化絶対主義に対しては有効な論点をもたらさず、かえって有害な 場合もある。人間である以上人類共通の普遍的な面の追求はなされなければならない。人としての尊厳、 人権を脅かす習俗、習慣などには目をつぶることがあってはならない。といっても絶対的普遍をかかげ て、一面的な見方をおしつけるようなことがあってはならない。特に、キリスト教的一神教、オリエン タリスムなどを含めて、西欧中心の考え方の押し付けが、歴史上植民地主義などを通じて行われてきた のは事実だし、また、政治的、領土的背景があり、文化の違いだけでは無いにしろ異なる文化を背景と する紛争の種が尽きないのが現実である。そうした背景の中でこそ、文化相対主義の意義があり、現代 にいかされべきである。  さて、文化相対主義はもともと人類学の用語であるが、その発想の先達のひとりとして、フランス16 世紀の文人、モンテーニュ(1533−92)がいる。『エセー』の著者モンテーニュを通して、そういっ た文化相対主義の萌芽に関わる面をのべてみたい。  すでにフランス文学の古典となっている『エセー』には文化相対主義に関わる文章もあるのである。 と同時に、『エセー』には、日本思想というか日本を含めた東洋思想(たとえば、山川草木悉皆成仏と いった思想には、共生、相対主義が反映されている)にも通じる文章もあるのである。ただ、東洋思想 との比較などは、別の機会にふれることにして、小論では簡単な指摘程度にとどめておきたい。さて、 文化相対主義についていうとモンテーニュは、当然人類学などの専門家としてではなく、人間性と人間 の生き方とを探求するモラリストとして関心を持ったのである。モンテーニュが、当時の偏見でもあっ た新大陸の人間を単なる野蛮人(バルバロイ)やキリスト教徒になりきれない存在ではなく、キリスト 教徒に優るとも劣らない存在として見ていた記述があることは周知の事実であり、この点に関して文化 相対主義の先駆者といえるわけである。(一方「善良な未開人」のテーマはギリシア・ローマの古典を 引用したりして、モラリストの伝統的なテーマのひとつでもあった。)また、モンテーニュその相対主 義を克服する道筋を具体的に展開しているわけでもない。ここではモンテーニュを中心に、文化相対主 義自分なりのまとめかたができればと思うのである。  ピーター・バーグ(『モンテーニュ』)の言を引用しておく。「少なくとも二〇世紀後半の読者であ る我々がモンテーニュにみられるもっとも顕著な特色を一つ挙げるとするなら、それは、彼が幅広く他 文化への興味を示し、また自民族中心主義から自由であったことである。彼が自民族中心主義をれてい たのは、他者にみられる自民族中心主義を鋭く認識していたからである。」  モンテーニュ自身の言からも、文化相対主義に通じる部分を引用しておく。   私は自分の尺度で他人を判断するという万人に共通の誤りを全然もち合わせない。私は、他人の中 にある自分と違うものを容易に信用する。自分もある一つの生き方に縛られていると思うけれども、皆 のように、それを他人に押しつけることはしない。そして、たくさんの相反する生き方があることを信 じ、理解している。また、一般の人々とは反対に、お互いの間にある類似より差異の方を容易に  受け入れる。私はできるだけ、他人を私の生き方や主義を共にすることから解放し、単に彼自身とし て、他とは関係なしに、彼自身の規範に従って考察する。   (I−37)    以下、『エセー』第1巻31章と第3巻6章を中心に具体的な記述から、文化相対主義に関わる発言 を見ていこう。  新世界発見の興奮の余韻を受けて、フランスも遅れじとばかりに、ポルトガルが勢力を誇っていたブ ラジルにヴィルガニョンを派遣し、植民地の建設(1557年)をしたりした時代、結局撤退することに なったが、新世界進出への欲望が渦巻いていた時代である。と同時に国内では、無益な宗教戦争という 内乱が猖獗を極めていた時代である。 (2)『エセー』第1巻31章と第3巻6章  『エセー』第1巻31章は「食人種について」、第3巻6章は「馬車について」という名の章となっ ている。ともに、野蛮といわれている新世界(アメリカ大陸)の人達も、決して野蛮といえるものでは なく、ある意味では、ヨーロッパ大陸の人々とはまさるとも劣らない面があることを述べている章であ る。モンテーニュの特質のひとつである相対的思考が遺憾なく発揮されている章である。  直前の1492年の新世界発見以後、16世紀に入って、スペイン、ポルトガルを先頭にヨーロッパ世 界から新世界への進出、侵略、搾取は止めどなきものとなっていた。先住民に対する不当、残酷な面も かずかず出てきた。モンテーニュはこれを人間性の名において痛烈に告発する。  I.第1巻31章「食人種について」    まず、第1巻31章「食人種について」。文化相対主義にあたる記述は他にもあるが、次の文章から 始めよう。   さて、話を元に戻すと、新大陸の国民について私が聞いたところによると、そこには野蛮なものは 何もないように思う。もっとも、誰でも自分の習慣にないものを野蛮(barbarie)と呼ぶなら話は別で ある。まったく、われわれは自分たちが住んでいる国の考え方や習慣の実例と観念以外には真理と尺度 をもっていないように思われる。だがあの新大陸にもやはり完全な宗教と完全な政治があるし、  あらゆるものについての十全な習慣がある。彼らは野生(sauvage)である。われわれは自然がひと りでに、その自然な推移の中に生み出す成果を野生と呼ぶのと同じ意味において野生である。[…] われわれは自然の作物の美しさと豊かさの上に、あまり多くの作為を加えすぎて、これをすっかり窒息 させてしまったのだ。けれど自然はその純粋さの輝くいたるところで、われわれのはかなくつまらない 試みに赤恥をかかせている。(I−31)  同じ章において、野蛮に関して、ギリシア時代においては蛮族といっても野蛮な面はなかった例をあ げている。そして、蛮族とレッテルを張る前に注意すべき点として次のように言う。   いったいどこの蛮族か知らないが(ギリシア人は外国人をすべて蛮族と呼んでいた)、この軍隊の 隊形はけっして蛮族のものではない。[…]だから、われわれは俗説にとらわれないように用心しなけ ればならない。一般大衆の声で判断してはならない。(I−31)  そして、当代における見当違いを指摘する。   将来、果たして何か別な発見がなされないと断言できるものかどうか判らない。今度の場合(=ア メリカ大陸発見)にも、あんなに多くの我々よりえらい方々が、見当ちがいをなさったのだから。                           (I−31)  プラトンを援用していう。   プラトンはこう言っている。「万物は、自然か、偶然か、技術のいずれかによってつくられる。 もっとも偉大で美しいものが前の二つのいずれによって、もっとも小さくて不完全なものが最後のも のによってつくられる」と。   そこで、あの大陸の民族はほとんど知識の訓練を受けておらず、いまだ彼らのはじめの素朴さのご く近くにいるということのため、あんなにも野蛮であるように思われる。自然の法則がわれわれ人間の 法律によって損なわれずに、いまもなお彼らを支配しているのである。     (I−31)   私はプラトンに言ってやろう。「この国にはいかなる種類の取り引きも、学問の知識も、数の知 識もない。役人という名前も、政治家という名前もない。奴隷の使用も、貧富の差もない。契約も、 相続も、分配も一切ない。遊んでいる以外には何も仕事がない。[…]嘘、偽装、吝嗇、嫉妬、悪口、 容赦な等を意味する言葉も聞かれたことがない」と。(I−31)  なお、この文章は、シェイクスピア『あらし(テンペスト)』にも引用されていることで有名で、シェ イクスピア事典などには、普通に引用される箇所でもある。  『あらし』は航海時代を反映した劇で、嵐で孤島に難破といった構成をもっている。2幕1場でゴン ザーローが述べる文明に毒されない自然のままの国家のイメージは、空想的な原始生活礼讃の諷刺になっ ていている。しかし後にカリブ海のマルティニク島出身のエメ・セゼールが『もうひとつのテンペスト』 (1969)を発表し、海外進出を支えるイデオローグ批判、植民地批判の現代的文脈で再構成されてい る。シェイクスピア『あらし』でモンテーニュ『エセー』の英訳(1603)中の「食人種について」の 章を利用している。   シェイクスピアが『エセー』をジョン・フローリオ訳(1603)で読んだことは、同訳第1巻「食 人種について」の章の"It is a nation that hath no  kinde of traffike, no knowledge of Letters, .... no name of magistrate" (「この国には、いかなる種類の取り引きもなく、文字の知 識もなく[…]役人という言葉もない」)以下と、『あらし』2幕1場でゴンザーローが語る"No kind of traffic / Would I admit ; no name of magistrate; / Letters,  should not be known"以下の理想国家とのあいだに、内容のみならず多くの語句の一致があることから、確実であ る。                   (高橋康也編『研究社シェイクスピア辞典』)   ついでに、シェイクスピア『テンペスト』(小田島雄志訳)を引用しておく。忠実な老顧問官ゴン ザーローのせりふである。   ゴンザーロー 私がこの島をまかされるとすれば−− […]   その国家では、万事世のなかと逆にしたいと思います。   まず、取引はいっさい認めません。官職は廃し、   学問は広めず、富裕とか貧乏とかの差をなくし、   したがって奉公というものもなくなるわけです。   契約、相続、境界、領地、田畑、葡萄畑などなくし、   所有権をめぐる法律問題も起らなくなります。   金属、穀物、酒、油などの使用を禁じ、職業はなにも   なくなります。男はみんな遊んで暮します。   女もです。ひたすら無心に清純に生きるのです。   君主権もなくします−−             […]   暮しに必要なものは自然が産み出してくれます。  もちろんモンテーニュは食人を異議なく認めるわけではない。むしろ宗教の名の下に内乱をくりかえ しているフランスに対して、当時のフランスの宗教内戦の残酷さを浮彫りにするために問題にする。フ ランス本国における拷問や火刑を含む野蛮の告発である。   山の向こうの別の民族との戦争の後「各人は戦勝のしるしに、殺した敵の首を持ち帰り、自分の 戸口にかけておく。そして捕虜を長い間十分にもてなし、思いつくかぎりの便宜を与えたあとで、主 人公が自分の知り合いを大勢招集する。(そして殺した後)火あぶりにして、皆で一緒に食べ、来な かった人々にはその肉片を届けてやる。これはわれわれが考えるように、昔のスキュティア人がした よう に滋養にするためではなくて、ただ彼らの最上の復讐を表すためである。  (I−31)   私は、このような行為のうちにおそろしい野蛮さを認めてかなしむのではない。むしろわれわれ が彼らの過ちをこっぴどくやっつけながら、われわれの過ちにまったく盲目であることに悲しむので ある。私は死んだ人間を食うよりも、生きた人間を食うほうがずっと野蛮だと思う。まだ十分に感覚 の残っている肉体を責苦と拷問で引き裂いたり、じわじわと火あぶりにしたり、犬や豚に噛み殺させ するほうが、(われわれはこのような事実を書物で読んだだけなく、実際に見て、なまなましい記 憶として覚えている。それが昔からの敵だけでなく隣人や同胞の間にもおこなわれているのを、しか もなおいけないことには、敬虔と宗教の口実のもとにおこなわれているのを見ている。)死んでから 焼いたり、食ったりすることよりも野蛮であると思う。(I−31)  それに対して、新世界の原住民は、   かれらの戦争はまったく高貴で、毅然としている。そしてこの人間の病気(戦争)が受け入れら れる限りの美しさを持っている。この戦争はかれらの中では、ただ勇気に対する執着のほかにどんな 根拠を持ってもいない。かれらは新しい土地を征服するために戦っているのではない。なぜならかれ らは仕事もせず苦労もせずに必要なもの一切をたっぷり提供してくれるあの自然な豊かさに今でも与っ ているからで、土地の境界を広げる必要などないのである。かれらは今でも、自然な要求が命じる ものしか欲しがらないというあの幸福な地点にいる。それ以上のものはかれらには余計なのだ。                           (I−31)   嘘でなく、これがわれわれとくらべてたいへん野蛮だと言われる人たちなのだ。まったく、彼ら が本当に野蛮であるか、それともわれわれのほうが野蛮であるにちがいない。彼らとわれわれの在り 方には非常な相違があるのだから。                            (I−31)  モンテーニュは、彼らの戦いにおける「武勇への熱意」「気迫の強さ」を語る。また彼らの文化的 才能についても、毒蛇を比喩として使った原住民の「恋の歌」の「野蛮なところのない」(I−31) 芸術性の高さなども指摘する。  また、モンテーニュは実際、1562年ルアンで、フランスにつれてこられたアメリカ原住民とあって いる。そのことについて素直な感想を述べる。   彼らの中の三人の者が、[…]先王シャルル九世のご滞在中に、ルアンに見物にやってきた。 […]   彼らが言うには、「まず第一に、王様のまわりにいる、あんなに大勢のひげを生やした、逞しい、 武器を持った大きな男たちが(これはスイスの近衛兵のことを指しているらしい)一人の子供にぺこ ぺこしていることと、むしろ彼らの間から誰かを選んで支配者にしないことが実に不思議である。第 二に(彼らの言葉では他人のことを自分の半分と呼ぶ習慣がある)あなた方の間にはあらゆる種類の  幸福をあふれるほどにもっている人たちがいるのに、その半分たちが飢えと貧困に痩せ細って彼ら の門前に乞食をしていること、しかもこれらの貧乏な半分たちがこれほどの不正を忍びながら、他の 半分たちの首を締めたり、家に火をつけたりしないことが実に不思議である」と言った。                                 (I−31)  そして、「これらはすべてひどく間違ってはいない」といい、さらに「だが、どうだろう。彼らは (我々のように)半ズボンなどはいていないのである」とユーモアをもってこの章を終えるのである。  II.第3巻6章「馬車について」  「馬車について」の章は、馬車の話しにはじまり、円形競技場の話し、そして新世界、原住民につい てというか、文化相対主義に通ずるテーマとなっているが、彼は、まず、ヨーロッパ中心主義を彼なり に批判する。ヨーロッパ人が印刷や火薬の発明を奇跡呼ばわりしていたとき、「世界のもう一方の先端、 中国では、千年も前にそれらを享受していた人たちがいた」ことをモンテーニュは彼らに思い出させる。                                  (III−6)  さて、新大陸であるが、   われわれの世界は最近、別の世界を発見した。[…]それはわれわれの世界に劣らず、大きく がっちりしていて、手足も逞しいが、あまりにも新しく、あまりにも子供なので、いまだにABCを教 えられている。それはつい五十年前まで、文字も、重さも、寸法も、着物も、葡萄も知らなかった。                                     (III−6) といったことを確認し、そしていかに野蛮な方法で、スペイン人たちが征服、植民していったか非難す る。ルネッサンス人らしく、古代のギリシア・ローマを擁護しつつ。   これほど高貴な征服が、なぜアレクサンドロスか、あの古代のギリシア・ローマの人達のもとで おこなわれなかったのか。これほど多くの帝国と国民にこれほど大きな変化と変貌を加えるのであれ ば、なぜそれが、野性的なところは穏やかに磨いて開拓し、自然がそこに生み出した良い種はこれを 強化して発育させたであろう人達の手によって行われなかったのか。そういう手であれば、土地の耕 作と町の美化に、必須な範囲でこちらの技術を交ぜるだけでなく、その国に原初の 美徳にギリシア・ ローマの美徳を交ぜ合わせることもできただろうに! 向こうで示されたわれわれの最初の手本と振 舞いがあに国々の人たちに美徳の讃美と模倣に向わせて、かれらとわれわれの間に友好的な交流と理 解を打ち立てたとすれば、全世界にとってどれほど償いと改良になったことか? かれらの魂はあれ ほど初々しく、あれほどものを習うことに飢えていて、大方は生まれつき立派な素質を備えているから、 そうした魂を立派に活かすことは何の造作もなかったのだ! (III−6)  原住民の賢明さについても述べる。   彼らの返答と交渉の大部分は、彼らが生まれつきの賢さにおいても、適切さにおいても少しもわ れわれに劣らないことを示している。[…]   彼らが工芸においてもわれわれにひけをとらないことを示している。けれども、信心、遵法、善 良、気前のよさ、忠実、率直などについては、われわれは彼らほどにこれらの徳をもたないことで大 いに得をした。彼らはこの点ですぐれていたために、かえって身を滅ぼして、売られたり裏切られた りした。  (III−6)   まったくわれわれは。一方かれらを征服したスペイン人から、かれらを欺くために用いた奇計策 略を取りあげ、他方新世界の人々からは、ことばといい宗教といい顔つきや態度といいまったくちが うひげむじゃの人間(征服スペイン人)が、思いもかけずあれほど遠い、かれらが人が住むとは思わ なかったほど遠いところから、しかも大きな見知らぬ怪物(馬)に乗って攻めてくるのを見たときの 無理からぬ驚きを取り除いたうえで、両方を比較したみたのでなければ、どちらがすぐれているかき めるわけにはゆかないのである。(III−6)  ヨーロッパ(主にスペイン人)に対する批判が続く。ペルー王、メキシコ王が、物欲と血気に駆られ たスペイン人たちの掠奪と殺戮にさらされるさまを具体的な例の二つあげて語る。   ところが逆に、われわれは彼らの無知と無経験を利用して、われわれの生き方をお手本にして、 いっそう容易に裏切りと、奢侈と、吝嗇とその他あらゆる非 人道と残虐の方向へ、彼らを曲げてし まったのである。誰がこれまでに商業と交易に対してこれほどの価値を払ったか。真珠と胡椒の取り 引きのために、これほど多くの都市が劫掠され、これほど多くの国民が絶滅され、何百万という人々 が 刃にかけられ、世界でもっとも富裕なもっとも美しい土地が顛覆されたのである。なんと卑劣な 勝利ではないか。かつてこれほどまでにいかなる野心も、いかなる国家の野心も、人間同士をこれほ どの恐ろしい敵対関係に、これほどの悲惨な災難に駆り立てたことはなかった。 (III−6)  あるスペイン人たちの原住民に対する勧告。   「自分たちは、人間の住む世界を通じてもっとも偉大な君主であるカスチリヤ王(=イスパニア 王)の御命令を受けて、遠い旅路をはるばるやってきた平和の民であるが、我々の王には、地上に神 を代表して居られるローマ教皇(法王)が、全インドの支配を与えられている。もし、お前たちが、 この王に臣下の誓いをするならば、極めて懇ろに遇されるであろう。」        (III−6)  これにたいする彼ら原住民の返事。   「あなた方が平和の民であるということについては、もしそうだとしても、そんなふうには見え ない。あなた方の王は、物をねだるところを見ると、よほど貧乏で困っているにちがいない。また、 この王に全インドを与えたという法王とやらも、自分のものでないものを第三者に与えて、元の所有 者との間に悶着を起こさせようというからには、争いの好きな男に違いない。」    (III−6)  そして最終的な返答をおこなう。   「われわれは幸せに暮らすことだけを目指している。[…]だから、この 土地から退去される がよろしい。[…]さもなければ、あなた方にもこれらの人々と同じ目にお会わせ申そう」こう言っ て町のまわりで処刑された人々の髑髏を見せた。以上がこのいわゆる「幼い人々の片言」の一例であ る。[…]これが私がさきほど述べた食人種の証言するところのものである。(III−6)  III.同時代の証言  さて、以上二章の発言の源泉はどこにあるのだろうか。当時すでに、さまざまな旅行記、報告書など 出版されていた。モンテーニュもそれら何冊かは読んでいた。  第1巻31章「食人種について」は、彼の家の雇い人、かつてヴィルガニョンの建設した「南極アメ リカ」(ブラジル、リオ・デ・ジャネイロ近くのフランス人入植地、やがてポルトガルに追い払われる ことになる)に十年か十二年住んだことのある男に、直接聞いた話に主によっているとしている。モン テーニュは「彼は旅行中に知り合ったという多くの水夫や商人に何度も会わせてくれた。だから私はこ の男の報告書だけで、満足している。」といい、地理学者などは、知ったかぶりの特権をふりまわそう として、信用がならないと述べている。そういいながらも、ジロラモ・ベンツォーニの『新大陸の歴史』 (1565年)、ミラノ人で、それゆえ彼自身スペイン支配下にあったベンツォーニは、一四年間新大陸 に滞在し、スペイン人の残酷さを非難し、原住民の生活様式について詳細でかつ同情的な説明をしてい るのであるが、それを読んでいた可能性も高いようである。また、アンドレ・テヴェ(1558年刊)、 ジャン・ド・レリー(1578年刊)によってなされた、現地報告の書物を使い、その土地で知られた現 地人たちの建築、耕作、食料、祭典などの様子を書き込んでおり、それなりに利用しているとも思われ る。  ルアンでの話は、モンテーニュが1562年直接見聞した話である。  第3巻6章「馬車について」についてだが、第3巻は初版は2巻本であったのに、その後モンテーニュ が第3巻をつけ加えたものだが、その第3巻6章においては、第1巻で「だから私はこの男の報告書だ けで、満足している」といった書物に頼らない態度を表明していたモンテーニュもスペイン聖職者ロペ ス・デ・ゴマラの本を情報源として積極的に活用し、肯定的ではないがゴマラのことを「私の著者」 (III−6)と書いている。ゴマラの著書『西インド全史』(1552年)は、ピーター・バーグ(『モン テーニュ』)がいうように「皇帝カール五世にその歴史書を献呈したことから、ゴマラの態度は手に取 るようにわかる。スペイン人が到達する以前において、原住民は偶像崇拝者であり、食人種であり、獣 姦者であったと彼は言い放つ。彼は、新世界の征服や、スペインの生活様式やキリスト教への新世界の 住民の改宗を、神の御業として説明した。この著者がメキシコの征服者ヘルナン・コルテスの軍隊にい たことも言い添えておくべきであろう。[…]ゴマラは概してスペインの征服を、とりわけコルテスの 征服を弁護していた。」のである。  これらに関わる、当時の代表的な告発と論争の一部を簡単に紹介しておこう。 告発とは、ラス・カサスによる告発である。論争とは、ラス・カサスとセプルベダによる論争である。  まず、告発の代表的な書物として、バルトロメ・デ・ラス・カサス『インディアスの破壊についての 簡潔な報告』がある。若干引用しておく。   神はその地方一帯に住む無数の人びとを悉く素朴で悪意のない、また陰ひなたのない人間として 創られた。彼らは土地の領主たちに対し、また、現在彼らが仕えているキリスト教徒たちに対しても 実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また、温厚で口数の少ない人たちで、 諍いや騒動を起すこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心す  ら抱かない。   彼らは明晰で物にとらわれない鋭い理解力を供え、あらゆる秀れた教えを理解し、守ることがで きる。    スペイン人たちは、創造主によって前述の諸性質を授けられたこれらの従順な羊の群に出会うとす ぐ、まるで何日もつづいた飢えのために猛り狂った狼や虎や獅子のようにその中へ突進んで行った。こ の四〇年の間、また、今もなお。スペイン人たちはかつて人が見たことも読んだことも聞いたこともな い種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、 苦しめ、拷問し、破壊へと追いやっている。    キリスト教とたちがそれほど多くの人びとをあやめ、破壊させることになった その原因はただひ とつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れるのを最終目的と考え、できる限り短時日で財を築こうとし、 身分不相応な高い地位に就こうとしたことにある。彼らが世界に類をみないほど飽くことのない欲望 と野心とを抱いていたからである。また、インディアスがあまりに豊穣で素晴しい所であり、しかも、  そこに暮している人びとが非常に謙虚で辛抱強く、彼らを従属させるのがわけのないことであった からである。   さらにインディアス中のインディオは誰ひとりとして、キリスト教徒たちから度重なる悪事、強 奪、殺戮、乱暴、虐待を蒙るまでは、決して彼らに害を加えなかったし、それどころか、インディオ たちはキリスト教徒たちのことを天から来 た人たちと考えていた。これもまた、周知の事実である。  また、ラス・カサスとセプルベダによる論争も当時の代表的な論争である。  植民地の悲惨な状況を告発するラス・カサスに対してセプルベダはキリスト教的価値観による植民を 正当化しようとする。   一五五〇年にバリャリードで開かれた[…]公開討論会のひとつにおいて、人間を生け贄にする点 を持ち出してアステカ人の壊滅は正当だと考えるコルドバの司教座聖堂参事会員セプルベダに対して、 ラス・カサスは「むしろそうした生け贄の残虐行為自体がこの民族の人間的価値を示すものだ「という のは自分たちが 持っている最も貴重なものを自分たちの神々に捧げようする人々は間違いなく信心深 いからだ」と答えている。[…]《また彼らは宗教心において他のあらゆる民族を凌駕している。実際 彼らは、自分たちの民族の幸福のために自分の子供たちを生け贄として捧げる、この世で最も信心深い 国民なのだ》    (ジャック・アタリ『歴史の破壊 未来の略奪 キリスト教ヨーロッパの地球支配』)  ただ、この公開討論会は、最終的には明確な判定にはいたらなかったようである。  また、モンテーニュは新大陸の悲惨さを告発し、人間性への信頼を表現したが、一般的には、当時は まだ増田義郎が次ぎにいうような状態であった。モンテーニュが先覚者の一人といわれる所以である。   新大陸その他未知の世界に関する情報が、一般ヨーロッパ人の日常意識の中に吸収されてゆく速度 の緩慢さには、おどろくべきものがあった。一般的状況から言えば、ヨーロッパの十六世紀は、『暗 黒時代』の蒙昧を一掃するどころか、依然としてその圧倒的な影響下にあった。                             (増田義郎『新世界のユートピア』)  いずれにしろ、この二つの章におけるモンテーニュの態度は、西洋中心の視点を絶対視しない、相対 的な柔らかい視点を獲得している。  西洋至上主義の終焉をうたい、「栽培思考」(科学的思考)に対して「野生の思考」の復権をとなえ るレヴィ=ストロースなどの人類学者が、実際現地におもむかなかったとはいえ、モンテーニュを人類 学的源泉の一人としてあげるのももっともであると思われる。 (3)日本思想、日本を中心とした東洋思想との類似点  荘子などとの比較はフランスにもあり、日本でも関根秀雄が『モンテーニュ逍遥』で主に荘子と、ま た『モンテーニュと『徒然草』』といった日本人による博士論文がすでにフランスで書かれているよう であるが、ここでは、文化相対主義に通じる面を一つだけ簡単にのべてみることにする。  それは、モンテーニュが、ルネサンス時代の人らしく、一神教(キリスト教)とは違う土壌のギリシ ア、ローマの思想家の作品から彼の教養を育んでいて、豊かな自然から直接まなぶというギリシア的な 汎神論的な傾向を大いに見せるということと関わるという点である。この点で、東洋思想(たとえば、 宇宙の根本をなす道(自然)の存在を前提とする老荘思想、山川草木悉皆成仏といった仏教思想、「天 地と我同根、万物と我一体」といった禅思想)にある自然との共生、相対主義にも通じる面が出てくる わけである。  そういった傾向を受けて、ピーター・バーグは言う。   さらに、彼が老荘哲学の信奉者として解釈されるのもほとんど時間の問題にすぎない。実際、彼 は、その相対主義や自然への信頼や死の受容の点で、ほとんど老荘哲学の信奉者のようである。                (『モンテーニュ』)   こんなに熱心に、そして何事においても、あの古代の《最良の中庸》を賛美し、中庸の程度をもっ とも完全な程度と考えたこの私が、どうして並みはずれた、法外な老齢を望んだりしよう。自然の流れ に逆らうものはすべて不快かも知れないが、自然に従うものはすべて快適なはずだ。《自然に従って 起こるものはすべて善の中に数えられるべきだ。(キケロ)》(III−13)   死こそは、自然の営みの継続と変遷を育成するのにきわめて有益な地位を占め ているものだし、 この宇宙においては滅亡と破壊よりもむしろ生成と増加の役に立っているものなのだ。   こうして万物は新しくなる。   千の生命が一つの死から生まれる。   一つの生命の消滅は、千のほかの生命への移行である。(III−12)  そして、原住民がヨーロッパ人より善いのは、彼らが自然と身近に暮らす一方で、「我々は自然を捨 ててしまった」からである(III−12)と論じている。 (4)再び、文化相対主義について  モンテーニュの文化相対主義についてにあらためてふれるにあたって、既述の二章の外、他の章から、 文化相対主義の発想がでてくるもとになる彼の性格、感覚というか思考方法に関わる幾つかの文章を引 用しておこう。そこにはモンテーニュの懐疑主義的性格が大きく反映しているのである。彼が自民族中 心主義を免れていたのは、他者にみられる自民族中心主義的傾向を鋭く懐疑的に認識していたからであ る。  「習慣についてのエセー」(I−23)では、ヨーロッパ人なら奇妙で、滑稽で、唖然とさせるよう なことを、当たり前のこととみなす社会の具体的な例が次々と紹介される。「ある所では処女が自分の 隠しておく所をおおっぴらに見せ、[…]またある所では男が売春をし、[…]女が戦いに行く所や、 […]女が立ち小便をし、男が座ってする所がある」。そして、「良心の法は自然から生じると言われ るが、それは習慣から生じるのである。[…]習慣の範囲をこえたものはどれも理性の範囲をこえたも のと考えられるのである」(I−23)と彼は言う。   私は自分の尺度で他人を判断するという万人に共通の誤りを全然もち合わせない。私は、他人の中 にある自分と違うものを容易に信用する。自分もある一つの生き方に縛られていると思うけれども、皆 のように、それを他人に押しつけることはしない。そして、たくさんの相反する生き方があることを信 じ、理解している。また、一般の人々とは反対に、お互いの間にある類似より差異の方を容易に 受け 入れる。私はできるだけ、他人を私の生き方や主義を共にすることから解放し、単に彼自身として、他 とは関係なしに、彼自身の規範に従って考察する。        (I−37)   われわれは、この世界において、ほんのわずかにところがへだたるだけで無限の相違と多様性があ るのを見ている。われわれの父親たちが発見した新しい土地では、小麦も葡萄酒もなく、われわれのと ころにいる動物たちのどのひとつもいないのだ。そこではすべてがことなっている。 (II−12)   われわれは樽のそこにたまったワインを嫌う。ポルトガルではその香気が芳醇なものとされ、王 侯の飲むものとされる。要するに、各国民には、それぞれ、他の国民にとって未知であるばかりか、 野蛮で奇妙な習慣がたくさんある。  (III−13)  「もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神である。」(IIIの3)とい いきるモンテーニュは、「多様性と柔軟性」を重視する。ただし、その背後には、宗教戦争というフラ ンスの「非寛容」な未曽有の内乱の時代を「多様性と柔軟性」、「寛容」をもって生きたモンテーニュ の強い意志と自然にしたがう柔らかい心があったのはいうまでもない。その思想には懐疑主義といわれ るものがあるが、それはまた、客観主義、実証主義、相対主義、バランスのとれた思想といってもいい。 モンテーニュのモットーの一つとして、「一方に傾くことなく」(書斎の天井に書かれた格言)がある。  そもそも、モンテーニュにおける文化相対主義とは何であろうか。それは多様性を尊重し、絶対的な 真実というようなものはないという彼の信念に根ざすものであり、自分の中に他人と違うものが確かに あるという自覚からくるのである。相対的な真理の限界を自覚し、これを絶対的真理と思い誤らないよ うにすることである。  彼は多様性を、結果的には人間の見解の不確実性を強調することになった。「いまだ二人の人間が、 同じ物事について同じように判断したことはなかった」(III−13)  モンテーニュは、懐疑主義に触れたことにより、経験的事実の上に自己の相対主義を確信するように なった。彼には生来その傾向があったが、懐疑主義を経験し、そこから抜け出たおかげで、いよいよ知 的柔軟性を発揮するようになり、批判精神と大胆な自由検討の精神を獲得したのである。   モンテーニュにとっては、人間はつねに誤謬に陥りやすく、矛盾に満ち、環境と習慣に左右され る存在である。したがって、人間の知識はすべて相対的であることをまぬかれない。しかし、人間の 知識が相対的であることは、拠るべき基準がないことを意味しない。知識であり、真理である以上、 何らかの意味で万人に通ずる普遍性と確実性がなければならない。彼によれば絶対的な真理を求める ことはできなくとも、理性や判断を正しく行使することによって、人々の陥りがちな誤謬や虚妄か らまぬかれて、ある程度の確実性に到達することはできるはずである。               (原二郎『モンテーニュ−−『エセー』の魅力』)  もっとも相対主義的思考をモンテーニュの手柄だけにするわけにはいかない。あらゆる習慣に内在す る尊厳と、自身のものとは異なる伝統への寛容の必要性を強調する哲学は、渡辺一夫がいうように「ル ネサンス期を通じて考えられるひとつの特徴に、相対主義的思考の発生というものを上げられるかもし れません。」(渡辺一夫『ヒューマニズム考』)といった面もあるのである。  重なる部分もあるが、モンテーニュにおける相対的な真理に関わる部分を一部あげておきたい。   民衆の狂気は、各国民が隣国の神を憎み、自分の崇める神だけを神と思い込むことから生じる。               (II−12)   私は自分の尺度で他人を判断するという万人に共通の誤りを全然もち合わせない。私は、他人の中 にある自分と違うものを容易に信用する。自分もある一つの生き方に縛られていると思うけれども、 皆のように、それを他人に押しつけることはしない。そして、たくさんの相反する生き方があること を信じ、理解している。また、一般の人々とは反対に、お互いの間にある類似より差異の方を容易に  受け入れる。私はできるだけ、他人を私の生き方や主義を共にすることから解放し、単に彼自身とし て、他とは関係なしに、彼自身の規範に従って考察する。   (I−37)   私はあらゆる人々を私の同胞だと思っている。そしてポーランド人もフランス人と同じように抱 擁し、国民としての結びつきを人間としての普遍的な共通な結びつきよりも下位に置く。            (III−9)  現代における文化相対主義の問題も簡単に見ておきたい。そこでは、表面的にとられがちになる相対 主義を超克できるものがあるかどうかが問題になる。モンテーニュにその超克の問題を見つけようとす ることは時代の制約もあり、困難である。そういうわけで以下モンテーニュからすこし離れることにな る。  現代における文化相対主義の問題であるが、自民族中心主義を避けるためにもどうしても人類共通の 普遍的な面の追求が必要になる。普遍的な面というとついつい従来の西洋的一神教的な側面のみに傾き がちだが、東洋思想的視点を含んだ大きな広がりの中での追求が必要になると言っておきたい。しかし、 それらはこの小論であつかうにはあまりにも大きすぎる。小論では、レヴィ=ストロースとウォーラー ステインの言を引用することにより、現代の問題の見取り図を素描するにとどめておきたい。   まず、レヴィ=ストロースの文化相対主義に対する発言を見てみよう。西洋中心主義への疑問という 点で、根底においてモンテーニュと強く繋がっている。もちろん、西洋型文明モデルの崩壊を語るレヴィ =ストロースは、知的モラリストとしてのモンテーニュにくらべると問題意識はより強く、現代的では ある。それは同時に、普遍主義に関わることにもなる。普遍主義については後で、ウォーラーステイン の発言を見てみたい。しばらくは、レヴィ=ストロースとウォーラーステインの引用となる。  まずレヴィ=ストロースの言を少し聞いておこう。   民族学者は研究対象として文化への共感と敬意の念から、文化相対主義を打ち出しました。それ によると、いかなる文化も他の文化の道徳的・知的価値を判断できるような基準をもちません。文化 はそれぞれいくつかの可能性の中からの一つの選択であり、その選択は相互に比較したり還元したり はできません。したがって、ある文化の価値の名において他の文化の価値に判断を下すことはできな いわけです。この相対主義理論こそ、研究対象の民族と私たちの深い親密な合意を作り出す手段だ と私たちは思っていたのですが、相手の民族自身の方がそれを斥けるのです。    (レヴィ=ストロース『構造・神話・労働』)  また、開発途上の地域の住民も、西欧モデルの卓越性へ疑問を呈するレヴィ=ストロースへ疑問を呈 するという服装、生活様式、機械文明、開発などの西欧モデルでもある「世界文明」のジレンマについ ても自身指摘をせざるをえない。西欧モデルは、果たして世界普遍モデルなのかといった問題も指摘せ ざるをえない。   人類学者は、研究対象とする人びとへの敬意から、各文化の価値観を比べて判断することは控え ます。おのおのの文化は自らを超えることはできず、したがってその価値評価は相対的なものにとど まり、これを克服する手段はない以上、どの文化も他の文化に対する真の判断を下す能力はないと、 人類学者は考えるので す。   ところがほぼ一世紀前から、すべての社会が次々に西欧モデルの卓越性を認めるようになったの ではないか−−この問いが、今日の人類学にとっての大きな問題のひとつになっています。   世界中いたるところ、西欧の技術、生活様式、服装、さらに娯楽までがとりいれられないところ があったでしょうか。ごく最近までアジアの民衆から南アメリカ、メラネシアの熱帯雨林の奥に住む 部族にいたるまでが、歴史上かつてないほど声を合わせて、ある文明が他のどれより秀れていると宣 言していたのです。   西欧型の文明が自らを疑いはじめたそのときに、この半世紀ほどのあいだに独立を達成した人び とは(少なくとも指導者たちの発言によるかぎり)西欧型の文 明を目標として掲げているのです。指 導者たちは、ときには人類学者を告発することもあります。人類学者は、開発の障害となる古くさい 慣習だけに関心を向けることでその存続を促しており、それは巧妙な植民地支配の延長にほかならな いわけです。 […]   このように人類学者が、その道義的利益を慮って文化相対主義を提起した当の人びとから、文化 相対主義の疑義が出されるのです。 […]   すなわち、これまで地理的隔たり、言語、文化の壁によって分離されてきた人びとが次第に融合 しようとしている現在、人類が互いに分離した集団を成し、生物学的にも文化的にも独自の発展を示 してきた世界が、数十万、あるいは一〇〇万、二〇〇万年続いた世界が、終わりを告げようとしてい るということです。    工業文明の広がりによる大変動、交通通信手段の高速化によって、こうした壁が崩れ去りました。 同時に、その壁の存在によって可能だった、遺伝子の新たな 組み合わせ、文化の新たな経験が試みら れる機会も消失しました。[…]   創造に満ちた偉大な時代とは、遠く離れたパートナーと刺激を与え合える程度に情報交換ができ、 しかもその頻度と速度は、集団・個人間に不可欠の壁を小さくしすぎて交換が容易になり、画一化が 進み多様性が見失われない程度にとどまっていた時代だったのです。   進歩のためには人びとは協力しなければなりませんが、協力を必要かつ豊かなものにしていた多 様性は、協力が持続する過程で消失してゆきます。[…]   人類学から見ると、現代の人類に課せられたジレンマとは、以上のようなものです。現代の人類 は「世界文明」へと向っているように見えますが、この「世界文明」という考え方そのものが、「文 明」の理念に含まれ、また求められるもの、すなわち、可能なかぎり大きな多様性を示す諸文化の共 存−−と矛盾しないでしょうか。(レヴィ=ストロース『レヴィ=ストロース講義』)    まとめは簡潔にということで、『レヴィ=ストロース講義』の巻末解説をもって、レヴィ=ストロー ス講義のまとめとさせていただく。   いちじ人びとが世界を見る時の指針となったかに見えた「文化相対主義」も、それぞれの「文化」 がひとりよがりの自己正当化をふりかざす根拠になりはてて、世界を見る視点として、信頼を失った。 けれども、この講演でレヴィ=ストロースが主張しようとしたことは、そうした通俗化された「文化 相対主義」と同じ名前を使いながら、その視点のラディカルさにおいてまったく異質なものである。  […]    過去の累積としての歴史の果てに、過敏になった「国民的」ナルシシズムを正当化するための相 対主義でなく、「人類の歴史のおそらく九九パーセントに当たる期間、そして地理的に言えば地球上 で人の住む空間の四分の三で、ごく最近まで人びとがどのように暮らしてきたか」を理解するための 視点を、レヴィ=ストロースは「文化相対主義」と呼んでいる。   それは何よりもまず、[…](一時期、一部で起こったことを)「世界」と見なす見方を改め、 人類史に相応しい尺度に引き渡して相対化するための基礎作業を意味している。(『レヴィ=ストロー ス講義』の巻末解説)    文化相対主義を補完する普遍主義は可能なのか。どのような普遍主義を目指すべきか。これはこれか らの大きな課題である。困難なテーマである。特に西洋的なものの延長にしかない普遍主義はいきづま る可能性は大きい。そういうとき、東洋的な視点を加えた広がりが必要になってくるように思える。し かし、この小論では、既に述べたように東洋思想的な面を展開する余裕もスペースもない。いずれにし ろ、柔軟な頭をもってあたらないと、文化相対主義を無力なものにしかねない独善的、威圧的、傲慢な 普遍主義に陥らないはといいきれない。  そういったものに陥らないためにも根底においてその先駆者モンテーニュの多様性への尊重の姿勢を たえず意識し続ける必要がありそうだ。  さて、文化相対主義を補完する普遍主義というものがありうるのだろうか。この普遍主義は、現時点 ではともするとヨーロッパ普遍主義モデルというものに近づく形で構想されがちになるのは仕方ないの か。しばらくウォーラーステイン(『ヨーロッパ普遍主義』)の発言を聞いてみよう。   汎ヨーロッパ世界[…]は、自分たちの政策の基本的な正当化として、普遍主義に訴える言葉に あふれている。このことは、彼らが、その「他者」−−つまり、非ヨーロッパ世界の諸国、相対的に 貧しいひとびと、「発展途上国」の諸国民−−に関連する政策について語る際に、とりわけそうであ る。その語り口は、しばしば、独善的、威圧的、傲慢であるが、その政策は、つねに普遍的な価値や 真理を反映しているものとして提示される。  このような普遍主義に訴えるレトリックには、主として三つの種類がある。    第一は、「人権」の擁護、さらには「民主主義の」とよばれるものの促進    第二は、「文明の衝突」という隠語でかたられているものである。そこではつねに、「西洋」 文明は、普遍的な価値や真理に立脚する唯一の文明として存在してきたので「他の」文明に優るもの だ、とされている。    第三は、市場の科学的真理を主張するものである。これは、政府には、新自 由主義的経済学の 諸法則を受け入れ、それに即して行動する以外、「ほかに選択 肢はない」という考え方のことである。 […]   ヨーロッパ普遍主義と普遍的普遍主義との闘いは、現代世界におけるイデオロギー闘争の中心を 占めており、その帰趨は、今後二十五〜五十年のうちにわれわれが入っていくことになる新しい世界 システムがどのように構築されるかを決定するうえで、大きな要因にあろう。この二つの普遍主義の あいだの選択はさけられない。なんらかの超個別主義的立場−−この星のいたるところで唱導されて い るあらゆる種類の個別主義的思想のすべてに平等な価値を求める立場−−に撤退することはでき ない。なぜなら、超個別主義は、実はヨーロッパ普遍主義と現在権力を有する者たち−−彼らは非平 等主義的で非民主主義的な世界システムの維持をもくろんでいる−−の力に対する隠れた降伏にほか ならないからである。既存の世界システムに対する真のオルタナティヴの構築を目指すならば、普遍 的普 遍主義の内容を系統立て、制度化してしてゆく道を見いださなければならない。普遍的普遍主 義は達成可能であるが、その実現は自動的でもなければ不可避的でもない。         (イマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ普遍主義』)  新しい普遍主義の達成がいつなされるかどうかわからない。また、そこには東洋の知恵も加わらない と、到達できないとも思う。しかし、あきらめてはならない。心あるひとには、モンテーニュの「もっ とも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神である」を生かしたはば広い普遍主 義を求めていって欲しいものである。文学的としかいいようがないが、「独善におちいらない多様性の 承認」、「柔軟な寛容の精神」、「万物との共生への心」のほか普遍主義はありえないと目下筆者は思っ ているのである。もちろん普遍主義の基礎として「基本的人権の尊重」もつけ加えておく。たとえば、 タリバンの残酷ともいえる女性抑圧やアフリカの一部に残る女性割礼等は、文化相対主義とはほど遠い ものであり、普遍主義の対極にある。 (5)最後に  唐突であるが、最後に、『エセー』から、印象的な文章を文脈とは関係なく引用して終わりたい。文 化相対主義者に閉じこめるわけにはいかないモンテーニュの多様性に思いをはせていただければと思っ ている。その多様性を通じてこそ、文化相対主義は命を得るのである。   ひとは、もっとよい時代にいないことを残念に思うことはできても、現代の時代をのがれるわけ にはいかない。(III−9)                         われわれの職業の大部分はお芝居みたいなものだ。《世の中は全体が芝居をしている》われわれ は立派に自分の役割を演じなければならぬ。だがそれを仮の人物の役割として演じなければならぬ。 仮面や外見を実在とまちがえたり、他人の物を自分の物とまちがえたりしてはならない。われわれは 皮膚とシャツとを区別できない。顔にお白粉を塗れば十分なので、心まで塗る必要はない。   (III−10)   すぐれた記憶は弱い判断力と結びやすい。(I−9)   私が猫と戯れているとき、ひよっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。   (II−12)   老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む。(III−2)   多くの場合、教える者の権威が学ぼうとする者の邪魔をする。(I−28)   だが、市長とモンテーニュとは常に二つであって、截然と区別されていた。    (註:モンテーニュは一時ボルドー市長をつとめた。公務のためといえども、自己の良心の自由 をいささかも譲るまいという意識。) […]   私はそんなに深く、完全に、自分を抵当に入れることはできない。わたしの意志がわたしをある 一派に与えるときも、それは無理な拘束によってではないから、私の判断理性がそのために害される ことはない。(III−10)   われわれは、他人の学識によって学者になることができるとしても、すくなくとも賢明な人間には、 われわれ自身の知恵をもってしかなることができない。   (I−25)   だから凡庸で、あまり緊張しない精神がかえって事を処理するのに適していて、うまくゆくという ことにもなる。高邁で精緻な哲学の理論がかえって実際には向かないのである。あの研ぎすました鋭 敏な精神と自在でよどみのない弁説は、われわれの交渉を混乱させる。われわれは人間の企てること をもっと大ざっぱに、表面的にとりあつかわねばならぬ。(II−20)   もしも、人間からこれらの特質(病的な性質−−野心、嫉妬、羨望、復讐、迷信、絶望など)の前 芽を取り除くならば、われわれ人間の根本的な性状をも破壊することになろう。(III−1)   私は正しい側には火刑台のそばまでついて行くが、しかし、できれば火焙りだけはごめんこうむり たい。(III−1) 参考文献  『エセー』引用には、基本的には岩波文庫(原二郎訳)を使った。ただし、他の翻訳(関根、荒木訳等)の訳を参考にし て訳し直した箇所がある。なお、引用の章の表記についてはたとえばI−31では、I、II、IIIは巻数を、31は章を表す こととする。  フランス語テキストは次の四冊だけあげておく。日本語翻訳もしぼることにする。 Michel de Montaigne, Les Essais, Edition Villey-Saulnier, QUADRIGE/PUF , 2004 Montaigne, Les Essais, La Pocheth述ue, Le Livre de Poche, 2001 Montaigne, Les ESSAIS, Adaptions et traductions en fran溝is moderne par Andr Lanly, Editions Slatkine, 1987 Montaigne, ホuvres compl春es, Biblioth述ue de la Pl司ade, 1962 モンテーニュ『エセー』原二郎訳、岩波文庫、 『モンテーニュ全集』関根秀雄(第8巻、関根、斎藤広信)訳、白水社、1958 モンテーニュ『エセー』荒木昭太郎訳、世界の名著、中央公論社、1967 モンテーニュ『エセー抄』宮下志朗編訳、みすず書房、2003   (続いて、白水社にて『エセー』刊行中)  以下、参考にした本は多い。ここでは、引用したり、記述にあたって大いに参考になった本に限って掲載することにする。 Madelaine Lazard, Michel de Montaigne, Fayard, 2002 Pierre Villey, Les Essais de Michel de Montaigne, Nizet, 1946 ロベール・オーロット,『モンテーニュとエセー』クセジュ文庫、白水社、1992 関根秀雄『モンテーニュとその時代』白水社、1976 関根秀雄『モンテーニュ逍遥』白水社、1980 原二郎『モンテーニュ −−『エセー』の魅力』岩波新書、1980 荒木昭太郎『モンテーニュ 人類の知的遺産29』、講談社、1983 荒木昭太郎『モンテーニュ遠近』大修館、1987 荒木昭太郎『モンテーニュ 初代エッセイストの問いかけ』、中公新書、2000 荒木昭太郎『モンテーニュとの対話』春秋社、2007 ミシェル・ビュトール『エセーをめぐるエセー モンテーニュ論』松崎芳隆訳、筑摩叢書、1973 イヴォンヌ・ベランジェ『モンテーニュ 精神のための祝祭』高田勇訳、白水社、1993 ピーター・バーグ『モンテーニュ』小笠原、宇羽野訳、晃光書房、2001 保苅瑞穂『モンテーニュ私記 よく生き、よく死ぬために』筑摩書房、2003 斎藤広信「「食人種について」の一考察」、『日本女子大学文学部紀要28』、1978 渡辺一夫『ヒューマニズム考』講談社現代新書、1973 ジャック・アタリ『カニバリスムの秩序』金塚貞文訳、みすず書房、1984 ジャック・アタリ『歴史の破壊 未来の略奪 キリスト教ヨーロッパの地球支配』斎藤広信訳、朝日新聞社、1994 S.ドレスデン『ルネサンス精神史』高田勇訳、1980 アンドレ・テヴェ『南極フランス異聞』山本顕一訳、大航海時代叢書IIー19、岩波書店、1982 ジャン・ド・レリー『ブラジル旅行記』二宮敬訳、大航海時代叢書IIー20、岩波書店、1987 バルトロメ・デ・ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』染田秀勝訳、岩波文庫、1976 フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ『拡がりゆく視圏』清水憲男訳、岩波書店、1995 (『西インド全史』(1552年)の抄訳) 増田義郎『新世界のユートピア』中公文庫、1989 飯塚一郎『大航海時代のイベリア スペイン植民地主義の形成』中公新書、1981 ボリス・ファウスト『ブラジル史』鈴木茂訳、明石書店、2008 染田・篠原監修『ラテンアメリカの歴史』大阪外国語大学ラテンアメリカ史研究会訳、世界思想社、2005 綾部恒雄編『文化人類学20の理論』弘文堂、2006 内堀基光、本多俊和編著『新版 文化人類学』日本放送出版協会、2008 レヴィ=ストロース『レヴィ=ストロース講義』川田順造、渡辺公三訳、平凡社ライブラリー、2005 レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳、みすず書房、1976 レヴィ=ストロース『人種と歴史』荒川幾男訳、みすず書房、1970 レヴィ=ストロース『構造・神話・労働』大橋保夫編、みすず書房、1979 ドナルド・E・ブラウン『ヒューマン・ユニヴァーサルズ 文化相対主義から普遍性の認識へ』鈴木、中村訳、新曜社、2002 イマニュエル・ウォーラーステイン『ヨーロッパ普遍主義』山下範久訳、明石書店、2008 高橋康也編『研究社シェイクスピア辞典』研究社、2000 シェイクスピア『テンペスト』小田島雄志、白水社、1983 エメ・セゼール、シェイクスピア 他『テンペスト』本橋哲也編訳、インスクリプト、2007




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