モンテーニュ『エセー』(随想録)*東洋の知恵(智恵)

 (更新:2015.4.19.)


 モンテーニュ『エセー』(随想録)・抄(引用順)      附:モンテーニュの塔の書斎の天井の梁に刻まれた文   テーマ別『エセー』抄(準備中)   モンテーニュに関しての評言・抄        エリック・ホッファー、ツヴァイク、ハズリット、パスカル、フローベール、ジイド、        西田幾多郎、ニーチェ、エリオット、鶴見俊輔、柄谷行人、石田衣良 他   東洋の知恵(智恵)・抄  上記以外(西洋等々)の知恵(智恵)・抄

  東西の知恵コラボ・抄
 佐々木敏光「森の中のモンテーニュ」エセ−連載中(2015.4.19.)


 「モンテーニュと文化相対主義」(2009年静岡大学教育学部紀要
モンテーニュ【Michel de Montaigne】 (1533〜1592)   フランスの文学者・自由自在な思想家。ルネサンスという新しい息吹と共に宗教戦争という混乱に満 ちた時代、古今にわたる広い読書体験と鋭利な自己省察に基づいて、人間性に深い洞察を加え、自然に 則した自由な生き方を善しとする人生哲学に到達。枠にはまらない「精神の自由人」。主著『エセー』 は、モラリスト文学の先駆として、後代に大きな影響を与えた。ギリシア・ローマ古典の深い読書を通 じ東洋の自然と自由に満ちた知恵と通底する面も多い。

 暫くは、モンテーニュ『エセー』(随想録)の引用には関根秀雄訳、原二郎訳 、荒木昭太郎訳を 適宜使用。一部訳しかえている場合もある。そのうち、佐々木敏光訳に統一する。また、佐々木による エセーもつけ加える。タイトルとしては「森の中のモンテーニュ」を予定。 (以下、I、II、IIIは、モンテーニュ『エセー』の巻数を、続く数字は章をあらわす。)


モンテーニュ『エセー』(随想録)・抄
★★佐々木選「エセ−」十六句★★  もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神である。                         (モンテーニュ『エセー』III−3)     ☆(この文の前にある文は以下の通り)  自分の資質、性格にあまり固執してはならない。われわれの第一の才能はさまざまな習慣に順応でき るということである。やむをえずたった一つの生き方にへばりつき、しばられているのは、息をしてい るというだけで、生きるということではない。もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟 性をもった精神である。  運命は我々を幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とを我々に提供するだけである。それら を、それらよりも強力な我々の心が、自分のすきなように、こねかえすのである。これが我々の心の状 態を幸福にしたり不幸にしたりする・唯一の・おもな・原因なのである。                              (モンテーニュ『エセー』Iー14)  わたしは人間だ、人間のことで、何ひとつわたしに無関係なものはない。      (テレンチウス −− モンテーニュの塔の書斎の天井の梁に刻まれた文)  人間は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神々を何ダースとでっち上げる。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)                        われわれの職業の大部分はお芝居みたいなものだ。《世の中は全体が芝居をしている》われわれは立 派に自分の役割を演じなければならぬ。だがそれを仮の人物の役割として演じなければならぬ。仮面や 外見を実在とまちがえたり、他人の物を自分の物とまちがえたりしてはならない。われわれは皮膚とシャ ツとを区別できない。顔にお白粉を塗れば十分なので、心まで塗る必要はない。                         (モンテーニュ『エセー』III−10)  すぐれた記憶は弱い判断力と結びやすい。     (モンテーニュ『エセー』I−9)  私が猫と戯れているとき、ひよっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。                     (モンテーニュ『エセー』II−12)  老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む。  (モンテーニュ『エセー』III−2)  多くの場合、教える者の権威が学ぼうとする者の邪魔をする。   [キケロからの引用]             (モンテーニュ『エセー』I−26)  われわれは自然の作物の美しさと豊かさの上に、あまりにも多くの作為を加えすぎて、これをすっか り窒息させてしまったのだ。けれども自然はその純粋さの輝くいたるところで、われわれのはかなくつ まらない試みに赤恥をかかせている。        (モンテーニュ『エセー』I−31)  だが、市長とモンテーニュとは常に二つであって、截然と区別されていた。     ☆[註:モンテーニュは一時ボルドー市長をつとめた。公務のためといえども、自己の良心の       自由をいささかも譲るまいという意識。] [....]  私はそんなに深く、完全に、自分を抵当に入れることはできない。わたしの意志がわたしをある一派 に与えるときも、それは無理な拘束によってではないから、私の判断理性がそのために害されることは ない。                       (モンテーニュ『エセー』III−10)  勝ちたいという強い欲望があまりにつよく働くとき、たちまち精神と手足が無分別と無秩序におちい る。われわれは自ら目がくらみ、ぎこちなくなる。  ところが、あまり勝負にこだわらない人は、常に自分を失わない。遊戯に熱中し、のぼせることが少 なければ少ないほど、いっそう有利に確実に勝負を進めることができるのだ。                          (モンテーニュ『エセー』III−10)  われわれは、他人の学識によって学者になることができるとしても、すくなくとも賢明な 人間には、われわれ自身の知恵をもってしかなることができない。                           (モンテーニュ『エセー』I−25)  まったく、いくら竹馬にのっても、結局は自分の脚で歩かねばならないからである。いや 世界で最も高い玉座に登っても、やっぱり自分のお尻の上に坐るだけなのである。                          (モンテーニュ『エセー』III−13)  自説に固執し熱中すのは、ばかの最も確かな証拠である。                          (モンテーニュ『エセー』III−8) ★★『エセー』(ページ順に並べ替えの準備中)★★   もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神である。                         (モンテーニュ『エセー』III−3)     ☆(この文の前にある文は以下の通り)  自分の資質、性格にあまり固執してはならない。われわれの第一の才能はさまざまな習慣に順応でき るということである。やむをえずたった一つの生き方にへばりつき、しばられているのは、息をしてい るというだけで、生きるということではない。もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟 性をもった精神である。  運命は我々を幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とを我々に提供するだけである。それら を、それらよりも強力な我々の心が、自分のすきなように、こねかえすのである。これが我々の心の状 態を幸福にしたり不幸にしたりする・唯一の・おもな・原因なのである。                              (モンテーニュ『エセー』Iー14)  わたしは人間だ、人間のことで、何ひとつわたしに無関係なものはない。      (テレンチウス −− モンテーニュの塔の書斎の天井の梁に刻まれた文)  人間は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神々を何ダースとでっち上げる。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)  f  ひとは、もっとよい時代にいないことを残念に思うことはできても、現代の時代をのがれるわけには いかない。            (モンテーニュ『エセー』III−9)  われわれを、柔弱でも無力でもない時代に生きるようにさせてくれた境遇に感謝しようではないか。                      (モンテーニュ『エセー』III−12)                        われわれの職業の大部分はお芝居みたいなものだ。《世の中は全体が芝居をしている》われわれは立 派に自分の役割を演じなければならぬ。だがそれを仮の人物の役割として演じなければならぬ。仮面や 外見を実在とまちがえたり、他人の物を自分の物とまちがえたりしてはならない。われわれは皮膚とシャ ツとを区別できない。顔にお白粉を塗れば十分なので、心まで塗る必要はない。                         (モンテーニュ『エセー』III−10)  すぐれた記憶は弱い判断力と結びやすい。     (モンテーニュ『エセー』I−9)  私が猫と戯れているとき、ひよっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。                     (モンテーニュ『エセー』II−12)  老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む。  (モンテーニュ『エセー』III−2)  多くの場合、教える者の権威が学ぼうとする者の邪魔をする。   [キケロからの引用]             (モンテーニュ『エセー』I−26)  われわれは自然の作物の美しさと豊かさの上に、あまりにも多くの作為を加えすぎて、これをすっか り窒息させてしまったのだ。けれども自然はその純粋さの輝くいたるところで、われわれのはかなくつ まらない試みに赤恥をかかせている。        (モンテーニュ『エセー』I−31)  だが、市長とモンテーニュとは常に二つであって、截然と区別されていた。     ☆[註:モンテーニュは一時ボルドー市長をつとめた。公務のためといえども、自己の良心の       自由をいささかも譲るまいという意識。] [....]  私はそんなに深く、完全に、自分を抵当に入れることはできない。わたしの意志がわたしをある一派 に与えるときも、それは無理な拘束によってではないから、私の判断理性がそのために害されることは ない。                       (モンテーニュ『エセー』III−10)  彼にとってはその勝利よりも敗北が、そのその成功よりもその苦痛がいっそう栄光に輝いている。                      (モンテーニュ『エセー』III−10)  勝ちたいという強い欲望があまりにつよく働くとき、たちまち精神と手足が無分別と無秩序におちい る。われわれは自ら目がくらみ、ぎこちなくなる。  ところが、あまり勝負にこだわらない人は、常に自分を失わない。遊戯に熱中し、のぼせることが少 なければ少ないほど、いっそう有利に確実に勝負を進めることができるのだ。                          (モンテーニュ『エセー』III−10)  われわれは、他人の学識によって学者になることができるとしても、すくなくとも賢明な人間には、 われわれ自身の知恵をもってしかなることができない。                           (モンテーニュ『エセー』I−25)  人間を害する病毒は、人間が自ら知識があると思うことである。だからこそ無知はわれわ れの宗教によって、信仰と服従にふさわしい特性として、あれほど讃えられたのである。 《この世の基礎に立って、むなしい、だましごとの哲学に欺かれないように、気をつけなさ い。》                      (モンテーニュ『エセー』II−12)  この考えは、「わたしは何を知っているのか」という疑問詞によって、いっそう確実に表明 される。                     (モンテーニュ『エセー』II−12)  私は明らかに知っている。われわれがすすんで信心のために捧げるお勤めは、自分の欲情を 喜ばすためのものでしかないことを。キリスト教の敵意ぐらい激しいものはどこにもない。   [...]  われわれの宗教は悪徳を根絶させるために作られたのに、かえって悪徳をはぐくみ、養い、 かき立てている。                 (モンテーニュ『エセー』II−12)     ☆宗教改革による新・旧教徒による未曾有の内乱(宗教戦争)を背景とした文章。  よい意図が度を越して用いられると、人間をきわめて不徳な行為におもむかせるというのは、 つねにみられるところである。いまフランスを内乱の混乱におとしいれている論争において、 もっとも善良な、もっとも健全な党派は、わが国の昔からの宗教と政治を守る党派であること は疑いない。しかしそれを信奉する正しい人々の間にも、(...)熱情に駆られて、理性の 埒を超え、ときとして不正な、過激な、無謀な考えに走る者もたくさんいる。                          (モンテーニュ『エセー』II−19)     ☆モンテーニュは旧教徒である。  だから凡庸で、あまり緊張しない精神がかえって事を処理するのに適していて、うまく ゆくということにもなる。高邁で精緻な哲学の理論がかえって実際には向かないのである。 あの研ぎすました鋭敏な精神と自在でよどみのない弁説は、われわれの交渉を混乱させる。 われわれは人間の企てることをもっと大ざっぱに、表面的にとりあつかわねばならぬ。                          (モンテーニュ『エセー』II−20)  もしも、人間からこれらの特質(病的な性質−−野心、嫉妬、羨望、復讐、迷 信、絶望 など)の前芽を取り除くならば、われわれ人間の根本的な性状をも破壊することになろう。                          (モンテーニュ『エセー』III−1)  正直のところ、(わたしはそう白状することを恐れないのだ。)わたしもまた必要があれ ば、あのお婆さんが企てたように一本の蝋燭を聖ミシェルに、もう一本をその竜に、ささげ ないとは限らない。私は正しい側には火刑台のそばまでついて行くが、しかし、できれば火 焙りだけはごめんこうむりたい。          (モンテーニュ『エセー』III−1)  まったく、いくら竹馬にのっても、結局は自分の脚で歩かねばならないからである。いや 世界で最も高い玉座に登っても、やっぱり自分のお尻の上に坐るだけなのである。                          (モンテーニュ『エセー』III−13)  死こそは、自然の営みの継続と変遷を育成するのにきわめて有益な地位を占めているも のだし、この宇宙においては滅亡と破壊よりもむしろ生成と増加の役に立っているものな のだ。   こうして万物は新しくなる。     (ルクレチウス)   千の生命が一つの死から生まれる。  (オヴィディウス)  一つの生命の消滅は、千のほかの生命への移行である。                          (モンテーニュ『エセー』III−12)    実に人間くらい驚くほど空虚で、雑多で、そして変りやすいものはない。その上に一定不変の判断 をうちたてることは容易でない。          (モンテーニュ『エセー』Iー2)  世界は永遠の動揺にすぎない。万物はそこで絶えず動いているのだ。大地も、コーカサス の岩山も、エジプトのピラミッドも。しかも一般の動きと自分だけの動きとをもって動いて いるのだ。恒常だって幾分か弱々しい動きに他ならない。(モンテーニュ『エセー』III−2)  人間はそれぞれ人間の本性を完全に身にそなえているのである。                            (モンテーニュ『エセー』III−2)  何事に限らず、すんでしまった以上は、それがどのようであったにせよ、わたしはほとん どくやまない。まったく、「それは始めからそうなるべきであった。」という考えは、わた しを苦悩の外におくのである。           (モンテーニュ『エセー』III−2)  もしもう一度生きなければならないならば、わたしは今まで生きて来たとおりに再び生き るであろう。わたしは過去もくやまなければ未来も恐れない。                            (モンテーニュ『エセー』III−2)  誰でもばかを言うことは免れない。困るのはそれを念入りにやられることである。    この人は大張りきりで一大愚論を吐く。(テレンチウス)                           (モンテーニュ『エセー』III−1)  我々は誰でも我々が考えるよりも豊かである。それだのに人は借りること・求めること・ ばかり我々に教える。自分のものよりも他人のものを使用するように我々を仕込む。                          (モンテーニュ『エセー』III−12)  私は自分の尺度で他人を判断するという万人に共通の誤りを全然もち合わせない。私は、 他人の中にある自分と違うものを容易に信用する。自分もある一つの生き方に縛られている と思うけれども、皆のように、それを他人に押しつけることはしない。そして、たくさんの 相反する生き方があることを信じ、理解している。また、一般の人々とは反対に、お互いの 間にある類似より差異の方を容易に受け入れる。私はできるだけ、他人を私の生き方や主義 を共にすることから解放し、単に彼自身として、他とは関係なしに、彼自身の規範従って考 察する。                     (モンテーニュ『エセー』I−37)  私はあらゆる人々を私の同胞だと思っている。そしてポーランド人もフランス人と同じよ うに抱擁し、国民としての結びつきを人間としての普遍的な共通な結 びつきよりも下位に 置く。                      (モンテーニュ『エセー』III−9)  民衆の狂気は、各国民が隣国の神を憎み、自分の崇める神だけを神と思い込むことから生 じる。                      (モンテーニュ『エセー』II−12)  さて、話を元に戻すと、新大陸の国民について私が聞いたところによると、そこには野蛮 なものは何もないように思う。もっとも、誰でも自分の習慣にないものを野蛮(barbarie) と呼ぶなら話は別である。まったく、われわれは自分たちが住んでいる国の考え方や習慣の 実例と観念以外には真理と尺度をもっていないように思われる。だがあの新大陸にもやはり 完全な宗教と完全な政治があるし、あらゆるものについての十全な習慣がある。彼らは野生 (sauvage)である。われわれは自然がひとりでに、その自然な推移に中に生み出す成果を 野生と呼ぶのと同じ意味において野生である。[....] われわれは自然の作物の美しさと豊かさ の上に、あまり多くの作為を加えすぎて、これをすっかり窒息させてしまったのだ。けれど 自然はその純粋さの輝くいたるところで、われわれのはかなくつまらない試みに赤恥をかか せている。                    (モンテーニュ『エセー』I−31)    いったいどこの蛮族か知らないが(ギリシア人は外国人をすべて蛮族と呼んでいた)、こ の軍隊の隊形はけっして蛮族のものではない。[....] だから、われわ れは俗説にとらわれな いように用心しなければならない。一般大衆の声で判断してはならない。                          (モンテーニュ『エセー』I−31)  将来、果たして何か別な発見がなされないと断言できるものかどうか判らない。今度の場 合(=アメリカ大陸発見)にも、あんなに多くの我々よりえらい方々が、見当ちがいをさっ たのだから。                   (モンテーニュ『エセー』I−31)  実に奇怪な戦争だ。他の戦争は外に向ってなされるが、この戦争は自分自身に向ってなさ れ、自分をむしばみ、自分の毒で自分を破壊している。(モンテーニュ『エセー』III−12)  先頃わたしが、できるだけ他のことにはかかわらず、ただわたしに残されたこの僅かな歳 月を独りで静かに送ろうと堅く決心して、この家に引込んだ。                            (モンテーニュ『エセー』I−8)  私の意図は、余生を楽しく暮らすことで、苦労して暮らすことではない。そのために頭を 悩まそうと思うほどのものは何もない。学問だってどんなに価値があるにしても、やはり同 じことである。私が書物に求めるのは、そこから正しい娯楽によって快楽を得たいというだ けである。勉強するのも、そこに私自身の認識を扱う学問、よく死によく生きることを教え る学問を求めるからに他ならない。         (モンテーニュ『エセー』IIー10)    こんなに熱心に、そして何事においても、あの古代の《最良の中庸》を賛美し、中庸の程 度をもっとも完全な程度と考えたこの私が、どうして並みはずれた、法外な老齢を望んだり しよう。自然の流れに逆らうものはすべて不快かも知れないが、自然に従うものはすべて快 適なはずだ。《自然に従って起こるものはすべて 善の中に数えられるべきだ。(キケロ)》                                                       (モンテーニュ『エセー』III−13)  私は、わが国においても前には死刑になった事柄が今では合法とされるのを見た。また、 別の思想をいだいているわれわれにしても、戦乱の運命の定めないことを思えば、いつかは 人および神に対する大逆罪に問われないとも限らない。(モンテーニュ『エセー』II−12)  昨日はもてはやされていたのに明日はそうでなくなるような善とはいったい何であろうか。 河一つ越しただけで罪にとなるような善とは何であろうか。  山のこちら側では真理で、向う側では虚偽であるような真理とは何であろうか。                          (モンテーニュ『エセー』II−12)  われわれの欲望は、手中にあるものを軽蔑し、それを飛び越えて、もっていないものを追い 求める。     彼は手中にあるものをさげすみ、逃げるものを追いかける。(ホラティウス) われわれに何かを禁ずることは、それに対する欲望を起こさせる。                           (モンテーニュ『エセー』IIー15)  危険にあうと、私はどうしてそれを免れようかと考えるよりも、むしろそれを免れることが いかにとるに足らぬことであるかということを考える。(モンテーニュ『エセー』IIー17)  自分をもって他人を判断するという、だれにもありがちな、まちがった考えを私はもたな い。[...]その人その人自身として、その人固有の流儀にしたがって、単純に、他から切り はなして、私は考える。              (モンテーニュ『エセー』Iー37)  私はあらゆる意味で自分の主人公でありたい。   (モンテーニュ『エセー』IIIー5)  真の自由とは自分の上にどんなことでも成しうることである。《最も力ある人とは自己の主人と なることである》(セネカ)             (モンテーニュ『エセー』IIIー12)  その一生のあいだのただの一瞬も、しっかりと立ち、安定している魂は、千のうちひとつもあ りはしない。                   (モンテーニュ『エセー』IIー12)  どれほど多くの人間が想像の力だけで、病気になったことだろう。                           (モンテーニュ『エセー』IIー12)  わたしは人間が、もし正直に語るならば、わたしに向ってこう告白するであろうと信ずる。 「自分があんなに長い間の探究から得た獲物といえば、自分の弱さを認識することを学んだと いうことに尽きる」と。生れつき我々のうちにある無知を、我々は長い間の研究によってやっ と確信し確証した。ほんとうに学んだ人々には、あの麦の穂に起ることが起った。それは空っ ぽであるかぎりますます頭をあげてそそり立つ。けれどもいよいよ熟して穀粒で満ちあふれて くつと、だんだんへりくだってその頭を低くする。  (モンテーニュ『エセー』IIー12)  思い上がりはわれわれの生来の、そして始原の病気だ。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)  ブラジルの住民は老衰によってしか死ななかったそうだ。これは気候が静かで澄んでいたせ いだと考えられるが、私は彼らの心が澄んでいて、あらゆる激情や思考や張りつめた不快な仕 事から解放されて、学問法律も王様もいかなる宗教ももたずに、見事な単純さと無知の中に暮 らしていたせいだと思う。  また、経験からも知られることだが、もっとも粗野で愚鈍な者が、愛の営みにおいていっそ う強く望ましいということや、騾馬曳きの愛が伊達男のそれよりも女の気に入るというのはな ぜだろうか。つまり、後者の場合には、精神の動揺が肉体の力をかき乱し、妨げ、疲れさすか らではないだろうか。  同様に精神の動揺は常に精神自体をかき乱して疲れさせる。精神の機敏さと精巧さと敏捷さ ほど、つまり精神自体の力ほど、精神を狂わせ、錯乱の中に投げ込むものがあるだろうか。 もっとも過敏な錯乱は、もっとも過敏な知恵から生ずるものでなくて何でであろう。                           (モンテーニュ『エセー』IIー12)  どんな緊張をした精神でも、ときには居眠りをするものだ。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)  《どんな不合理なことも、どこかの哲学者に言われなかったためしはない》(キケロ)                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)   人間の理性は至る所で踏み迷ってばかりいるが、神の事に関わるときには特にそれがはな はだしい。                    (モンテーニュ『エセー』IIー12)  我々の生涯を夢にくらべた人は正しかった。おそらくその人たち自らが考えた以上に、我々 が夢を見ているとき、われわれの霊魂は生きている。その全性能を働かせている。目覚めてい るときと、まさり劣りはしないのである。[...]   我々は眠りつつ目覚めている。わたしは夢の中でそう明らかには見えないけれど、覚めてい るときだって十分滑らかに・曇りなく・見ることはないのである。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)  結局、われわれの存在にも、事物の存在にも、何一つ恒常的なものはない。われわれもわれ われの判断も、そしてすべての死すべきものも、絶えず流転する。したがって確実なものは一 つとしてたがいに立証されえない。判断するものも、判断されるものも絶えざる変化と動揺の 中にあるからである。               (モンテーニュ『エセー』IIー12)  そして今日にあっては、コペルニクスがこの学説をじつにみごとに基礎づけ、それを天文学 上のあらゆる結果にたいしてひじょうに規則正しく適用している。(・・・)そしてまた、 今から千年ののちに、第三の説が現れて、これらのふたつの先行する説を覆えさないと誰が知 ろうか。                     (モンテーニュ『エセー』IIー12)  私は近所の百姓たちが、どんな態度と確信をもって最後の時を過したらよいかなどと考え込 むのを一度も見たことがない。自然は彼らに、死にかけたときでなければ死を考えるなと教え ている。そしてそのときでも、彼らの姿は、死そのものと長期に亙る死の予想とで二重に攻め たてられてられているアリストテレスよりも美しい  (モンテーニュ『エセー』IIIー12)  いったい何のためにわれわれはこんなに気苦労な学問で身を固めようとするのか。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー12)  判断力はあらゆる事柄に適用できる道具で、いたるところに関係する。この理由で、今わたし がおこなっている自分の判断の試み(エセー、『エセー』)にたいしても、わたしはあらゆる種 類の機会を利用する。               (モンテーニュ『エセー』Iー50)  わたしはつつましやかな、赫赫(かっかく)たるところの少しもないひとりの人間の生活を人 前に示すのだが、それはそうであってもまったくかまわない。   (・・・)  一般の著作家たちは、ある何らかの個別的な、また本来のものではない特徴によっ自分たちを 世の人びとに知らせる。わたしは、わたしの普遍的なありようによって、ミシェル・ド・モン テーニュとして、文法家とか詩人とか法律学者とかではなく知らせることをはじめておこなう人 間だ。もし世の人びとが、わたしがわたし自身についてあまりにも語りすぎると不満を洩らすの ならば、わたしは、世の人びとは自分自身について考えるだけのこともしないと文句をつけた い。                       (モンテーニュ『エセー』IIIー2)  わたしはさまよう。それも、うっかりしてというよりは、むしろ自分で許してそうするのだ。   (・・・)  わたしはとんだりはねたりする詩の進み方が好きだ。   (・・・)  わたしは、節度なく、やみくもに、変化を追う。  (モンテーニュ『エセー』IIIー9)  避けることのできないものは耐え忍ぶように学ばなくてはならない。われわれの一生は世界の 調和と同じように、相反する事物によって、異なった調子で、(・・・)できている。(・・・) いいことと悪いことの両方を用いることをしらねばならぬ。この二つが共存してわれわれの生活 の実体をなしているのだ。われわれの存在はこの両者の混合なしにはありえない。そして、一方 の側にあるものは、他方の側にあるものに劣らず必要なのだ。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー13)  睡眠をよく注意してみるように言われるのも、理由のないことではない。睡眠は死と似ている ところがあるからだ。               (モンテーニュ『エセー』IIー6)  わたしの考えでは、死は生の末端(ブー)ではあるが、しかしその目的(ビュ)ではない。 (・・・)生の当然の努力は、みずからをととのえ、みずからを導き、みずからを耐えること だ。このいかに生きるかを心得るという一般的な主要な事柄などの他の義務といっしょに、い かに死ぬるかを心得るという項目がある。      (モンテーニュ『エセー』IIIー12)  奇跡はわれわれが自然について無知であるから存在するのであって、自然の本質によって存 在するのはない。                 (モンテーニュ『エセー』Iー23)     ☆迷信や奇跡について、その不合理を指摘する。  私はわが国の宗教戦争の紊乱が生んだ残酷な例がふんだんに見られる時代に生きている。古 代の歴史にさえ、われわれの毎日経験しているよりも極端なものは見られない。だからといっ てけっして残酷になじんだわけではない。私はこの目で実際に見るまでは、ただ快楽のために 殺人を犯そうとするような怪物じみた人間がいることを信じることができなかった。他人の手 足を切り刻み、精神を研ぎすまして突飛な拷問や新しい死刑の方法を案出し、敵意も利益もな いのに、ただ苦悩の中に死にかける人のあわれな身振りや、うめき声や、かわいそうな泣き声 を見て楽しむことだけを求める人間がいることを信じることができなかった。     ☆宗教戦争が生んだ紊乱、人間の残酷さ。   (モンテーニュ『エセー』IIー12)  わたしはならうよりも逆らうことによって・従うよりも避けることによって・学んだが、世 には同じたちの人も多少はあるらしい。大カトーもこの種の修業を念頭に、「賢者の愚に学ぶ ところは愚者の賢者に学ぶところよりも多い」といったのである。   (...)  毎日、だれかのばかげた態度が、わたしに警告してくれる。   (...)  暗愚は悪い素質である。けれどもこれに耐えることができず、わたしにもよくそういうこと があるが、これを悲しみわずらうのも、また一つの病であって、その耐え難さにおいては、た いして暗愚そのものに劣らない。これこそわたしが、自分について告発しようと思うことがら である。                     (モンテーニュ『エセー』IIIー8)  徳行の報いを他人の賞賛のうえに築き上げようとするのは、あまりにも不確実な基礎を選ぶ ことである。とくに当世のように人心が腐敗して無知な時代には、民衆の好意はむしろ有害で ある。                      (モンテーニュ『エセー』IIIー2)  アレクサンドルに向って「何ができるか」と問うならば、「世界を従えること。」と答える だろう。同じようにソクラテスに問うならば、「人間の生活をその持って生まれた本性にする こと。」と、この人は答えるであろう。この方が広い・重んずべき・正しい・知識である。霊 魂の価は高く行くことではなく、秩序正しく行くことにある。  偉大な霊魂は、偉大な身分のうちに見いだされず、中くらいの身分のうちに見いだされる。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー2)  確かな目的を持たない霊魂はさまよう。まったく、人の言う通り、いたるところにあるとは、 いずこにもあらざることなのである。        (モンテーニュ『エセー』Iー8)   明けゆく毎日をおまえの最後の日と思え。   そうすれば当てにしない日はおまえの儲けとなる。(ホラチウス)  キケロは、「哲学するとは死に備えることにほかならぬ」と言った。つまり研究と瞑想(めいそう) とは、いわばわれわれの霊魂をわれわれの外部に引き出し、これを肉体と別に働かすことで、結局死の けいこ・まねごと・みたいなものだからである。あるいはまた、世の知恵や哲理の究極は、ひっきょう、 死をまったく恐れないようわれわれに教えるという、その一点に帰着するからだろう。                         (モンテーニュ『エセー』Iー20)  徳の主要な恵みは死の蔑視であって、これこそ、われわれの人生に物柔らかな静隠を与え、われわれ に人生の清らかな快い味わいを与えるもので、実にこれがなくては、他のもろもろの快楽もその影を消 すのである。                  (モンテーニュ『エセー』Iー20)  どこで死がわれわれを待っているかわからないから、いたるところでそれを待ちうけよう。死を学ん だ者は奴隷であることを忘れるのだ。死の習得はあらゆる隷属と拘束から解放する。生命の喪失がいさ さかも不幸でないと悟った者にとってはこの世には何の不幸もない。                          (モンテーニュ『エセー』Iー20)  わたしは人が働くことを、人ができるだけ人生の務めを長くすることをのぞむ。そして死が、 わたしがそれに無頓着で、いわんや菜園が未完成であることことにも無頓着で、ただせっせとキ ャベツを植えている最中に、やってきてくれることを望む。                          (モンテーニュ『エセー』Iー20)  本当に、父兄の心遣いと費用とは、ただ我らの頭の中に学問を詰め込むことばかりをねらって いる。判断や徳操に至ってはほとんど問わない。   (モンテーニュ『エセー』Iー25)  もしひとが、わたしがなぜ彼を好きだったか言わせようとすれば、それは彼だったから、それ はわたしだったから、と答える以外言い表わしようはないと思われる。     ☆ボルドー高等法院の同僚エチエンヌ・ド・ラ・ボエシとの友情。                          (モンテーニュ『エセー』Iー28)  死んだ者を食うより、活きた人を食う方が遥かに野蛮であると思う。     ☆西洋人による宗教戦争の野蛮さ。     (モンテーニュ『エセー』Iー31)  ほんとうに欺瞞が幅をきかすのは不可知の世界である。・・・そこで人に最もわからない事柄 が一番堅く信ぜられる事になり、荒唐無稽なことを語る者どもが最も確信ある人ということにな る。                       (モンテーニュ『エセー』Iー31)  わたしは自己の在りようを基にして他人を判断するという世間一般の誤謬を少しも持たない。 他人には自分と全く違ったところがあることを容易に信ずる。                          (モンテーニュ『エセー』Iー37)  妻も持つべし、財宝も持つべし。できれば特に健康を持つべし。ただし、我らの幸福はかかっ てそこにあるというほどに、それに執着してはいけない.....                          (モンテーニュ『エセー』Iー39)  この世で一番大切なことは、自分に帰ることを学ぶことである。                          (モンテーニュ『エセー』Iー39)  日ごとに新たなる思いがあり、我らの心持ちは天気とともに変わる。                          (モンテーニュ『エセー』IIー1)  生来温厚の君子であるために人の侮辱を何とも感じない人もまた、はなはだ立派な讃むべきこ とをしているのであろうが、恨み骨髄に徹しながら理性の武器によって切なる復讐の念を抑える であろう人、大いなる煩悶の後ついにこれを制御するであろう人こそ、確かに前者にまさるであ ろう。前者は善行、後者は徳行であろう。      (モンテーニュ『エセー』IIー11)  人は他人が書いたものの意味を、とかく自分が心の中にあらかじめいだいている意見につごう よくこじつけたがる。               (モンテーニュ『エセー』IIー12)  人間の疾病(ペスト)は、「われ知れり」という誤った考えである。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)  難解とは、学者たちが手品師のように、その学芸の空なることを示すまいとて用いる貨幣であ る。これによって人間の痴愚はまんまと買収される。 (モンテーニュ『エセー』IIー12)  我らは最も小さい病気も感ずるくせに、完全な健康は少しもこれを感じないのである。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)  世の人は常に自分の正面を見る。わたしは眼を内部にかえす。そこに据えてじっと離さぬ。各 人は自分の前を見る。わたしは自分の内部を見る。わたしはただわたしだけが相手なのだ。わた しは絶えずわたしを考察し、わたしを考察し、わたしを検査し、わたしを吟味する。他の人々は 常によそに行く。                 (モンテーニュ『エセー』IIー17)  沢山の部面をもつ事柄を、一ぺんに判断しようというのは間違っている。                          (モンテーニュ『エセー』IIー32) もし世の人たちがわたしが余り自分について語るのを嘆くならば、わたしは彼らが自分だに考え ないことをうらみとする。             (モンテーニュ『エセー』IIIー2)  わたしはあまり自分の意見を重んじないが、その代わり他人の意見をもあまり重んじないので ある。わたしは人の意見をあまり重んじないのである。わたしは自分の意見を人に押しつけるこ とはなおさら少ない。                (モンテーニュ『エセー』IIIー2)  精神は肉体と極めて仲良しであって、しょっちゅうわたしが肉体の要求に追随するのをそのま まにゆるしている。だからわたしは、精神にだけ媚び彼とだけ仲よくなっていたのである。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー5)  万事を名誉と栄光とのためになす者よ。仮面して世間にまみえ、その真の存在を人々の認識か らかくして、そもそもどんな得をしていると思っているのか。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー5)  人がわたしに逆らう時、わたしの注意は覚めるが、わたしの怒りは燃えない。わたしは、わた しに逆らいわたしを教える者の方に進み出る。真理を論証することこそ、我等共通の立場でなけ ればならぬ。                   (モンテーニュ『エセー』IIー8)  愚者(ばか)を相手にまじめに議論することは不可能である。かかる向こう見ずの先生にか かっては、わたしの判断ばかりかわたしの良心までも腐ってしまう。                          (モンテーニュ『エセー』IIー8)                     この世界は探究の学校でしかない。肝心なのは、だれが的にあてるかではなく、だれがもっ ともみごとな走り方をするかなのだ。        (モンテーニュ『エセー』IIー8)  わたしは強力にして博学なる思想をもとうとはあえて思わない。むしろ楽な・生活に適応せ る・それを持ちたいと願っている・思想は役に立つ愉快なものでありさえすれば、それで十分真 実かつ健全だと思う。               (モンテーニュ『エセー』IIIー9)  彼らはただ忙しがりために仕事をさがしている。それは行きたいからでなく、むしろじっとし ていられないからである。少しも、転落する石と選ぶところはない。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー10)  驚異はすべての哲学の基礎、詮索はその道程、無知はその究極である。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー11)  犯罪そのものよりを遥かに罪深い処刑を、いかに多くわたしは見たことであろう?                          (モンテーニュ『エセー』IIIー13)  我らがちがった境遇にあこがれるのは、自分の境遇をいかに活用すべきかを弁えぬからであ り、自分を脱けだすのは、自分の内部がどのようなものであるかを知らないからである。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー13)  人生を楽しむにはなかなか加減が要る。わたしは他の人々の倍それを楽しんでいるが、まった く享楽の深い浅いは、我らがこれにそそぐ熱意の多少によるのである。特に今では余生がこんな にも短くなっているのを知っているから、わたしはそれを厚みにおいて増したいと思う。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー13)  快楽は決して追っても避けてもいけない。ただ受け入れなければいけない。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー13)  いかにこの人生を良くそして自然に生活すべきかということほど、むつかしい学問はない。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー13)  人生の安楽をこんなに熱心に・またこんなに特別に・抱擁して誇りとしているわたしも、今こ うやってそれらをくわしくながめて見ると、ほとんど風を見い出すばかりである。だが今さら何 を驚こう? 我々はどこからどこまでも風なのである。いや風の方が、我々人間よりはまだ賢明 である。ざわざわと鳴ったりあばれたりすることが好きだけれど、かれ特有の努めに満足し、あ えてかれの特質でない安定や堅固を乞いもとめることがない。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー13)  ともかく、お前は病気だから死ぬのではない。活きているから死ぬのである。死は病気の助け を借りなくたって立派にお前を殺すのである。    (モンテーニュ『エセー』IIIー13)  私もできれば物事のもっとも完全な知識を得たいとは思うが、あんなに高い代価を払ってまで 買いたいとは思わない。私の意図は、余生を楽しく暮らすことで、苦労して暮らすことではな い。頭を悩まそうと思うほどのものは何もない。学問だってどんなに価値があるにしても、やは り同じことである。私が書物に求めるのは、そこから正しい娯楽によって快楽を得たいというだ けである。勉強するのも、そこに私自身の認識を扱う学問、よく死によく生きることを教える学 問を求めるからに他ならない。           (モンテーニュ『エセー』IIー10)  われわれはいままでに他人のために十分に生きてきた。今度はせめて、わずかばかりの余命を 自分のために生きようではないか。[・・・]われわれを自分以外のところに縛りつけ、自分自 身から遠ざけるあの横暴な拘束から身軽になろう。あの強い束縛をほどかねばならない。 [・・・]何よりも大事なことは、いかにして自分を失わずにいるかを知ることである。                          (モンテーニュ『エセー』Iー39)  奇跡は、われわれが自然について無知であるから生まれるので、自然の本質から生まれるので はない。                     (モンテーニュ『エセー』1ー23)  食卓を賑わすためには、考え深き人でなしに面白き人を招く。寝床には立派な女よりも美しき 女を迎える。議論の仲間には能力のある人を選ぶ。必ずしも正直でなくともよい。その他おおむ ね同様にする。                  (モンテーニュ『エセー』Iー28)  偉大な詩人でなければ破格の調べを用いないように、偉大卓抜な霊魂でなければ習慣を超越す る特権をほしいままにすることはゆるされないのでございます。                          (モンテーニュ『エセー』Iー26)  教師は生徒にすべてを篩いにかけさせ、何事も単なる権威や信用だけで頭に宿さないようにさ せなければなりません。アリストテレスの原理も、ストア派やエピクロス派の原理と同じく、生 徒にとって原理であってはなりません。千差万別の判断を彼の目の前に出してみせることです。 彼はできれば選択するでしょうし、できなければ懐疑の中にとどまることでしょう。[...]    知ることと同じように、疑うことは私には気持ちがよい。(ダンテ『神曲』)  なぜなら、もしも彼がクセノフォンやプラトンの思想を自分の判断にいだくなら、それはもは や著者のものではなく、彼自身のものだからです。他人に従う者は何にも従ってはいないのです。 《われわれはいかなる王にも従属しない。各人は自らの自由を主張せよ》(セネカ)少なくとも 彼は知っているということを知ることが必要です。彼は彼らのものの考え方を自分の中に染み込 ませねばなりません。彼らの教訓を学ぶだけではいけないのです。そして何なら、そしてそれを どこから得たかなどといったことは思い切って忘れてしまってもいいから、それを自身のものと して身につけるようにしなければなりません。真理と理性はみんなの共有物であって、後から言 った人よりも先に言った人に属するというものではありません。[...]彼の教育も勉強も学 習も、ただこの判断を作るのが目的なのです。    (モンテーニュ『エセー』Iー26)  われわれは自分で歩むのではなく、人に運ばれている。水に浮かぶものが、水が怒っているか 機嫌がいいかによって、ときには静かに、ときには荒々しく、運ばれるの似ている。                          (モンテーニュ『エセー』IIー1) 毎日、新しい思いつきが生まれ、われわれの気分は天気と共に変わる。                          (モンテーニュ『エセー』IIー1)  われわれはみなもろもろの断片からなっている。しかもその構造ははなはだ雑然としてちぐはぐ であるから、各断片は各瞬間ごとに思い思いのことをやる。だからある時のわれわれとまた別のあ る時のわれわれとの間には、われわれと他人との間におけるほどの相違がある。《常に同一の人で あることははなはだむずかしいことなのだ》(セネカ) (モンテーニュ『エセー』IIー1)  われわれの行為は、いろいろなもののはぎ合わせにすぎない。《彼らは快楽を侮りながら苦痛に おいて弱い。光栄を蔑視しながら誹謗(ひぼう)の前に折れる》(出所不詳)われわれはうその旗 印をかかげて名誉を得ようとする。         (モンテーニュ『エセー』IIー1)  われわれの行為は寄せ集めの、つぎはぎ細工にすぎない。《快楽を軽蔑するが、苦痛には弱 い。栄光を無視するが、不名誉には心くじける。》(キケロ)われわれは偽の看板をかかげて名 誉を得ようとする。                (モンテーニュ『エセー』IIー1)  糸はどこできれようと、それはそこで完成したのだ。そこが糸の端なのだ。最も意欲した死こ そ、最も美しい死である。生は他人の意志による。死に臨んでこそ、最も我々は我々の意志に従 わねばならない。                 (モンテーニュ『エセー』IIー3)  私が書物に求めるものは、そこから正しい娯楽によって快楽を得たいということだけである。 勉強するのもそこに自分自身を知るための学問、よく死に、よく生きることを教える学問だけ を、求めているのである。             (モンテーニュ『エセー』IIー10)  私のもう一つの読書、娯楽のほかにやや多くの利益をもたらす読書、私が自分の思想と性格 を調整することを学ぶ読書、そういう目的に役立つ書物は何かというと、それはフランス語に なってからのプルタルコスとセネカである。     (モンテーニュ『エセー』IIー10)  人間の理性は至る所で踏み迷ってばかりいるが、神の事に関わるときには特にそれがはなはだ しい。                      (モンテーニュ『エセー』IIー12)  《不確実ほど確実なものはない。人間ほど悲惨で不遜なものはない。》(プリニウス)                          (モンテーニュ『エセー』IIー14)  我々の欲望は、その手元にあるものには眼をくれず、それを飛び越えて自分が持たないものを 追いかける。    [...]  我々に何かを禁ずることは、我々にそれを欲しがらせることになる。                          (モンテーニュ『エセー』IIー15)  極端はわたしの主義の敵なのである。         (モンテーニュ『エセー』IIー33)  わたしは決してわたしの思想に反する思想を憎みはしない。わたしの判断と他人のそれとの間 に大きな食いちがいがあるのを見ても、どうしてどうして、わたしはいきり立つどころではない。 人々が自分とは異なる分別を持ち、異なる意見を持つからといって、それらの人々の交際に背を 向けるどころではない。むしろ変化こそ自然が採用した最も一般的な流儀なのであるから、それ は物体においてよりも精神においてますます多くあるものであるであるから、(なぜなら精神の 方がより柔軟な・より多くの形を与えられ易い・実体であるから、)わたしは我々の考えや企て に一致を見たら、かえって珍しいことと思うのである。実に、世に二つと同じ意見はなかった。 二筋の髪・二粒の米粒、が同じでないように、人々の意見に最も普遍的な性質といえば、それは それらが多様であることである。          (モンテーニュ『エセー』IIー37)  つまらないことが我々の気持ちをそらせ、変えさせる。つまらないことが我々の心をとらえる からだ。我々は事物を全体として、そのものだけとして見ない。我々の心を打つのは、些細な上 っ面の事情と姿である。事物から脱け出てくる空虚な上皮である。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー4)  嫉妬は精神の病気の中で、一番つまらぬ原因のために起こり、一番つける薬のない病気である。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー5)  わたしは物を書くとき、書物の助けをかりたり、かつて読んだことを思い出したりすることを しないようにする。書物がわたしの考え方に影響するといけないからである。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー5)  わたしはあえてこう言おう。「男も女も同じようにできている。教育と習慣を除けば大した差 異はない。」                   (モンテーニュ『エセー』IIIー4)  われわれの生命はどこで終わろうとそれはそこで全部なのだ。人生の有用さはその長さにある のではなく使い方にある。長生きをしてもほんど生きなかったものもある。                          (モンテーニュ『エセー』Iー20)  われわれは事物を解釈するよりも解釈を解釈するのに忙しい。どんな主題に関するよりも書物 に関する書物の方が数が多い。われわれはたがいに注釈し合うことばかりしている。  注釈書はうようよしているが、著者のほうは大いに欠乏している。                          (モンテーニュ『エセー』III−13)  私の言うことを信用するなら、若い人はときどきは極端に走るがよい。 そうしておかないと ちょっとした道楽にも身をほろぼすことにもなり、人とのつきあいにも扱いにくい不快な人間に もなってしまう。紳士たるものにもっともそぐわない性質は、やかましすぎること、ある特別な 生き方に束縛されることだ。生き方は順応性がないと気むずかしいものとなる。                          (モンテーニュ『エセー』III−13)     私は踊る時には踊る。眠る時には眠る。また、一人で一人で美しい果樹園を散歩するときも、 いくらかの時間は、何かほかの出来事を考えているけれども、それ以外の時間は、これを散歩に、 果樹園に、この一人でいることの楽しさに、私自身のことに、連れもどす。自然は、われわれの 必要のためにわれわれに命ずる行為を、われわれにとって快適なものするという原則を慈母のよ うに守ってくれた。そしてわれわれを理性によってばかりでなく、欲望によってもそこに誘って くれる。この自然の原則を損なうのは不正である。  (モンテーニュ『エセー』III−13)  哲学者の詮索や瞑想(めいそう)は、われわれの好奇心の糧(かて)となるだけである。哲学者たち がわれわれを自然の規則に押し返すのははなはだもっともなことであるが、その自然の規則は何もあの ような崇高な知識を必要とはしないのである。彼らはそれらを偽造し、彼女〔自然〕の顔をあまりにけ ばけばしく、あまりに人為的に塗(ぬ)り立ててわれわれに示すので、あんなに一様な一つのものに対 して、あんなにもいろいろな肖像が生まれることになる。彼女はわれわれに歩く足をつけてくれたよう に、生きてゆくための知恵もつけてくれた。それは哲学者が発明したそれのように・巧妙な・がっちり した・ものものしい・知恵ではないが、いかにも彼女にふさわしい楽で健康な知恵である。それは幸い にして素朴に適正に・換言すれば自然的に・生きることを知っている者においては、哲学者の知恵が約 束する以上のことを立派にしてのけている。もっとも単純にその身を自然に委せるということは、これ に最も賢明に身を委せることである。おお無知と無好奇こそはよく作られた頭脳を休めるのになんと楽 な・柔らかい・そして健康的な枕であろう!〔※〕  (※関根注、おそらくこの句は、モンテーニュの中で最もしばしば引用せられ最も人口に膾炙(かい しゃ)せるものの一つであって、彼の怠惰と懐疑主義との根拠にせられがちであるが、むしろモンテー ニュの健康な常識をこそ、ここに見るべきである。これは学問知識の否定ではなくして、単に第一原因 を究明せねばおられぬ哲学者の思い上がりと、かかる哲学の非健康性とを、たしなめているにすぎな い。)                       (モンテーニュ『エセー』III−13)  まず、私にものを書いてみようという夢想を起こさせたのは、ある憂鬱な気分、したがって、私の生 まれつきの性格とは大いに相容れない気分の仕業なのです。その気分は、私が数年前に飛び込んだ孤独 の淋しさから生まれたものなのです。 それに、私にはほかに書くべき材料が何一つありませんので、 私自身を自分の前に差し出して、これを材料とも主題ともしたわけなのです。これはこの種のものとし ては世界にただ一つの書物であり、奇妙でとっぴな企てなのです。                          (モンテーニュ『エセー』II−8)  もしも誰一人私を読む者がないとしても、私がこんなに多くの暇な時間を、こんなに有益な愉快な思 索にまぎらしたことが、はたして時間の空費というべきなのだろうか。私は、私に型どってこの像を作っ てゆく間に、私の本当の姿をとりだすために、何度も自分を整え、身構えねばならなかった。そのため に、原型のほうがだんだんと固まって、ひとりでにいくらか形が定まってきた。他人のために自分を描 きながら、私は初めの頃の自分よりもはっきりした色彩を帯びてきた自分を描いた。私が私の書物を作っ たというよりも、むしろ書物が私を作ったのだ。   (モンテーニュ『エセー』II−18)  われわれの幸福とは、悪い状態の欠如にすぎない。だからこそ、快楽に最大の価値を認めた哲学の学 派(エピクロス派)は、さらにすすんで、快楽をただ、苦痛のない状態としたのである。少しも苦しみ を持たないということが人間の望みうる最大の幸福なのである。[...]  そこで私はこう言うのである。「もし単純さがわれわれを無痛に導くとすれば、この単純さはいまの ような境遇にあるわれわれをきわめて幸福な状態に導くものである」と。  だが、その単純さを何の感情もない鈍感なものと想像してはならない。実際、クラントルが、エピク ロスの無痛を、苦痛の接近も発生も感じないほど深いところにあるものなら、そんなものはご免こうむ る、と言ったのはもっともである。私はこのように可能でもなければ望ましくない無痛を少しも誉めた いとは思わない。病気でないことを嬉しくは思うが、病気のときは病気であることを知りたいし焼灼さ れたり切開されたりするときはそれを、それを感じたいと思う。本当に苦痛の感覚を根滅するならそと 同時に快楽の感覚をも絶滅し、結局は人間そのものを破壊することになろう。                        (モンテーニュ『エセー』II−12)  自説に固執し熱中すのは、ばかの最も確かな証拠である。およそ確信があり・物に動ぜず・威張って おり・瞑想的で・荘重で・謹厳であること、ロバほどのものがまたとあろうか。                        (モンテーニュ『エセー』III−8)                 目次へ 附:モンテーニュの塔の書斎の天井の梁に刻まれた文
   モンテーニュの塔の書斎の天井の梁に刻まれた文                (関根秀雄、荒木昭太郎訳利用、一部佐々木敏光改訳)   <天井の梁に刻まれたこれらの文は、『エセー』の発想の源の一部(たとえば懐疑主義)となって     いる。>  まず書斎のそばの小部屋の壁に書かれた文から。モンテーニュは自らを三人称で書いている。  キリスト紀元一五七一年三月一日の前日、すなわちその三十八歳の誕生日に、ミッシェル・ド・モン テーニュは、久しい前から法廷での隷従と公務の責務とに倦み疲れているため、まだ十分に壮健ではあ るが、安息と平安のうちに、なお残っている日々を過ごすことができるようにと、博学な女神たちの胸 にひきこもることにした。どうか運命が彼に恵みを与え、彼がその祖先伝来の快適な住居を充実して、 その自由と平静と閑暇のためにあてることを許されるよう。  以下、天井の梁に刻まれた文(全五十七中三十)  神が人間に知識の欲望を与えたのは、人間を苦しませんがためである。(『旧約聖書』「伝道書」)  風は空の革袋をふくらませ、傲慢は判断力のない人間をふくらませる。 (ストパイオス)    何も考えないこと、これこそ最も楽しい生活だ  (ソフォクレス)  それはこうでもなくああでもない。すなわちそのどちらでもない。(セクストス・エンペイリコス)  天も、地も、海も、あらゆるものは、偉大な全宇宙に比較すれば何でもない。(ルクレティウス)  善きものはすばらしい。  (プラトン)  神は自分以外のだれにも、高ぶる心を持つことを許さない。(ヘロドトス)  おまえに最後の日を、おそれもするな。よろこびもするな。(マルティアリス)  わたしは人間だ、人間のことで、何ひとつわたしに無関係なものはない。(テレンティウス)  適切な度合以上に賢いのはいけない。節度をもって賢くあるように。(『新約聖書』「ローマの使徒への手紙」)   なにびとも知らない、知りえないであろう、確実な何事も。 (セクストス・エンペイリコス)   われわれが死と呼ぶものが生であり、死ぬことが生きることであるかもしれない。(エウリピデス)  同じことをこうも言えるしああも言える。  (ホメロス)    人間はお話に飢えている。      (ルクレティウス)  すべてのものにむなしさがある。  (『旧約聖書』「コヘレトの言葉」)  節度を守り、限界を超えず、自然に従うこと (ルカヌス)  土と灰であるおまえが何を誇るのか。(『旧約聖書』「シラ書」)  現在そこにあるものを楽しみ用いよ。それ以外のものはきみにとって余計なものだ。(モンテーニュのラテン語句)  いかなる理由にも同様な反対理由を対置できる。 (セクストス・エンペイリコス)   われわれの魂は闇のなかを行く。目は見えず、真実を分別できない。  (ミシェル・ド・ロピタル)  不確実ほど確実なものはない。人間ほど悲惨で不遜なものはない。(プリニウス)  自分を重要だと思うことによりおまえは滅びる。自分をひとかどの人物と思いこむことによって。 (メナンドロス)   人間は物自体でなく、それにかかわる考えによって苦しめられる。(エピクテトス)    死すべき人間は自分の分に応じた思想をもつことがふさわしい。  (エウリピデス)  なぜおまえの弱い魂を力を超えた永遠の計らいのために疲れさせるのか。 (ホラティウス)  わたしは何事も決定しない。 (セクストス・エンペイリコス)  わたしは判断を保留する。(セクストス・エンペイリコス)  わたしは検査する。(セクストス・エンペイリコス)  習慣と感覚を案内者として  一方に傾くことなく                   目次へ テーマ別『エセー』抄(準備中)
★多様性★  もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟性をもった精神である。                         (モンテーニュ『エセー』III−3)     ☆(この文の前にある文は以下の通り)  自分の資質、性格にあまり固執してはならない。われわれの第一の才能はさまざまな習慣に順応でき るということである。やむをえずたった一つの生き方にへばりつき、しばられているのは、息をしてい るというだけで、生きるということではない。もっとも美しい精神とは、もっとも多くの多様性と柔軟 性をもった精神である。 ★運命★  運命は我々を幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とを我々に提供するだけである。それら を、それらよりも強力な我々の心が、自分のすきなように、こねかえすのである。これが我々の心の状 態を幸福にしたり不幸にしたりする・唯一の・おもな・原因なのである。                              (モンテーニュ『エセー』Iー14) ★人間★  わたしは人間だ、人間のことで、何ひとつわたしに無関係なものはない。       (テレンチウス −− モンテーニュの塔の書斎の天井の梁に刻まれた文)  人間は実に狂っている。虫けら一匹造れもしないくせに、神々を何ダースとでっち上げる。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12) ★時代★  ひとは、もっとよい時代にいないことを残念に思うことはできても、現代の時代をのがれるわけには いかない。            (モンテーニュ『エセー』III−9)  われわれを、柔弱でも無力でもない時代に生きるようにさせてくれた境遇に感謝しようではないか。                      (モンテーニュ『エセー』III−12) ★生きる★  私が猫と戯れているとき、ひよっとすると猫のほうが、私を相手に遊んでいるのではないだろうか。                     (モンテーニュ『エセー』II−12)  だが、市長とモンテーニュとは常に二つであって、截然と区別されていた。     ☆[註:モンテーニュは一時ボルドー市長をつとめた。公務のためといえども、自己の良心の       自由をいささかも譲るまいという意識。] [....]  私はそんなに深く、完全に、自分を抵当に入れることはできない。わたしの意志がわたしをある一派 に与えるときも、それは無理な拘束によってではないから、私の判断理性がそのために害されることは ない。                       (モンテーニュ『エセー』III−10)  われわれの職業の大部分はお芝居みたいなものだ。《世の中は全体が芝居をしている》われわれは立 派に自分の役割を演じなければならぬ。だがそれを仮の人物の役割として演じなければならぬ。仮面や 外見を実在とまちがえたり、他人の物を自分の物とまちがえたりしてはならない。われわれは皮膚とシャ ツとを区別できない。顔にお白粉を塗れば十分なので、心まで塗る必要はない。                               (モンテーニュ『エセー』III−10) ★考える★  すぐれた記憶は弱い判断力と結びやすい。     (モンテーニュ『エセー』I−9)  多くの場合、教える者の権威が学ぼうとする者の邪魔をする。   [キケロからの引用]             (モンテーニュ『エセー』I−26) ★老い★  老年はわれわれの顔よりも心に多くの皺を刻む。  (モンテーニュ『エセー』III−2) ★自然★  われわれは自然の作物の美しさと豊かさの上に、あまりにも多くの作為を加えすぎて、これをすっか り窒息させてしまったのだ。けれども自然はその純粋さの輝くいたるところで、われわれのはかなくつ まらない試みに赤恥をかかせている。        (モンテーニュ『エセー』I−31) ★懐疑★  極端はわたしの主義の敵なのである。         (モンテーニュ『エセー』IIー33)  哲学者の詮索や瞑想(めいそう)は、われわれの好奇心の糧(かて)となるだけである。哲学者たち がわれわれを自然の規則に押し返すのははなはだもっともなことであるが、その自然の規則は何もあの ような崇高な知識を必要とはしないのである。彼らはそれらを偽造し、彼女〔自然〕の顔をあまりにけ ばけばしく、あまりに人為的に塗(ぬ)り立ててわれわれに示すので、あんなに一様な一つのものに対 して、あんなにもいろいろな肖像が生まれることになる。彼女はわれわれに歩く足をつけてくれたよう に、生きてゆくための知恵もつけてくれた。それは哲学者が発明したそれのように・巧妙な・がっちり した・ものものしい・知恵ではないが、いかにも彼女にふさわしい楽で健康な知恵である。それは幸い にして素朴に適正に・換言すれば自然的に・生きることを知っている者においては、哲学者の知恵が約 束する以上のことを立派にしてのけている。もっとも単純にその身を自然に委せるということは、これ に最も賢明に身を委せることである。おお無知と無好奇こそはよく作られた頭脳を休めるのになんと楽 な・柔らかい・そして健康的な枕であろう!〔※〕  (※関根注、おそらくこの句は、モンテーニュの中で最もしばしば引用せられ最も人口に膾炙(かい しゃ)せるものの一つであって、彼の怠惰と懐疑主義との根拠にせられがちであるが、むしろモンテー ニュの健康な常識をこそ、ここに見るべきである。これは学問知識の否定ではなくして、単に第一原因 を究明せねばおられぬ哲学者の思い上がりと、かかる哲学の非健康性とを、たしなめているにすぎな い。)                       (モンテーニュ『エセー』III−13)  
                 目次へ    モンテーニュに関しての評言・抄    

 雪に閉じ込められそうな予感がしたので、仕事のない日を過すために十分な読物を用意し なければならなかった。1000ページぐらいの本で、厚くて活字が小さく、挿絵のないも のであれば何でもよかったのだ。古本屋でそんな本が見つかり、1ドルで買ったが、表紙に は『ミシェル・ド・モンテーニュのエセー』と書かれていた。随想(エセー)が何かは知っ ていたが、モンテーニュについてはまったく知らなかった。  雪についての予感は当り、閉じこめられている間に、私はほとんどおぼえてしまうまで、 モンテーニュをくりかえし3回読んだ。『エセー』は何百年も前のフランス貴族が自身のこ とを綴った本だが、読むたびに私のことが書かれている気がしたし、どのページにも私がい た。モンテーニュは私の考えの根底にあるものを熟知している。彼の言葉は的確で、ほとん ど箴言調である。このとき、私はすばらしい文章の魅力といったものを知ったのだ。サンホ アクィン・ヴァレーに戻ったときには、私がモンテーニュの引用なしには口を開けなくなっ ていたが、まわりの同胞たちもそれを気に入ってくれた。         (『エリック・ホッファー自伝』中本良彦訳、平凡社)  自由で惑いのない彼の思想が最も役に立つ世代は、たとえばわれわれのように運命によって うずまく世界の激動のなかに投出された世代なのである。戦争と権力と専制的なイデオロギー が一人一人の生活をおびやかし、さらにその生活の内部では個人の自由という最も貴重なもの がおびやかされるといった集団狂気のの時代に、いつまでも心の奥底の自我に忠実であろうと するのには、どれほど勇気と誠実さと決心が必要であろうか。それを知っているのは、そのよ うな時代を、震撼された自己の魂のうちに体験しなければならない人だけである。[....]  モンテーニュの叡智と偉大さは、経験をつみ試練を受けた人間となってはじめて評価できる ものである。[....]『エセー』を、私がはじめて手にしたのは二十歳のときであったが、正直の ところ当時の私は、それを読んでも何の役にも立てることもできなかった。         (「モンテーニュ」『ツヴァイク全集5』柴田翔他訳、みすず書房)  モンテーニュこそエッセイの創始者である。作家が一人の人間として自分の感ずるままを語る勇気も またモンテーニュに始まる。勇気は人間的な強さから出てくる。それ故、彼にはその勇気を持つことを 可能とさせるに十分な観察の確かさと真実性があったに違いない。彼こそは真の意味で独立独歩の人で あった。すなわち、他人に盲従せず、自分自身の眼で物を見る力が彼にはあった。偏見や見せかけ、知っ たかぶりは彼には無用であった。ペンを手に取る時、彼は自分を哲学者、学者、弁舌家、道徳家のどれ にあたるかを思案するようなことはしなかった。そのすべてが彼であった。およそ人に伝えるに値する と彼が考えたことは、それを飾らずありのままに語った。その時その場に応じて、自分がどのような役 を演ずることになろうと構わず、勇気をもって語った。一つの問題をとり上げる時、よくある評論家の ように抽象的な意見を述べ立てたりはしなかった。彼がしたことは自分がとりあげた事柄の真実をつか むことであって、それを説くことではなかった。物知りをてらう学者先生でもなく、また独断偏屈に陥 る頑固者でもなかった。すべての知らなければならないとか、すべては自分の予期したとおりに、望み どおりに、なるとは彼は決して考えなかった。人間とその生き方を語る時、かれはその見たとおりに語っ た。先入観や抽象的な教義に頼ることはなかった。他人のことを語る前に彼はまず自分を語った。文学 の批評においても彼は他人の作った特定の基準や体系によって作品を比較することはせず、ただ自分の 好き嫌いを正直に述べた。人には物事を優劣を判断することはできるかもしれないが、それを他人に説 くことはおかしなことなのだ。ひとことで言えば彼こそは、人の意見を変えるためでなく、物事の真実 によって自分自身を納得させるためにペンを取った最初の文人であった。彼を読む時、われわれは作家 としてのモンテーニュと、人間としてのモンテーニュと、そのいずれに魅せられるのだろか? そのい ずれでもなく、その両方が一つになってわれわれを魅了するのである。彼の文章には力だけではなく、 限りない誠実さと正直さがある。人に何かを押しつけたり隠し立てたりしたり、もったいぶったりごま かしたりということは絶対にしなかった。彼には、自分の言うことの正しさを証明しようという姿勢な ど毛頭なく、いわんや他人の誤りを証明しようというケチな気持ちなど勿論ない。彼は自分の考えを混 じり気なく語ることによって、その心の奥底をわれわれに見せてくれる。その語り方は、生徒を自分と 同レベルの愚か者にすることしか考えない説教好きの無能な教師とは違って、思索と観察を通して生き てきた、ものわかりのよい哲人、友人のする語り方である。人生とは楽しく、生きるに値するものだと いう、ただこの一事を彼はわれわれに知ってほしいと願っていた。このような作家は、掃いて捨てるほ どあり余る物知りや学者先生より、どんなに偉いか知れない。見かけだけは大層立派な題をのせた本な ど彼の前ではまるで役に立たない。エッセイという文章道を史上はじめて自分の方法とすることによっ て、彼はその道に似つかわしい生涯を送った。すなわち、書く時と同じ勇気と正直さをもって世間の低 俗な因習と偏見を振り払い、それらの拘束を踏みにじる精神をわがものとしたのである。人間と人生を 正しく判断したいと望む者は、モンテーニュの中に、それの必要なすべての鍵を見いだすであろう。      (『ハズリット全集』(中川誠著『ハズリットの世界』より引用))  パスカル氏は、自分が最も常に読んだ書物はエピクテートスとモンテーニュとであっ た旨を述べ、これら両思想家を大いに賞賛した。   (中略)  一人(エピクテートス)は人間の義務を知りその無力を知らぬため高慢に陥り、他 (モンテーニュ)は無力を知り義務を知らぬため卑怯に堕してしまいます。      (「ド・サシ氏との対話」 『パスカル全集 第一巻』人文書院)  「モンテーニュを読み返しています。僕にはあの男と同じ点が実に沢山あること、まさに不思議なく らいですよ!これは偶然の一致か、或いは、十八才の時,丸一年というもの彼しか読まず,存分に腹に 詰め込んだせいでしょうか?それにしても,僕の感情がその極微な点に至るまで非常に繊細に分析して あるのには、愕然としてしまうことしばしばです。我々は、同じ好み、同じ意見、同じ生活態度、同じ 偏癖を持っています。彼以上に讃嘆する人物はありますが、彼ほど、好んでこの世に喚び出し、対話を 交したい気になる人物は他にありません。」(1853.10.28-29.)  「モンテーニュをお読みなさい、ゆっくりと落ちついて読んでごらんなさい、心が鎮まりますよ。 〔…〕けれども、子供のように楽しむために読んだり,野心を持った人のように、知識をますために読 んだりしてはなりません。そうではなく、生きるために読むのです。〔…〕はしからはしまで読み、終 わったらまた始めから読んでみるのです。」(1857.6.)    (『フローベール全集9 書簡 II』筑摩書房、1968)  「歓喜は大きく拡げなければならぬが、悲哀はできる限りけずりとらねばならぬ。」(『エセー』 三・九)  こういう気質を私は、確かに、モンテーニュのうちに発見する。私が、べつにモンテーニュから教え られたものではなく、この気質は彼自身のものでもあれば、また私自身のものでもある。したがって、 私に先だって彼がそう言っていなくとも、私は、このような言葉は書けるのだ。  「私はこの方面では、この世にプラトンがいるのを知らなかった以前から、プラトン主義者であった」 (『エセー』三・一二)と書いている。このようなわけで、私もまたモンテーニュ主義者であったわけ である。  (ジイド・原注)「私が前世においてそれを書いたように思われるほど、これはほんとうに私の思想           と経験とにぴったりと合うのである」とエマスンは『エセー』について言ってい           る。    (アンドレ・ジイド『モンテーニュについて』 世界文学大系『モンテーニュ I 』掲載)  私は近頃モンテーン(モンテーニュ)に於て自分の心の慰藉を見出すやうに思ふ。彼は豊富 な人間性を有し、甘いも酸いもよく分かつてゐて、如何なる心持にも理解と同情を有つてくれ さうな人に思へる。彼自身の事を書いたといふ彼の書の中に、私自身のことを書いたのではな いかと思はれる所が多い。彼の議論の背後に深い、大きな原理として掴むべきものがあるので はない。又彼の論じてゐる事柄は、何人の関心でもあるやうな平凡なものであるかも知れない。 併し彼は実に具体的な人生其者を見つめてゐるのである。掴むことのできない原理を掴んでゐ るのである。  (中略)  モンテーンは実に心の広い人であつた。あの人には如何なる心の秘密も打ち明けることがで き、如何なる心持にも同情してもらへるやうな気がする。         (西田幾多郎 「暖炉の側から」)  なお、西田幾多郎は「フランス哲学についての感想」において、フランス哲学の直観的な面を 指摘しつつ、モンテーニュについて、次のようにも言っている。  「元来芸術的と考へられるフランス人は感覚的なものによつて思索すると云ふことができる。 感覚的なものの内に深い思想を見るのである。  (中略)  「サン」sens は、一面に於て内面的と考へられると共に、一面に社会的、常識的とも考へる ことができる。概念に制約せられない直観である。それは自己自身を表現する実在、歴史的実在 に対する「サン」である。さういふ意味に於ては、かかる立場から、世界を見るのは、モンテー ンが先駆をなしたと云ふことができるであらう。彼は実に非哲学的な哲学者である。日常的問題 を日常的に論じた彼のエッセーの中には、時には大げさな体系的哲学以上の真理を含んで居る。 歴史的実在の世界は日常的世界である(そこが哲学のアルファでもオメガでもある)。彼の描い た自己は日常的世界に於て生きぬいた自己である。併しそこからはすぐパスカルの「パンセー」 の世界にも行ける。彼は偉大な凡人である。モンテーンがフランス人にかういふ物の見方考へ方 を教へたとも云へるであらう。」  (西田幾多郎 「フランス哲学についての感想」)  西田哲学の西田先生が『エセー』を読んでみたいとおっしゃった。わたしは八冊本のドイツ訳とヴィ レーの三冊本を持参した。源氏は須磨、明石まで読めば、およその見当がつくという俗説がある。モン テーン(先生の発音)を読むのにわるいかも知れんが、はじめに何から読んだらいいか、と言われるの で、やはり第一巻で「子供の教育」、第二巻で「書物について」、第三巻では「三つの交わり」「ウェ ルギリウスの詩句」「人相」などがよろしいでしょうと申し上げた。まだ一っ二つあったように思う。 数日後お目にかかったら、いやどうも、モンテーンという人はまったく珍らしい人だ。最上の意味で物 わかりのいい人だ。類のない人だ。どうもありがとうとおっしゃった。「マルクスゆゑにいねがてにす る」と歌におよみになったくらい、弁証法論議のやかましかった当時である。先生も肩のこりをすこし はほぐされたであろうか。三つの交わり」の中の書斎と散歩の話もたいへん面白いといわれた。西田先 生も、歩きまわりながら物を考える方であった。                    (落合太郎『世界文学体系 モンテーニュ 解説』)  わたしが誠実という点でショーペンハウアーと同等にみている、むしろ彼より高い位置を与え ている著作家はただの一人しかいない。それはモンテーニュである。実際、こうした人間が物を 書いてくれたおかげでこの世に生きる楽しみが増えたのだ。少なくともわたしは、このうえなく 自由で力強いこの精神を知って以来、生きがいが一つ増えたと言っていいので、彼がプルタルコ スについて語っている言葉はそのまま現在のわたしの心境を言い現わしているのである。「彼に 一瞥を投げると、たちまちわたしは脚か翼が新たに生えてくるのだった。」もしこの世を安らか に住みなすという課題を出されたなら、わたしは彼と結んでその解決に当たるだろう。  ショーペンハウアーは、誠実のほかにさらに第二の特性をモンテーニュと共有している。人の 心を晴れやかにする本物の明朗さがそれである。他人には明朗を、自身には智慧を。         (「反時代的考察」『ニーチェ全集第二巻』三光長治訳、白水社)  ニーチェがまず知ろうとしたことは、モンテーニュがどのようにしてあれだけ深い懐疑主義と 「人間的、あまりに人間的」なものに対してパスカルの絶望や諦めや、ラ・ロシュフーコーの冷 やかな軽蔑に陥ることもなく、人間の弱さと挫折に対しての洞察力を持つことができたのかとい うことである。モンテーニュこそ、ニーチェが最も重要と考えていた自由で快活、そして思いや りと徹底して誠実な精神の持ち主であった。         (「ル・ポワン誌 No 1768 ロバート・ピピン教授へのインターヴュ」)  さて、パスカルが自分の大敵として対峙したのは、モンテーニュである。パスカルはたしかに 不落である。が、モンテーニュはあらゆる作家のなかでもっとも攻略しがたい一人である。霧を けちらそうとして、そのなかに手榴弾を投げこむようなものだ。モンテーニュは霧であり、ガスで あり、流動する陰険な元素である。彼は推理しない、巧みにとりいり、魅惑し、感化する。たとえ 推理することがあっても、それは議論によって説得しようというのではなく、もっと別のことを企 んでいるものとこちらは覚悟すべきである。ここ三百年間のフランス思想の流れを理解したければ、 モンテーニュこそ知らねばならぬもっとも重要な作家であるとさえ言える。ポール・ロワイヤルの 人たちには、モンテーニュの影響はあらゆる意味で好もしからぬものだった。彼を殲滅する意図を もってパスカルは彼を研究したが、そのパスカルの一生の終末に書かれた『パンセ』には、比喩や 単語のつかいかたに至るまで、まるでモンテーニュからくすねてきたような文章が次々と見つかる のである。   (「パスカルの『パンセ』」『エリオット全集 5』中村保男訳、中央公論社)  さらに、彼が老荘哲学の信奉者として解釈されるのもほとんど時間の問題にすぎない。実際、 彼は、その相対主義や自然への信頼や死の受容の点で、ほとんど老荘哲学の信奉者のようであ る。           (ピーター・バーグ『モンテーニュ』小笠原、宇羽野訳、晃光書房)  「数多くの本を読んだ後でモンテーニュを読んでみたまえ。諸君は語られたことのみならず、語 るその仕方にも魅了されるだろう。」(アラン『哲学者たちについてのプロポ』)  また別の本から、「モンテーニュはこの(宗教的な哲学の)長い夜の果てに出現した曙光である。 古代の教養に培われた彼は、論理学がしかける罠をねばりづよく徹底して疑うことで掌握し、人間 であることに耐え忍んでよく死ねとさとしてくれるストアの叡智にゆるぎない判断でしたがうこと によって、判断だけを、つまり神なき人間をふたたび描きだした。想像力、迷信、先入見、情念に 立ち向かう驚嘆すべき精神力は、『エセー』のなかに脈々と流れている。『エセー』は体系もなけ れば証明への熱狂も見あたらない、おそらく唯一の哲学書だろう。」(アラン『小さな哲学史』)  ギリシア哲学の進む道の一つの結論にストア哲学があるが、古東哲明著『現代思想としてのギ リシア哲学』の中に「ストア哲学」の記述があり(モンテーニュについては触れていないが)、 その中で「最古のエチカ」、そして「未来のエチカ」としての「ストア哲学」が言及されてい る。著者は、ストア哲学には、善悪を超えてすべてを受け入れようとする海のような広大な「海 溶エチカ」があり、そこに「最古のエチカ」を見、それは「未来のエチカ」でもあるという。そ こには、その後大きな力を持つことになる一神教を基底にもつ「選別エチカ」、つまり「西洋近 代の排他装置」の閉塞的な展開を突き崩そうという思いがある。佐々木敏光のモンテーニュへの 思いもそれに重なる。    (古東哲明『現代思想としてのギリシア哲学』講談社選書メチエ)  上記のモンテーニュの簡単な紹介で「ギリシア・ローマ古典の深い読書を通じ東洋の自由に満 ちた知恵と通底する面も多い。」と書いたが、西田幾多郎は三木清との対話で「本当の出発点は 現実からでなければならない。現実は主観的で客観的であり、時間的で空間的であり、現実の世 界とは動く世界である。」と述べ、さらに「今までのものの考え方は、主観客観のどちらかから 出発しているのだが、主観客観を包む理論がなくてはならぬことになる。そう考えると、近世の 主観客観が対立しているような立場よりも元へ戻った方がよくはないか。ギリシアには主客の対 立が発達しなかった。その意味で幼稚ともいえるが、両方を含んだ岐れる前のものがあったので ギリシア哲学にまで帰ってみなけりゃならんと思うね。」と言っている。このことはモンテーニュ を読むことと重なるようにも思える。                   (西田幾多郎+三木清『師弟問答 西田哲学』)  そのころ大学町を歩いていたとき、見知らぬ初老の男が近づいてきて「クリスマスには約束があるか」 ときく。ないと答えると、それではコネチカットにある私の家に泊まりに来てくれ、迎えに来る、とい う。  彼は小学校の校長で、[・・・]  彼には、私を招く理由があった。哲学が趣味で、あれこれ古典を読んでみたが、世界の四大哲人とさ れている中で、孔子がどう考えてもプラトンやアリストテレスと並ぶ哲学者とは思えない。君はどう思 うか、とういうのだった。  私はハーヴァード大学哲学科に入ったばかりで、まさにプラトンやアリストテレスを読む日常だった。  私には答えられなかった。八十六歳の今なら答えられる。  「あなたは、モンテーニュをどう思いますか」と、問いによって答える方法である。  まし彼が、モンテーニュなどは西洋哲学史においてさえたいした哲学者ではない、と答えるならば、 問答はそこで終る。彼が別の答えを出すならば、問答はそこから新しく始まる。その探求は、彼にとっ て西洋哲学史の問い直しへの道をひらくだろう。                 (鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書))  たとえば、モンテーニュのような思想家は反体系的な思想家の代表のようにみえる。われわれ は、モンテーニュのいうことをまとめてしまうことはできない。そこには、エピキュリアンもい れば、ストア派もおり、パスカル的なキリスト教徒もいる。だが、それはけっして混乱した印象 を与えない。注意深く読むならば、『エセー』のなかにはなにか原理的なものが、あるいは原理 的にみようとする精神の動きがある。『エセー』がたえず新鮮なのは、それが非体系的で矛盾に みちているからではなく、どんな矛盾をもみようとする新たな眼が底にあるからだ。そして彼の 思考の断片的形式は、むしろテクストをこえてあるような意味、透明な意味に対するたえまない プロテストと同じことなのである。                 (柄谷行人『マルクスその可能性の中心』講談社)  初めてエッセイ集をだした記念に、随筆の王様を紹介しよう。モンテーニュの『エセー』であ る。400年以上も昔の、フランスの片田舎で書かれたエッセイの、どこがおもしろいのかとい われても、困ってしまう。実際手にとれば、うまいソバでもたぐるようにつるつると読めてしま うのだからしかたがないのだ。ゆとりのあるとき、このエッセイの一冊を片手に寝そべるほど穏 やかな満足は、ほかにちょっと見あたらないとぼくは思う。  例えばこんな調子である。「可愛らしさにすぎないものを力と呼んだり、鋭いだけのものを堅 いといったり、または美しいだけのものを良いといったりしないように、誰でもいくらか用心し なければならない」  ネットと映像の(いいかえればノイズ情報と表面だけの)21世紀に、これほどしっくりくる なんて、このおじさんはなかなかやるなあ。いい声をしたすぐれた人から、気楽なおしゃべりを、 ふたりきりでゆっくりきく。この親密さこそエッセイの醍醐味(だいごみ)なのだ。  こんなふうにいうと、昔はのんびりしていたからだという人もいるかもしれない。だが、16 世紀後半のフランスは、ペストの流行と宗教戦争による大乱世の最中だった。エイズと新型イン フルエンザ、終わりなき自爆テロが、ありふれたニュースになった現代とすこしも変わらないの である。  それになにより「理由なく城を固守するために罰せられること」とか「三人の良妻について」 などという絶妙な題名がついていたら、誰でも読んでみたくなるだろう。岩波文庫で全6冊の長 大なエッセイで出会うのは、「私のことよりほかには何も目ざしませんでした」というモンテー ニュの驚くべき誠実さなのだ。  人の心がいかに変わらないか。また、それがどれほどの幅の広さと深さをもつものか。気軽に つきあううちに、いつのまにか人間の素晴らしさに心打たれている。エッセイになにができるの か、これはその証明のような本である。 (石田衣良「たいせつな本(上)」朝日新聞)  
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東洋の知恵(智恵)・抄 (ギリシア・ローマ時代のまだ排他的なキリスト教的一神論に染まっていない
書物に学ぶことの多かったモンテーニュには、東洋思想に通底する面も多い。
以下、さまざまな書物からの引用を掲載する。)


 若いうちから、楽しかったことをよく記憶しておいて、これだけおもしろい人生を送ったのだから、 もういつ死んでもいいと思うような心理的決済を常につけておく習慣をつけるといい。                   (守屋洋『逆境にとらわれず、のびやかに』)  ひとりで遊ぶ癖をつけること。    (守屋洋『逆境にとらわれず、のびやかに』)  自遊人・自由人           (出典、誰かのはずだが、誰でもよい)  この世のなかで、思い通りにならないことが、常に十のうち七、八もある。  (天下、意の如くならざる事、十に常に七、八なり)               (『十八史略』・守屋洋『逆境にとらわれず、のびやかに』)  君子も窮することあるか。  君子固(もと)より窮す、小人窮すれば斯(ここ)に濫(みだ)す。                       (孔子『論語』)  川の上(ほとり)にありて曰(いわ)く、逝(ゆ)くものは斯(かく)の如きかな、昼夜を舎(お) かず。                    (孔子『論語』)  君子は和して同せず、小人は同じて和せず   (孔子『論語』)  天地と我と同根、万物と我と一体       (『碧巌録』 第四十則)  山川草木悉皆成仏              (仏陀悟りの時の言葉、出典・多岐)     ☆自然との共生の原点  尽十方世界は是れ一顆の明珠である      (道元『正法眼蔵』)  心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖        (『般若心経』)     ☆心に差障り[こだわり]がない、差障り[こだわり]がないから、恐怖もない  赤肉団上(しゃくにくだんじょう=肉体)に一無位の真人あり。常に汝ら諸人の面門 (めんもん)より出入す。            (『臨済録』)  随所に主(しゅ)と作(な)れば、立処(りっしょ=立つところ)皆真なり      ☆常に「主人公」(自由人)でいる。   (『臨済録』)  大用現前、軌則を存ぜず     ☆自然は人工的な規則などとは無縁な、大用現前(眼の前で現象している自然そのものは大き     く働いている)があるものであり、人間の判断や規則が及ばないものである。(『碧巖録』)  明珠掌(たなごごろ)に在り            ☆本当の自分、生れつきの能力は、すでに自分の中にある。  (『碧巌録』 第九七則)  犀の角のようにただ独り歩め         (『スッタニパータ』第一、三)  この世において、非難されずにいた者は、  どこにもいない。              (『法句経』二二七) わが齢は熟した。 わが余命はいくばくもない。 汝らを捨てて、わたしは行くであろう。 わたしは自己に帰依することをなしとげた。 汝ら修行僧たちは、怠ることなく、よく気をつけて、 よく戒しめをたもて。 その思いをよく定め統一して、おのが心をしっかりとまもれかし。 この教説と戒律とにつとめはげむ人は、生まれをくりかえす輪廻をすてて、苦しみも終滅するであろう。                 (中村元訳「ブッダ最後の旅--大パリニッバーナ経--」岩波文庫) 「アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人を たよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるな らば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、--誰でも学ぼうと望む人々は--」                 (中村元訳「ブッダ最後の旅--大パリニッバーナ経--」岩波文庫)    私は、いま、お前達に告げよう         諸々の事象は過ぎ去るものである。         怠ることなく修行を完成なさい。                  (中村元訳「ブッダ最後の旅--大パリニッバーナ経--」岩波文庫)  自分こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自分をよくととのえたならば、 得難き主を得る。        (中村元訳「真理のことば(ダンマパダ)160」)  (1)諸行無常―あらゆるものは変化し移り続ける。  (2)諸法無我―一人として独立して存在するものはない。  (3)涅槃寂静―悟りの境地の心は静かである。   (「三法印」松野宗純師解説)     神とはこの宇宙の根本をいうのである。    (西田幾多郎)  自分の体は、死ぬまで地球の材料をレンタルしているにすぎない。                   (レンタルの思想(松井孝典『コトの本質』))  坐禅するということは、大自然に生かされた自分を実証することであるが、その自分はいつもの自分 ではなくて宇宙とぶっ続きであり、宇宙いっぱいが自分ということである。                            (澤木興道)  坐禅は宇宙いっぱいとスイッチのつく法である。     (澤木興道)  ようサトリの背比べする奴がある。背比べするならサトリでないことは明らかである。                             (澤木興道)  哲学者や宗教家の最後のねらいは、この無情(山川草木)の説法を聞くという処にあるのではなかろ うか。宇宙いっぱいが、一切経であり、宇宙いっぱいが仏である。                            (澤木興道)  よう『これは大事なもんで』というが、じつは大事なものか。何も大事なものなんてありはせん。死 んでゆくときには、みんなおいてゆくんじゃ。   (澤木興道)  だれでもみんな、メイメイもちの穴からのぞいた世界からみておるもんな。そしてこのメイメイもち の見方、考え方を、みんながもちよるもんじゃから、世の中にはモメ(ごと)がおこる。                            (澤木興道)     ☆「世の中が自分の思惑通りにゆかないって別に不思議ではない」という智恵をはたら        かせると、自分自身もよっぽどラクになるし、他人とのモメもよっぽどふせぐことが        できるでしょう。      (上記の参、内山興正『宿なし興道法句参』)  乞食でも笑うことがあり、億万長者でも泣くことがある。なあに、大したことはないんじゃ。                            (澤木興道)  別嬪だってヘチャだって、死んでしまえばみんな同じこっちゃ。別嬪の骨だから上等で、エライもエ ラクナイもみんなありません。           (澤木興道)  死んでから、人生を考えれば、どうでもよかったのである。(澤木興道)  「堂々たる自己の坐り」をもつこと、そのとき「どちらにどうころんでもいい」という絶対的な宗教 の坐りがあります。                (澤木興道)  つまり一生の坐りとしての坐禅であり、生と死、迷いと悟り、我と一切とが分れる以前のところへドッ カリ坐る、仏法としての坐禅です。不生不滅、不垢(ふく)不浄、不増不減の坐禅です。                           (澤木興道)  人生とは矛盾である。『あいつあんなことをしやがった』といいながら、実は自分自身もしたいこと であったり・・・・・・                (澤木興道)  差別のわからぬのはバカだし、差別が気になるのは凡夫だ。(澤木興道)  しかしいま坐禅をするということは、その心識(あたま=余計な考え)を手放す。すると落っこちる。 考えていたことがふっと消えてしまう。そこに天地一杯の生命が現成する。                            (澤木興道)  坐禅してよくなると思っている。そうじゃない。「よしわるしを忘れる」のが坐禅じゃ。                            (澤木興道)  人生に失敗はない。愚痴があるだけだ。        (板橋興宗)  不幸のはじまりは、人と比べることにあり、人間の不安は後先を考えるから。                            (板橋興宗)  むだを堂々とやる!−− 禅の極意            (板橋興宗)  落ちこんだら、じたばたせずに、じっとしていればいい。 (有馬頼底)  (坐禅により)自分が宇宙になってしまわにゃいかん。  (加藤耕三)  思うて詮なきことは思わず               (関牧翁)  悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、如何な る場合にも平気で生きて居る事であつた。         (正岡子規)  前にも申し上げましたが、人がすぐ誰のために生きるか、何のために生きるかと、価値の根本を外に 求めるのは間違いです。オレが生きているということは、今ここに生きているのが根本なのだ。 [・・・]  だから何のために生きているかといえば、オレが生きるために生きるのだ。いまオレが生きているの がすべてです。いま生きていることが最高価値なのです。  [・・・たとえ寝たきり老人になったとしても・・・]  つまり自分がもう少しいいところへと考えるのではない。ただ、今、ここ。糞まみれの寝たきり老人 でありながらも、これが私の天地一杯、私のすべてなのだ。わたしにとってこれが一番大事なのだ、最 高価値なのだという狙いです。             (内山興正『正法眼蔵』)  心身一如                      (仏教語・「坐禅儀」)   遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生まれけむ  遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそゆる動がるれ   {『梁塵秘抄』)  なにせうぞ くすんで 一期は夢ぞ ただ狂へ     (『閑吟集』)  無心(=自我の執着から離れること、何ものにも束縛されない心) (『伝心法要』)  無為(=無作為、作為のないこと)           (老子・荘子・等)  「無為」―― 為スナカレ  これは何もするな、ってことじゃない。  余計なことはするな、ってことだよ。あんまり  小知恵を使って次々と、  あれこれの事を起こすな、ってことだよ。  そこに私たちの知らないタオの力が働いてる、  と知ることだ。  われらを運ぶ大きな流れがある  と知れば  小さな怨みごとなんて、  流れに流してしまえるんだ。            (『タオ――老子』加島祥造訳)  放下著(ほうげじゃく=放っておけ、執着するな)  (『従容録』第五十七則)  莫妄想(まくもうそう=妄想すること 莫(なか)れ) (『伝燈録』)  本来無一物                    (六祖慧能)  外、一切善悪の境界に向かって心念起こらざるを名づけて坐となし  内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす     (六祖慧能)  無一物中に無尽蔵あり  花あり月あり楼台あり               (蘇東坡)  足るを知る(知足)                (『仏遺教経』・『老子』)  帰りなんいざ  田園まさに蕪(あ)れなんとす           (陶淵明「帰去来の辞」)  心遠地自偏  心遠ければ地自づから偏なり  採菊東籬下  菊を採る東籬の下  悠然見南山  悠然として南山を見る  山氣日夕佳  山氣 日夕に佳く  飛鳥相與還  飛鳥 相與に還る  此中有眞意  此の中に眞意有り           (陶淵明「飲酒二十首」「其の五」)  山林に自由存す                   (国木田独歩)  渓声便(すなわ)ち是れ広長舌  山色あに清浄身に非ざらんや  夜来八万四千の偈  他日如何が人に拳似(こじ)せん    (蘇東坡・道元『正法眼蔵』「渓声山色」)  山河大地日月星辰(しょうしん)これ心なり。   (道元『正法眼蔵』「身心学道」)  三界唯心                    (道元『正法眼蔵』「三界唯心」)  いはゆる有時(いうじ)は、時(じ)すでにこれ有(いう)なり、有はみな時なり。   ........  しかあれば、松も時なり、竹も時なり。      (道元『正法眼蔵』「有時」)  たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるにあらず。しかあるを、灰はのち、薪は さきと見え取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後あり といへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひ となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。                          (道元『正法眼蔵』「現成公案」)  放てば手にみてり                (道元『正法眼蔵』「弁道話」)  大聖は生死を心にまかす、生死を身にまかす、生死を道にまかす、生死を生死にまかす                          (道元『正法眼蔵』「行佛威儀」)  生死のなかに仏がある。             (道元)  ただわが身をも、心をも、はなちわすれ、ほとけのいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、 これにしたがいもてゆくとき、ちからもいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。                          (道元『正法眼蔵』「生死」)  仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわ するるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身を して脱落せしむる。                 (道元『正法眼蔵』「現成公案」)  いたずらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり。かなしむべき形骸なり。                          (道元『正法眼蔵』「行持」)  まことに一事をこととせざれば、一智に達することなし。 (道元『正法眼蔵』「弁道話」)  而今(にこん、今、現在)の山水は古仏の道現成なり。  (道元『正法眼蔵』「山水経」)  春は花 夏ほとぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり (道元『傘松道詠』)  道元・現代日本語訳    今日一日の命は、今日かぎりの、    かけがえのない命なのです。    今日一日の身体は、今日かぎりの、    かけがえのない身体なのです。    心を込めて一つのことに集中しなければ、    何一つ大切な仏法の智慧を    習得することはできません。    信念を持って正しい生き方をしようと    思うのであれば、    「名をあげて有名になることなど、どうでもいい」    という考えでいなければなりません。    目の前に仏がいるというのに、    「私の救いの仏は、どこにいるのだ」と、    あちこちを探し回るのは、愚かなことです。    この世で名声を得たとしても、    それはただ一時期のものにすぎません。    名声など、あっという間に消えてなくなって    しまうでしょう。    仏道の修行には、    「これでいい」というものはありません。    たとえ悟りを得たとしても、    さらに修行は続いていくのです。       静かな森の中に身を置くことも、    仏道修行になります。    さわやかな風の音、清らかな水の音に    耳を澄ましていると、    仏の声が聞こえてくるように思えます。    自然の音の中から、    ブッダの真実の教えが聞こえてくるのです。  落ちやすきは命葉なり。たとえ、百年の齢を保つというも、わずかに三万日に過ぎざるなり。                              (螢山禅師)  いのちは時間  いのちは自分が使える時間          (日野原重明『いのちの時間』)  無用の用                    (『荘子』)  日に一キヨウ(穴)を穿つに、七日にして混沌死せり。    (「人間はだれしも七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり呼吸したりしている    が、この混沌にだけはそれがない。ひとつ試しに穴をあけてやろうじゃないか。」と)                          (『荘子』)  禍福は門なし、唯だ人の招く所なり。       (『春秋左氏伝』)  蝸牛(かぎゅう)角上(かくじょう)の争い    (『荘子』)  蝸牛 角上 何事をか 爭ふ,  石火 光中 此の身を 寄す。  富に 隨ひ 貧に 隨ひ 且(しば)し 歡樂せん,  口を開きて 笑はざるは 是れ 癡人。       (白楽天「酒に對す」)  天鈞に休(いこ)う              (『荘子』)    価値判断を中和した境地(天鈞=てんきん)にくつろぐ    価値観を超越した境地に立つ     無功徳                     (『景徳伝燈録』)     ☆功徳を越えた世界。 小さな見返りを期待しない  無所得                     (禅語)     ☆所有を離れた、所有こだわらない自在。  東山(とうざん)、水上を行く          (『雲門広録』 平田精耕『禅語辞典』より)     ☆動(水)・不動(山)という対立をこえた世界。  吾れ少(わか)くして 賤(いや)し、故に 鄙事(ひじ)に多能なるべし。(孔子『論語』)  人知らずして慍(いきど)おらず、亦(ま)た君子ならずや。(孔子『論語』)  学びて思わざればすなわちクラし、思いて学ばざれば殆(あや)うし。(孔子『論語』)   クラし=暗し・昏し・冥し(漢字なし)         吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にし て耳順(みみした)がう。七十にして心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず。                            (孔子『論語』)  遇と不遇は時なり                   (『荀子』)  争気有る者とは、ともに弁ずる勿れ           (『荀子』)  名を盗むは貨(か)を盗むに如(し)かず        (『荀子』)  肝(きも)は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す。 (『旧唐書』)     ☆「胆大心小」  常人は故習に安んじ、学者は聞く所に溺るる。        (『商君書』)  跛(つまだつ)者は立たず。自ら矜(ほこ)る者は長からず。 (『老子』)  大愚なる者は、身を終うるまで霊(さと)らず。       (『荘子』)  ひとつひとつの薪は燃えつきてしまうが、火は永遠に燃えつづけてゆくのだ。                             (『荘子』岸陽子訳)  いつだったか、わたし荘周は、夢で胡蝶となった。[・・・]はて、荘周が夢で胡蝶となったのであ ろうか、それとも胡蝶が夢で荘周になったのでのであろうか。                            (『荘子』岸陽子訳)  知るものは言わず、言うものは知らず          (『荘子』)  強梁なるものはその死を得ず              (『荘子』) 「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と、南山大師(空海)の筆の道にも見えたり。                            (芭蕉『許六離別詞』)  一、我(われ)事(こと)において後悔をせず。  一、神仏は貴し、神仏をたのまず。            (宮本武蔵「独行道」)  行蔵(こうぞう)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与(あず)からず我に関せじと存じ候。                             (勝海舟)  おれなどは生来(うまれつき)人がわるいから、ちゃんと世間の相場を踏んでいるよ。 上がった相場も、いつか下がるときがあるし、下がった相場も、いつかは上がるときが あるものさ。その上り下がりの時間も、長くて十年はかからないよ。  [・・・]その上り下がり十年間の辛抱ができる人は、すなわち大豪傑だ。おれなど も現にその一人だ。  おれはずるいやつだろう。横着だろう。しかしそう急(せ)いても仕方がないから、 寝ころんで待つのが第一さ。西洋人などの辛抱強くて気の長いのには感心するよ。                              (勝海舟『氷川清話』)  主義といい、道といって、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に 道といっても、道には大小・厚薄・濃淡の差がある。しかるにその一をあげて他を排斥 するのは、おれの取らないところだ。人が来てごうごうとおれを責めるときには、おれ は「そうだろう」と答えておいて争わない。そしてあとから精密に考えてその大小を比 較し、この上にもさらに上があるだろうと思うと、実に愉快でたえられない。                              (勝海舟『氷川清話』)  人を集めて党を作るのは、一つの私ではないかと、おれは早くより疑っているよ。人は 皆さまざまにその長ずるところ、信ずるところを行えばよいのさ。社会は大きいから、あ らゆるものを包容して豪も不都合はない。          (勝海舟『氷川清話』)  生業に貴賤はないけど、生き方に貴賤があるねえ。     (勝海舟)  面白きことも無き世を面白く               (高杉晋作)             人間の力なきことと真理の無限無窮なる事とを知る者は、思想のために他人を迫害せざるなり。                              (内村鑑三『基督信徒の慰め』)  学生期、家住期、林住期、遊行期 (四住期)        (インド古代伝統思想)     ☆特に「林住期」(壮年期後半、家庭から離れ、林に住む時期)の重要さ。  示ニ云ク、仏々祖々皆本(もと)は凡夫なり。凡夫の時は必ず悪行(あくごふ)もあ り、悪心もあり。鈍もあり、癡(ち)もあり。然レども皆改めて知識(=指導者)に従 ひ、教行(=教えと修行)に依リしかば、皆仏祖と成りしなり。                                 (『正法眼蔵随聞記』)  尽く書を信ずれば書なきに如かず              (『孟子』)  生は寄なり、死は帰なり                  (『淮南子』)     ☆「人間は大地の根源から生まれてくる。生を享けているこの世は仮の宿にすぎない。       死はまた生まれてきた根源に帰っていくだけのこと。だから嘆くこともないし、悲          しむこともないのだという。」(守屋洋)  直木は先ず伐られ、甘井は先ず竭(つ)く          (『荘子』)  独座大雄峰(独り大雄峰に座す)              (『碧巌録』)     ☆独り大雄峰として座す、独り大雄峰になって座す  邯鄲(かんたん)の夢                   (『枕中記』)     ☆盧生は五十年の栄華も一炊の夢と悟る。  世間が  頭のいいやつを褒めるもんだから  ひとはみんな  利口になろうとあくせくする。   (...)  世の中が  生きるに必要のないものまで  やたらに欲しがらせるから  みんな心がうわずってしまうんだ。   (...)  そうんなんだ  無用な心配と心配と余計欲をふりすてりゃ  けっこう道はつくもんだ、  行き詰っても――。            (『タオ――老子』加島祥造訳)  ぼくらはひとに  褒められたり貶されたりして、  びくびくしながら生きている。  自分がひとにどう見られるか  いつも気にしている。しかしね  そういう自分というのは  本当の自分じゃあなくて、  社会にかかわっている自分なんだ。   (...)  たかの知れた自分だけど  社会だって、  たかの知れた社会なんだ。   (...)  社会の駒のひとつである自分は  いつもあちこと突き飛ばされて  前のめりに走ってるけれど、  そんな自分とは  違う自分がいると知ってほしいんだ。     (『タオ――老子』加島祥造訳)  自処超然  処人藹然  有事斬然  無事澄然  得意澹然  失意泰然   自ら処する(対処する)ところ超然(ものにとらわれない)   人に処するところ藹然(あいぜん・好意をもってやさしく)   有事(ことがおこったとき)斬然(ざんぜん・きっぱりと)   無事(何もないとき)澄然(水のように澄みきっている)   得意(の時は)澹然(たんぜん・あっさりと)   失意(の時は)泰然(ゆったりと)                      (崔銃「六然」、佐々木敏光、註)  人生の大病は只だこれ一の傲(ごう=傲慢)の字なり。   (王陽明『伝習録』)  至道(しどう)無難。唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う。   (『信心銘』)     ☆至道、つまり仏心・悟りは難しいものではない。分別して、取捨選択することさえ避      ければよい。       不動とは、うごかずという文字にて候。不動と申し候ても、石か木のように、無性なる義理(意味) にてはなく候。向うへも、左にも、右へも、十方八方へ動きたきように動きながら、卒度 (わずか)も止まらぬ心を不動智と申し候。       (沢庵『不動智神妙録』)     ☆不動心 心を一カ所に止め置かない。止まらない、とらわれない心は動かない。  心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな         (沢庵)  煩悩即菩提                       (仏教語)  文字(もんじ)習学の法師の知り及ぶべきにあらず。    (道元『正法眼蔵』「弁道話」)     ☆真の仏法は経論の文字だけを 習学したような学者先生からは決して学ぶことはで      きない。  生(しよう)も一時の位(くらい)なり。死も一時の位なり。                             (道元『正法眼蔵』「現成公案」)  生きながら死人となりてなりはてて、おもひのままにするわざぞよき                             (至道無難禅師)  八大人覚  (覚めた人の八つの悟り)   小欲   知足   (足るを知る)   楽寂静  (静かな所で好んで修証する)   勤精進  (精進を勤める)   不忘念  (正しい心、坐禅の心を保つ)   修禅定  (禅定を修める)     修智恵  (知恵を修める)   不戯論  (余計な戯論はしない)            (道元『正法眼蔵』「八大人覚」)     ☆道元、最後の、まとめとなる説法。  仏となるのにまことにたやすい道がある。もろもろの悪を作らず、生死に執着する心がなく、一切衆 生のために、憐れみ深く、上を敬い、下を憐れみ、なにものも厭う心なく、願う心なく、心に思う心な く、憂いもなければ、それが仏[如来如去]である。このほかに思いはかることはない。                          (道元『正法眼蔵』石井恭二訳) 心はたくみなる画師の如く 種々の五陰をえがき 一切世界の中に 法として造らざる無し。 心の如く仏も亦しかり 仏の如く衆生も然り 心と仏と及び衆生とは 是の三差別無し。 諸仏は悉く 一切は心より転ずと 了知したまう 若し能く是の如く解らば 彼の人は真の仏を見たてまつらん。 心も亦是の身に非ず 身も亦是の心に非ずして 一切の仏事を作し 自在なること未だ曾て有らず。 若し人もとめて 三世一切の仏を 知らんと欲せば 応当に是の如く観ずべし 心は諸の如来を造ると。                 (「華厳唯心偈」)  慧可。「心を落ち着かせてください」  達磨。「心を持ってきなさい」  慧可。「心を探しても、何処にも見つかりません」  達磨。「探せても、それがお前の心であろうか。  慧可。「今初めて知りました。一切諸法はもとより空寂であることを。悟りは遠くにないことを。菩 薩は念を動かさないで、根源的な智慧の海に至り、念を動かさないで、涅槃の岸に登られる」                              (筑摩書房祖堂集より)  鶴は千年、亀は万年、我は天然              (仙崖・江戸期の臨済宗禅僧)     ☆天然とは、お任せするということ。  生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も  (一休宗純)  心頭を滅却すれば、火自ずから涼し        (甲斐の恵林寺の快川禅師(かいせん)、原詩は中国六世紀の杜筍鶴(とじゅんかく))  啓天愛人                        (西郷隆盛)     ☆天を敬い人を愛す  命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならで は、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。    (『西郷南州遺訓』)      老驥伏櫪 志在千里 烈士暮年 壮心不已(やまず)    (老いた駿馬は飼桶につながれていても千里を走る気持に変わりはないし、激しい気性の志士は 年をとっても意気盛んな心は抑えられない。)       (曹操「歩出夏門行」)    人生意気に感ず、功名誰か論ぜん   (人生は人間同士の意気に感じて事を為すのだ。 功名などは問題ではない)                              (魏徴「述懐」)  人生の福境禍区は皆想念より造成す。  (幸福不幸もすべて心の持ち方から生まれてくる。)    (『菜根譚』守屋洋訳)  天地は永遠であるが、人生は二度ともどらない。人の寿命はせいぜい百年、あっというまに過ぎ去っ てしまう。幸いこの世に生まれたからには、楽しく生きたいと願うばかりでなく、ムダに過ごすことへ の恐れをもたねばならない。                (『菜根譚』守屋洋訳)  人間の心は宇宙と同じようなもの、そのなかに、すべての宇宙現象が生起している。  すなわち、喜びの心は瑞祥を下す星や雲、怒りの心は雷鳴や豪雨、思いやりの心はそよ風や甘露、き びしい心は炎天や霜にあたる。  人間の心に起こるこれらの現象も、起こったかと思えば消え、からりとしてわだかまりを残してはな らない。そうすれば宇宙の現象とそっくり合致することができる。                              (『菜根譚』守屋洋訳)  逆境にあるときは、身の回りのものすべてが良薬となり、節操も行動も、知らぬまに磨かれている。  順境にあるときは、目の前のものすべてが凶器となり、体中骨抜きのされても、まだ気づかない。                              (『菜根譚』守屋洋訳)  小人からは、むしろ憎まれたほうがよい。取り入ってこられるよりも。まだましだ。  君子からは、むしろ厳しく叱責されたほうがよい。見放されて寛大にあつかわれよりも、はるかまし だ。                           (『菜根譚』守屋洋訳)  人間は所詮あやつり人形にすぎない。  ただし、あやつる糸をしっかりと自分の手に握りしめておけば、一本の乱れもなく、引くも伸ばすも、 行くもとどまるも、自由自在、すべての意思で行うことができる。  いっさい他人の指図を受けなければ、身は俗世にあっても、心も俗世を超越できるはずだ。                               (『菜根譚』守屋洋訳)  幸福は求めようとしても求められるものではない。つねに喜びの気持ちをもって暮らすこと、これが 幸福を呼び込む道である。                 (『菜根譚』守屋洋訳)  真空は空ならず。執相は真にあらず。破相もまた真にあらず。  (仏家のいう「まことの真」とは、大いなる実体であって、たんなる「空」ではない。現象に執着す れば実体を見失い、現象を無視しても実体はつかめない。)   (『菜根譚』守屋洋訳)  この山河さえ、やがて微塵となって砕け散るのだ。まして、ちっぽけな人間など、あとかたもなく吹 きとんでしまう。  人間の肉体はもともと泡の影のようにはかないもの。まして功名富貴など、影のまたかげにすぎない。  だが、すぐれた英知を持たなければそこまで悟りきることはできないのである。                              (『菜根譚』守屋洋訳)  おいあくま    「お」= 怒るな。    「い」= 威張るな。    「あ」= 焦るな。    「く」= 腐るな。    「ま」= 負けるな。  (註)建仁寺などでもつかわれている禅の生き方にかかわる言葉。財界人でも使っているひとが多い いようだ。庶民レベルでは「あおいくま」になるようだ。         ☆ 沙也可(さやか、1571年? - 1643年?)、文禄・慶長の役の際、加藤清正の配下として朝鮮に  渡ったが、投降して朝鮮軍に加わり、火縄銃の技術を伝えて日本軍と戦ったとされる人物であるが、  おおよそつぎのようなことを子孫にのこしているようである。       党派にくわわるべきではない。    栄達をかんがえるべきではない。    田畑をたがやし、学問をし、自分なりに立派なひとになるのだ。    それだけだ。         ☆ 一見単純なもののなかに複雑な仕組みが隠され、複雑なもののなかに単純な真理が隠されている。                         (『宇宙も終わる』竹内均)                  目次へ



上記以外(西洋等々)の知恵(智恵)・抄

 苦悩や落胆を味わった末、にもかかわらず笑う、これが真のユーモア精神。                 (デーケン 、小学館『千年語録』所載)  何も望まない  何も恐れない  私は自由            (カザンザキス)  どんな荒れ狂う嵐の日にも時間はたつのだ。                  (シェイクスピア『マクベス』小田島雄志訳)      もしぼくが、たまたま道徳論を書かねばならなくなったとしたら、ぼくが書くべき第一のも のは上機嫌についてであろう。   (アラン『幸福論』岩波文庫)  堂々と生きること、自分の心に激しい苦痛を与えないこと、そして伝染によって、大げさな 悲劇的なことばによって、他人に苦痛を与えないことである。                  (アラン『幸福論』岩波文庫)  人生の小さな不幸について、それを吹聴したり、見せびらかしたり、誇張したりしないこと である。             (アラン『幸福論』岩波文庫)  しあわせだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うからしあわせなのだ、と言いた い。                  (アラン『幸福論』岩波文庫)  人生には不愉快なことがらが多い。  だからこれ以上、不愉快なものを作る必要はない。                  (ルノワール(画家))  何も後悔はない   Je ne regrette rien. (歌手エディト・ピアフの歌)     ☆苦難に満ちた生涯の晩年(40代)の歌  どんな人生にも トラブルはあるさ  ただ心配すると 倍にしちまう  心配しない ハッピーにいこう   (Bobby McFerrin)  みどりの森がよろこびの声をあげて笑い  川がえくぼをつくり笑い流れるとき  空もわたしたちのはしゃぎに和して笑いころげ  緑の岡もそのこだまをかえし笑うとき                  (ウィリアム・ブレイク「笑いの歌」寿岳文章訳)  万象の光り輝く世界に出てくるがよい。そして、自然を師とせよ。                  (ウィリアム・ワーズワース『抒情歌謡集』)  習慣によって、甘味があったり、苦味があったり、色があったりすると思うが、現実に存在 するのは、原子と真空だけである。   (デモクリトス (大栗博司『超弦論入門』より)  特に肝心なのは、順境にあっていい気にならず、逆境にあってくよくよせず、楽しむ時に度を 過さず、怒った時にカッとなって粗暴に陥いらないことは、哲学から得られる功徳の最大なも のだと私は考える。        (プルターク『倫理論集』河野與一訳)  なにか人助けをするのでもないかぎり、他人のことを考えて自分の人生を無駄にするのはや めなさい。誰々はこれからどうするつもりなのか。また、あの人は何を言っているのか。なぜ そう言ったのか。そして、何をたくらんでいるのか。そんな他人のことばかりを考えていたら、 君の心はそれだけでふさがってしまい、君自身はそれだけでふさがってしまい、君自身が何か 有意義なことをするチャンスをなくしてしまうだろう。  私たちは、そのような当てのない思考を続けてはいけない。                  (マルクス・アウレリウス『自省録』池田+高井訳)  敵に対する最大の復讐というは、 自分が相手のようにならないことだ。                 (マルクス・アウレリウス『自省録』池田+高井訳)  それゆえ、快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、じつに肉体に おいて苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。                  (エピクロス『教説と手紙』岩波文庫)  われわれは、日常の私事や国事の牢獄から、われわれ自身を解放すべきである。                  (エピクロス『教説と手紙』岩波文庫)  亡くなった友人にたいしては、悲嘆によってではなく、追憶によって、共感を寄せようではな いか。              (エピクロス『教説と手紙』岩波文庫)    われわれは、哲学を研究しているように装おうべきではなくて、真に哲学を研究すべきであ る。なぜなら、われわれが必要とするのは、健康であるようにみえるということではなく、真 の意味で健康であるということなのであるから。                  (エピクロス『教説と手紙』岩波文庫)  水とパンで暮しておれば、わたしは身体上の快に満ち満ちていられる。そしてわたしは、ぜい たくによる快を、快それ自身のゆえではないが、それに随伴していやなことが起るがゆえに、唾 棄する。             (エピクロス『教説と手紙』岩波文庫)  十分にあってもわずかしかないと思う人にとっては、なにものも十分ではない。                  (エピクロス『教説と手紙』岩波文庫)  わたしは、決して、多くの人々に気に入られたいとは思わなかった。なぜなら、一方、何がか れらの気に入るかはわたしにはわからなかったし、他方、わたしの知っていたことは、かれらの 感覚からは遠くへだたっていたからである。                  (エピクロス『教説と手紙』岩波文庫)  隠れて、生きよ。        (エピクロス『教説と手紙』岩波文庫)  この世の誰一人として不幸を経験せずにいつも過せる者はいない。                  (キケロ『人生の幸福について』)  多忙な人間には何ごとも十分成し遂げることは不可能である。[...]実際多忙な人にかぎっ て、生きること、すなわち良く生きることは最もまれである。                  (セネカ『人生の短さについて』岩波文庫)  この世に何一つとして、自分の所有物だといえるものはないんだ。時間だけなんだよ、これぞ自 分のものといえるのは。      (セネカ『ルキリウスへの手紙』現代人への手紙・中野孝次訳)  どうしたら我々はこの不安(あと人生の残りの時間がどれだけあるかという不安)から逃れるこ とができるのか? それはただ一つ、人生を未来に置いて運んでゆくのでなく、ただいま自分自身 に集中させることによってだ。未来に依存する者には、現在は無意味になってしまうからだ。  [...]だから、わがルキリウス君、急いで今の君の人生を生きるがいい、そしてどの一日も が自分の人生であると思いなさい。このような心構えで生きる者、毎日を全部自分の全人生として 使いこなす者は、あらゆる不安から自由です。                     (セネカ『ルキリウスへの手紙』現代人への手紙・中野孝次訳)  我々は現実そのものによってよりも、想像によって苦しめられることの方がよほど多いのだ。                  (セネカ『ルキリウスへの手紙』現代人への手紙・中野孝次訳)  要するにわれわれの求めているのは、いかにすれば心は常に平坦で順調な道を進み、おのれ自身 に親しみ、おのれの状態を喜んで眺め、しかもこの喜悦を中断することなく、常に静かな状況に留 まり、決しておのれを高めも低めもしないということである。これがこころの平静ということであ る。               (セネカ『人生の短さについて』「心の平静について」岩波文庫)  また、心はいつも同じ緊張のうちに抑え付けておくべきではなく、時には娯楽に興ずるもよい。 [...]心も休みなく働くと、その活力をくじかれるであろうが、すこしでも解放されて休養する と、再び活力を取り戻すであろう。 (セネカ『人生の短さについて』「心の平静について」岩波文庫)  何か崇高な、他者をしのぐような言葉を発するには、心の感動がないかぎり不可能である。 [...]正気であるかぎリ不可能である。心は[...]かつては自分から恐れて登らなかった高 みへ引き立ててゆくべきである。  (セネカ『人生の短さについて』「心の平静について」岩波文庫)  もし君が本気で心の中にしっかりと刻みこまれる何かを得たいと願っているんだったら、一定の 巨匠のもとに留まって、彼らに養ってもらわなければだめだ。どこにでもいるということはどこに もいないということだからね。   (セネカ『ルキリウスへの手紙』現代人への手紙・中野孝次訳)  本当の自由とは、中傷など気にもとめず、わが心を喜びの湧き出る唯一の源泉とし、目に見えるさま ざまなことに思い煩わされない精神を持つことである。        (草柳大蔵訳『セネカ わが死生観』「賢者の不動心について」  世論に左右されて行動する人たちは、中傷と侮蔑の渦巻く中で暮らすことを覚悟しておかなくてはな らない。覚悟ができていれば、ことはいくらか軽く感じられるものであるから。        (草柳大蔵訳『セネカ わが死生観』「賢者の不動心について」  人間の偉大は彼が己の悲惨を知るからこそ偉大である。   (パスカル『パンセ』)  人間は考える葦にすぎない。自然界で最もかよわいものであるが、それは考える葦である。                  (パスカル『パンセ』)  神を知ることから神を愛するに至るまでの何と遠いことか!  (パスカル『パンセ』)  わずかな事が我々を慰める。わずかの事が我々を悲しませるのであるから。                  (パスカル『パンセ』)  人は己を知らなければならない。それは真理を発見するのに役立たないにしても、少なくとも生 活をととのえる上に役立つ。そして世にそれくらい正しいことはないのだ。                  (パスカル『パンセ』)  心情は、理性の知らない、それ自身の理性をもっている。    (パスカル『パンセ』)  理性の最後の歩みは、理性を超えるものが無限にあるということを認めることにある。それを知ると ころまで行かなければ、理性は弱いものでしかない。       (パスカル『パンセ』)  人間はもし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必 然的に気が違っているものである。               (パスカル『パンセ』)   もう秋か。 −−それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見 に心ざす身ではないのか、−−季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。                  (ランボオ『地獄の季節』小林秀雄訳)  すべてを疑え          (カール・マルクス)     ☆晩年、好きな標語な何かと娘に問われたときのマルクスの答え  豊かな人間とは、自身が富であるような人間のことであって、富を持つ人間のことではない                  (カール・マルクス)  自らの道を歩め。他人には好きに語らせよ」                  (カール・マルクス)  人間の先入見は、ひとそれぞれの性格にもとづき、その人の状態と密接に結びついているため、 これを克服することはおよそ不可能である。これにたいしては、明白な証拠も分別も理性もまった く影響を与えることができない。  (ゲーテ『箴言と省察』)  ある種の欠点は、その人の存在にとって不可欠である。                  (ゲーテ『親和力』)  すばらしい人生を築きたいと思ったら、  過ぎ去ったことを気にせず、  腹を立てないようつとめ、  いつも現在をたのしみ、  とりわけだれも憎まず、  先のことは神様にまかせること。                  (ゲーテ『詩集』「エピグラム風うに」)  心の底から出たものでなければ、  けっして心から心へ伝わるはずがない。                  (ゲーテ『ファウスト』第一部)  詩的作品は理知でつかめなく、測りきれなければきれないほど、よりよい。                  (エッカーマン『ゲーテとの対話』)  やたらに定義したところで何になるものか!状況に対する生き生きした感情と、それを表現する能力 こそ、まさに詩人を作るのだよ。   (エッカーマン『ゲーテとの対話』)  「何をそんなに考えていらっしゃるんでしょう。人間は決して考えてはなりません。考えると年を とるばかりです。・・・・人間は一つのことに執着してはなりません。そんなことをすると、気狂い になります。」                  (ゲーテ『イタリア紀行』馬車に同乗した一大尉の言葉)     知者がすでに千年も前に答えている問題を、無知な人は改めてまた得意げに提出するのだ。                  (ゲーテ『箴言と省察』)  生きることの目的は生きることそれ自体である(ゲーテ)  あなた自身を探しなさい。そうすれば、すべてを見つけることができるであろう。                       (ゲーテ『格言と反省』)  自分自身の心を支配できないものにかぎって、他人の意志を支配したがるものだ。                       (ゲーテ『ファウスト』)  愚かなものも賢いものもどちらも害にならない。半分ばかな者と半分賢い者がもっとも危険である。                       (ゲーテ『親和力』)  無知な人間が何でも知っていると言う。多くを知れば知るほど、疑問も多くなる。                       (ゲーテ『格言と反省』)  肉体は、一つの大きな理性である。統一した意味を具えた一つの多様体であり、戦争であるとともに 平和であり、畜群であるとともにそれを見守る牧人である。  私の兄弟よ。君が「精神」と名付けている君の理性でさえも、君の肉体の道具なのだ。肉体という君 の大きな理性に仕える小さな道具であり玩具なのだ。  君は「自我」と自称して、この言葉を誇りとしている。けれども、もっと偉大なものがあり──君は その存在を信じようとしないが──それは、君の肉体であり、肉体の持つ大きな理性なのだ。この理性 は、自我という言葉を口にしないが、しかし実は自我の振る舞いを遂行するものなのだ。(中略)  私の兄弟よ。君の思想と感情の背後には、一人の強力な支配者、一人の知られざる賢者が控えてい る。──その名が、本当の自己という奴なのだ。君の肉体の中に、その者は住んでいる。その者は、君 の肉体なのだ。          (ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』)  否、事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみ。                  (ニーチェ『権力への意志』)  真理とは、それなくしてはある特定の生物種族が生きることができないかもしれないような種類の誤 謬である。生にとっての価値が結局は決定的である。                   (ニーチェ『権力への意志』)  やむをえざる必然的なものは、私は傷つけはしない。運命愛は、私の最も内奥の本性である。                  (ニーチェ『この人を見よ』)  二種類の平等。―― 平等欲は、次のような仕方で現れることがある。つまり、他の人を全部自分のと ころにまで引きずり下ろしたがるか(ケチをつけたり、闇に葬ったり、妨害したりして)、あるいは他 の人全部と一緒に自分を引き上げたがるか(称賛したり、援助したり、他人の成功を喜んだりして)、 そのいずれかである。        (ニーチェ『人間的あまりに人間的』)  必要な一事。 ――人が持たねばならないものが一つある。生来の軽やかな心か、芸術や知識によって 軽やかにされた心か、である。    (ニーチェ『人間的あまりに人間的』)  腐敗した善から立ちのぼる臭いほどひどいものはない。                   (ソロー『森の生活』)   支那を知るようになってから、わたしは怠惰が大体から言ってひとびとに可能な最善の一つであると みなすようになったことを告白しなければならない。われわれは精力的であることによっていくらかの ことを成就しているが、はたして結局のところ、われわれの成就することが価値のあるものか、疑わし くなりかねない。     (バートランド・ラッセル『懐疑論』主婦の友社)  つまり、実際のところ真理の発見にいたる第一段階は、自分はまだ十分な認識には達していないのだ、 ということを認めるべきである。自分を正しいと思うこむ病気(the blight of cocksurenesse)ほど確 実に知的成長をとめてしまうものはない。100人の良識のある人の九九人までが、そうした病気でだ めになってしまう。しかも奇妙なことに、彼らの大半は、その病気におかされていることに気づいてさ えいないのだ。       (パース『草稿断片』)  ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間 でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにか なのだ。          (フランクル『新版 夜と霧』みすず書房)  強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的を見つめさせること、つまり、人 生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると、つねに思い出させることが重要だった。              (フランクル『新版 夜と霧』みすず書房)  哲学の目的は、思考の論理的明晰化である。  哲学は学説ではなく、活動である。  哲学の仕事の本質は、解明することにある              (『論理哲学論考』ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 野矢茂樹訳) 思想は、それだけ取って見ると、星雲のようなものであって、そのなかでは必然的に区切られているも のは一つもない。あらかじめ確定された諸概念などというものはなく、言語が現れないうちは、何一つ 分明なものはない。     (ソシュール『一般言語講義』小林訳)            <他者>は私にふり向き、私を問ただし、無限なものであるというその本質によって、私に責務を負 わせる。         (エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』(熊野純彦訳 岩波文庫)) 無限なものはふたつしかない 宇宙と人間の愚かさだ そのうち宇宙につては私にはわからない   (アインシュタイン) この世で難しいのは、新しい考えを受け入れることではなく、精神の隅々にまで根を張った古い考えを 忘れることだ。              (ケインズ)         ☆  「逆説の10カ条」        1.人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。 2.何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもな お、良いことをしなさい。 3.成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功しなさい。 4.今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。 5.正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で素直なあなたでいなさ い。 6.最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるか もしれない。それでもなお、大きな考えを持ちなさい。 7.人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦い なさい。 8.何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。 9.人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。そ れでもなお、人を助けなさい。 10.世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもな お、世界のために最善を尽くしなさい。          (ケント・M・キース著「それでもなお、人を愛しなさい」(早川書房 )に収録)     ★  ★  ★  (註:聖書を引用するのは、控えていた。引用にきりがなくなる可能性があるのだ。そう言えば、禅 をはじめ仏教についてももきりがなくなる可能性があるが、すでに引用している。いずれにしても、両 者とも、東西文化の基礎を構成するものであり、引用しないのも不自然である。極端な増殖を抑えて引 用することにする。)  あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、そ の日一日だけで十分である。              (『新約聖書』「マタイによる福音書6章」) 「また、なぜあなたがたは兄弟の目の中の塵に目を付けるが、自分の目の中の梁には気が付かない のですか。兄弟に向かって『あなたの目の塵を取らせて下さい。』などとどうして言うのですか。 見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。兄弟たち、まず自分の目から梁を取り除けな さい。そうすればはっきり見えて、自分の兄弟の目からも塵を取り除くことができます。」              (『新約聖書』「マタイによる福音書7章」) イエスは朝早く神殿に入ると、律法学者やファリサイ派の人々が、女を連れてやってきた。姦通の 現場で捕らえられた女である。彼らはイエスに言った。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセの 律法にある。あなたはどう思うか。」 イエスは答えた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 これを聞いたものは、一人また一人と立ち去り、女が残った。イエスは女に言った。「わたしもあ なたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」              (『新約聖書』「ヨハネによる福音書8章」) 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。              (『新約聖書』「マルコによる福音書」 8章36節) しかし、創造の初めから、 神は、人を男と女に造られたのです。 それゆえ、人はその父と母を離れて、 ふたりの者が一心同体になるのです。 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。 こういうわけで、人は、 神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」              (『新約聖書』「マルコによる福音書 10章」) 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。 愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、 怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。              (『新約聖書』「コリント書I 13章」)                  目次へ
 


東西コラボ・抄
(上記に引用した東西のもので、モンテーニュを中心に、類似点がある様でいて微妙に 差異がある文を並べ、コラボレーションしてみる。「コラボ」<と名付ける所以である。)
 ★心★  運命は我々を幸福にも不幸にもしない。ただその材料と種子とを我々に提供する だけである。それらを、それらよりも強力な我々の心が、自分のすきなように、 こねかえすのである。これが我々の心の状態を幸福にしたり不幸にしたりする・ 唯一の・おもな・原因なのである。                            (モンテーニュ『エセー』Iー14)  我々は現実そのものによってよりも、想像によって苦しめられることの方がよほど多いのだ。                  (セネカ『ルキリウスへの手紙』現代人への手紙・中野孝次訳)  三界唯心                      (道元『正法眼蔵』「三界唯心」)  心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな       (沢庵)  やむをえざる必然的なものは、私は傷つけはしない。運命愛は、私の最も内奥の本性である。                  (ニーチェ『この人を見よ』)  ★死★  どこで死が待っているかわからない。だから至るところでそれを待とうではないか。 死の準備は自由の準備である。死を学びえた者は屈従をわすれた。死の道はあらゆる 隷従と拘束とから我らを解放する。         (モンテーニュ『エセー』Iー20)  生まれては死ぬるなりけりおしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も  (一休宗純)  死んでから、人生を考えれば、どうでもよかったのである。    (澤木興道)  つまり一生の坐りとしての坐禅であり、生と死、迷いと悟り、我と一切とが分れる以前のところ へドッカリ坐る、仏法としての坐禅です。  不生不滅、不垢(ふく)不浄、不増不減の坐禅です。        (澤木興道)  ★主人公★  私はあらゆる意味で自分の主人公でありたい。   (モンテーニュ『エセー』IIIー5)  真の自由とは自分の上にどんなことでも成しうることである。《最も力ある人とは自己の主人と なることである》(セネカ)             (モンテーニュ『エセー』IIIー12)  だから、わがルキリウス君、急いで今の君の人生を生きるがいい、そしてどの一日もが自 分の人生であると思いなさい。このような心構えで生きる者、毎日を全部自分の全人生とし て使いこなす者は、あらゆる不安から自由です。                (セネカ『ルキリウスへの手紙』現代人への手紙・中野孝次訳)  随所に主(しゅ)と作(な)れば、立処(りっしょ=立つところ)皆真なり                           (『臨済録』)     ☆常に「主人公」(何ものにもとらわれない自由な主体)でいる。   ★傲慢・自信★  思い上がりはわれわれの生来の、そして始原の病気だ。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)  自説に固執し熱中するのは、ばかの最も確かな証拠である。                          (モンテーニュ『エセー』III−8)  人生の大病は只だこれ一の傲(ごう=傲慢)の字なり。                          (王陽明『伝習録』)  つまり、実際のところ真理の発見にいたる第一段階は、自分はまだ十分な認識には達していないのだ、 ということを認めるべきである。自分を正しいと思うこむ病気(the blight of cocksurenesse)ほど確 実に知的成長をとめてしまうものはない。100人の良識のある人の九九人までが、そうした病気でだ めになってしまう。しかも奇妙なことに、彼らの大半は、その病気におかされていることに気づいてさ えいないのだ。       (パース『草稿断片』)  ★学識★  われわれは、他人の学識によって学者になることができるとしても、すくなくとも賢明な 人間には、われわれ自身の知恵をもってしかなることができない。                          (モンテーニュ『エセー』I−25)   文字(もんじ)習学の法師の知り及ぶべきにあらず。   (『正法眼蔵』「弁道話」)     ☆真の仏法は経論の文字だけを習学したような学者先生からは決して学ぶことはで      きない。  ★書物★  わたしは物を書くとき、書物の助けをかりたり、かつて読んだことを思い出したりすることを しないようにする。書物がわたしの考え方に影響するといけないからである。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー5)  尽く書を信ずれば書なきに如かず              (『孟子』) 「古人の跡をもとめず、古人の求めたる所をもとめよ」と、南山大師の筆の道にも見えたり。                              (芭蕉『許六離別詞』)  ★ ★  人生の安楽をこんなに熱心に・またこんなに特別に・抱擁して誇りとしているわたしも、今こ うやってそれらをくわしくながめて見ると、ほとんど風を見い出すばかりである。だが今さら何 を驚こう? 我々はどこからどこまでも風なのである。いや風の方が、我々人間よりはまだ賢明 である。ざわざわと鳴ったりあばれたりすることが好きだけれど、かれ特有の努めに満足し、あ えてかれの特質でない安定や堅固を乞いもとめることがない。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー13)  山河大地日月星辰(しょうしん)これ心なり。   (道元『正法眼蔵』「身心学道」)  ★変化★  一つの生命の消滅は、千のほかの生命への移行である。                          (モンテーニュ『エセー』III−12)  ひとつひとつの薪は燃えつきてしまうが、火は永遠に燃えつづけてゆくのだ。                          (『荘子』岸陽子訳)   ★煩悩★  もしも、人間からこれらの特質(病的な性質−−野心、嫉妬、羨望、復讐、迷 信、絶望 など)の前芽を取り除くならば、われわれ人間の根本的な性状をも破壊することになろう。                          (モンテーニュ『エセー』III−1)  本当に苦痛の感覚を根滅するならそれと同時に快楽の感覚をも絶滅し、結局は人間そのもの を破壊することになろう。             (モンテーニュ『エセー』II−12)  煩悩即菩提                   (仏教語)  ★主義★  私は自分の尺度で他人を判断するという万人に共通の誤りを全然もち合わせない。私は、 他人の中にある自分と違うものを容易に信用する。自分もある一つの生き方に縛られている と思うけれども、皆のように、それを他人に押しつけることはしない。そして、たくさんの 相反する生き方があることを信じ、理解している。また、一般の人々とは反対に、お互いの 間にある類似より差異の方を容易に受け入れる。私はできるだけ、他人を私の生き方や主義 を共にすることから解放し、単に彼自身として、他とは関係なしに、彼自身の規範従って考 察する。                     (モンテーニュ『エセー』I−37)  主義といい、道といって、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に 道といっても、道には大小・厚薄・濃淡の差がある。しかるにその一をあげて他を排斥 するのは、おれの取らないところだ。人が来てごうごうとおれを責めるときには、おれ は「そうだろう」と答えておいて争わない。そしてあとから精密に考えてその大小を比 較し、この上にもさらに上があるだろうと思うと、実に愉快でたえられない。                              (勝海舟『氷川清話』)  ★心と体★  精神は肉体と極めて仲良しであって、しょっちゅうわたしが肉体の要求に追随するのをそのま まにゆるしている。だからわたしは、精神にだけ媚び彼とだけ仲よくなっていたのである。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー5)  心身一如                     (仏教語・「坐禅儀」)   ★内部★  世の人は常に自分の正面を見る。わたしは眼を内部にかえす。そこに据えてじっと離さぬ。各 人は自分の前を見る。わたしは自分の内部を見る。わたしはただわたしだけが相手なのだ。わた しは絶えずわたしを考察し、わたしを考察し、わたしを検査し、わたしを吟味する。他の人々は 常によそに行く。                 (モンテーニュ『エセー』IIー17)  外、一切善悪の境界に向かって心念起こらざるを名づけて坐となし  内、自性を見て動ぜざるを名づけて禅となす                          (六祖慧能)  ★自分★  われわれはいままでに他人のために十分に生きてきた。今度はせめて、わずかばかりの余命を 自分のために生きようではないか。[・・・]われわれを自分以外のところに縛りつけ、自分自 身から遠ざけるあの横暴な拘束から身軽になろう。あの強い束縛をほどかねばならない。 [・・・]何よりも大事なことは、いかにして自分を失わずにいるかを知ることである。                          (モンテーニュ『エセー』Iー39)  ぼくらはひとに  褒められたり貶されたりして、  びくびくしながら生きている。  自分がひとにどう見られるか  いつも気にしている。しかしね  そういう自分というのは  本当の自分じゃあなくて、  社会にかかわっている自分なんだ。   (...)  たかの知れた自分だけど  社会だって、  たかの知れた社会なんだ。  (...)  社会の駒のひとつである自分は  いつもあちこと突き飛ばされて  前のめりに走ってるけれど、  そんな自分とは  違う自分がいると知ってほしいんだ。     (『タオ――老子』加島祥造訳)  ★生★  糸はどこできれようと、それはそこで完成したのだ。そこが糸の端なのだ。最も意欲した死こ そ、最も美しい死である。生は他人の意志による。死に臨んでこそ、最も我々は我々の意志に従 わねばならない。                 (モンテーニュ『エセー』IIー3)  たき木はひとなる、さらにかへりてたき木となるにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさき と見え取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへど も、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるの ち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。                                       (道元『正法眼蔵』「現成公案」)  ★永遠の動揺★  世界は永遠の動揺にすぎない。万物はそこで絶えず動いているのだ。大地も、コーカサス の岩山も、エジプトのピラミッドも。しかも一般の動きと自分だけの動きとをもって動いて いるのだ。恒常だって幾分か弱々しい動きに他ならない。(モンテーニュ『エセー』III−2)  東山(とうざん)、水上を行く          (『雲門広録』 平田精耕『禅語辞典』より)     ☆動(水)・不動(山)という対立をこえた世界。  ★夢★  我々の生涯を夢にくらべた人は正しかった。おそらくその人たち自らが考えた以上に、我々 が夢を見ているとき、われわれの霊魂は生きている。その全性能を働かせている。目覚めてい るときと、まさり劣りはしないのである。[...]   我々は眠りつつ目覚めている。わたしは夢の中でそう明らかには見えないけれど、覚めてい るときだって十分滑らかに・曇りなく・見ることはないのである。                          (モンテーニュ『エセー』IIー12)  いつだったか、わたし荘周は、夢で胡蝶となった。[・・・]はて、荘周が夢で胡蝶と なったのであろうか、それとも胡蝶が夢で荘周になったのでのであろうか。                            (『荘子』岸陽子訳)  ★足るを知る★  我々の欲望は、その手元にあるものには眼をくれず、それを飛び越えて自分が持たないものを 追いかける。    [...] 我々に何かを禁ずることは、我々にそれを欲しがらせることになる。                          (モンテーニュ『エセー』IIー15)  十分にあってもわずかしかないと思う人にとっては、なにものも十分ではない。                   (エピクロス『教説と手紙』岩波文庫)  足るを知る(知足)                (『仏遺教経』・『老子』)  ★妄想★  嫉妬は精神の病気の中で、一番つまらぬ原因のために起こり、一番つける薬のない病気である。                          (モンテーニュ『エセー』IIIー5)  莫妄想(まくもうそう=妄想すること 莫(なか)れ) (『伝燈録』)  ★党派★    だが、市長とモンテーニュとは常に二つであって、截然と区別されていた。     ☆[註:モンテーニュは一時ボルドー市長をつとめた。公務のためといえども、自己の       良心の自由をいささかも譲るまいという意識。] [....]  私はそんなに深く、完全に、自分を抵当に入れることはできない。わたしの意志がわたし をある一派に与えるときも、それは無理な拘束によってではないから、私の判断理性がその ために害されることはない。            (モンテーニュ『エセー』III−10)  人を集めて党を作るのは、一つの私ではないかと、おれは早くより疑っているよ。人は 皆さまざまにその長ずるところ、信ずるところを行えばよいのさ。社会は大きいから、あ らゆるものを包容して豪も不都合はない。         (勝海舟『氷川清話』)  ★超然★  特に肝心なのは、順境にあっていい気にならず、逆境にあってくよくよせず、楽しむ時に度を 過さず、怒った時にカッとなって粗暴に陥いらないことは、哲学から得られる功徳の最大なも のだと私は考える。        (プルターク『倫理論集』河野與一訳)  自ら処する(対処する)ところ超然(ものにとらわれない)  人に処するところ藹然(あいぜん・好意をもってやさしく)  有事(ことがおこったとき)斬然(ざんぜん・きっぱりと)  無事(何もないとき)澄然(水のように澄みきっている)  得意(の時は)澹然(たんぜん・あっさりと)  失意(の時は)泰然(ゆったりと)                      (崔銃「六然」、佐々木敏光、註)  ★平気★  生命の喪失がいささかも不幸でないと悟った者にとってはこの世には何の不幸もない。                          (モンテーニュ『エセー』Iー20)  命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、 艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。    (『西郷南州遺訓』)  悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、如何なる場合 にも平気で生きて居る事であつた。          (正岡子規) ★こだわらない★  勝ちたいという強い欲望があまりにつよく働くとき、たちまち精神と手足が無分別と無秩序におちい る。われわれは自ら目がくらみ、ぎこちなくなる。  ところが、あまり勝負にこだわらない人は、常に自分を失わない。遊戯に熱中し、のぼせることが少 なければ少ないほど、いっそう有利に確実に勝負を進めることができるのだ。                          (モンテーニュ『エセー』III−10)  放下著(ほうげじゃく=放っておけ、執着するな)  (『従容録』第五十七則)  不動とは、うごかずという文字にて候。不動と申し候ても、石か木のように、無性なる義理(意味) にてはなく候。向うへも、左にも、右へも、十方八方へ動きたきように動きながら、卒度 (わずか)も止まらぬ心を不動智と申し候。       (沢庵『不動智神妙録』)     ☆不動心 心を一カ所に止め置かない。止まらない、とらわれない心は動かない。                  目次へ
 








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